第1話 鉄紺(てつこん)の記憶
※この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
1. 藍の檻
十年前のあの日も、今日と同じように長く激しい雨が降っていた。そんな日はデニムの声がよく聞こえる。染屋吉之の経験から来るものだった。
東京の喧騒から少し離れた、小田急線の沿線沿い、神奈川県の新百合ヶ丘駅と柿生駅の中間辺りにある築四十年の古びた木造家屋の一階を改装したその場所が、染屋吉之のジーンズ工房と古着屋が併設してある彼の城だった。
古着屋の名前は『The Vintage』、ジーンズ工房は『Pure Blue』。
10年ほど前、20年続けたアパレル会社を辞め、自分の店を始めた。
店の中は古着のジーンズ、色褪せたプリントTシャツ、デニムジャケット、MA-1、何年も着古したであろう最高級の牛革のA-2。新品のジャケットにはない歴史が刻まれ、色気が漂う。またM51やN3B……アメカジだけでなくミリタリー系も揃っている。
そして、その奥には彼の工房がある。
五十歳。人生の折り返し地点で、男は自分の居場所を選び直した。
一台のユニオンスペシャルのミシンと、壁一面に積まれたヴィンテージ・デニムの山。
会社員を続けるよりも、こちらのほうが正しいと、迷いはなかった。
基本的に全て手作りのジーンズである。
生地の選定、デザイン、縫製も全て1人でこなす。完全受注制ではあるが、自らジーンズの制作もする。
10年も続けていると、口コミで新規のお客さんがコンスタントに来てくれる。
「……ふぅ、湿気がいかんな」
染屋は、ジンバブエコットンの柔らかな感触を指先で確かめながら、独り言を漏らした。
大学卒業後、大手アパレルメーカーに入社し、当時、既にビンテージジーンズのブームに入っており、それを肌で感じながらジーンズブームを最前線で駆け抜けた。デザイン、パターン、買付け、企画、宣伝広告。若き日の彼は、デニムという青い海を自在に泳ぐ航海士だった。
始めのうちは試行錯誤し実験的なジーンズを制作することが出来たが、売上を求められるようになり、本当に作りたいものから少しずつ離れていくジレンマが出てきたが、数万本という単位で「消費」されていく自分の作品を見るうちに、染屋の心は少しずつ摩耗していった。
使い捨てられる服ではなく、誰かの人生を共にする服を作りたい。
20年ほど働き、様々な業務に携わり何処かで自分のブランドを作りたいという気持ちが年々強くなっていった。また、それと同時に学生の頃から古着が好きで、趣味で色々な古着、特にジーンズを買っていた。新品のジーンズにはない別の魅力が詰まっていた。生地を触りながら前の持ち主はどんな風にこのジーンズを扱っていたのだろう。補修跡を見れば大事に履いていたのに何で売ってしまったんだろう。など、色々と思いを馳せていた。
そして、20年目に入った時、自分の中で一区切り付いた様な感じがした。
会社を辞め、この小田急線沿線沿いにこの工房を構えてから早10年。生活は決して楽ではなかったが、確信があった。デニムという生地には、他のどの布にもない「深淵」があるという確信が。
2. 邂逅
まだ古着屋と工房を始めて間もない頃、会社員時代からの知り合いである古着ブローカーが持ち込んできた「山」を検品していた。雑多なワークウェアや、安価な中古品が混じる中、その一本が視界の端に刺さった。
「これは……」
染屋の動きが止まる。
手を伸ばし、その〝山〟の中にあった古びたジーンズを手に取った。
それは、左綾だった。
右綾が定番であるのに対し左綾を採用するとは珍しいなと思った。
丁寧にそれを見ていく。経糸の撚りと同じ方向に織り上げられたその布面は、三十年の時を経て、なおしなやかな光沢を失っていない。
太腿周りにゆとりを持たせながら、足首にかけて緩やかに絞られる美しいシルエット。それは、彼が三十年前に社運を賭けて設計した、あのモデルだった。
『STAY BLUE Lot.1003xx』
革パッチは擦り切れ文字は所々読めないが間違いなくあのモデルだ。
若き日の染屋が、アメリカのデットストックで見つけた1955年モデルの501を解体し、再構築した処女作。当時、アパレル会社としては中堅クラスであったが、ジーンズ業界に新規参入し、新たに立ち上げたジーンズブランドの第一号は当時年間2万本以上の大ヒットに導いた伝説の一本だ。
「まさか、こんなところで再会するとはな」
染屋は苦笑した。それは彼自身の青春の残骸でもあった。
ジンバブエコットンという、当時はまだ珍しかった超長綿を贅沢に使い、本来はリーバイスの十八番である55モデルの形に、あえてLeeの象徴である左綾(ジーンズを正面から見た時、綾が左上に走るデニムのこと)を組み合わせた実験的なジーンズだった。
当時、このジーンズがブームになったのはいくつかの理由があった。まず、旬の男性アイドルをCMに起用したことで、多くのファッション雑誌に掲載されたことにより、多くの若者がこのジーンズを購入した。が、ジーンズマニアからは不評だった。何を主張したいのか全く分からないと批判もあった。老舗のデニム雑誌に批判されていたのを今でも覚えている。
が、結果的に商業面では成功し、伝説の一本とまで言われるようになった。
彼は懐かしさに駆られ、無造作に裾の折り返しに指をかけた。
そこには、前の持ち主が施したであろう、不器用な手縫いのステッチがあった。工業用ミシンの均一な縫い目ではなく、太い綿糸で一針一針、大切に補強された形跡。
その、黄ばんだステッチに指先が触れた瞬間だった。
3. 覚醒
脳に電流のようなものが走った。
「……っ!?」
激しい眩暈が染屋を襲ったのと同時に、視界がぐにゃりと歪み別の景色が入り込んできた。
始めは鼻を突くような真夏の雨上がりのアスファルトの匂い。そして、安っぽい香水の甘い香りだ。
また視界が歪み、再構築される。
染屋の意識は、見知らぬ若者の視点へと同期していた。
場所は、夕暮れ時の展望台。
目の前には、白いワンピースを着た若い女性が立っている。若者は極度の緊張に震えていた。膝ががくがくと笑い、デニムの硬い生地が皮膚にこすれる。
(……ああ、これは『Lot.1003xx』の初期型だ。まだ糊が落ちきっていない、あの独特の肌触りだ……)
染屋は、自分の意識が若者の「皮膚」を通じてジーンズの感覚を共有していることに気づき、愕然とする。
若者は意を決して、女性の前で片膝をついた。
アスファルトに接触した右膝の生地が、ジンバブエコットンの柔軟さゆえに、若者の肉体の動きにしなやかに追従する。右綾なら突っ張っていたであろうその瞬間、左綾の生地は逃げ場を作り、若者の決意を優しく支えていた。
「結婚してください」
震える声。女性が驚き、そして満面の笑みで頷く。
二人が抱き合った瞬間、若者の体温が急上昇し、発せられた熱がインディゴの粒子を媒介にして生地の奥底へと吸い込まれていく。その歓喜、その安堵、その生命の躍動。
(これは……このジーンズが見た、記憶か?)
次の瞬間、時間は加速した。
子供を抱き上げた時に擦れた腿の跡。
仕事で挫折し、一人で泣きながら歩いた雨の日の重み。
何度も何度も洗濯され、色が落ち、生地が痩せていく。
だが、その度に、左綾特有のシャープな「縦落ち」が、まるで男の人生の年輪のように刻まれていく。
最後に染屋が見たのは、40代後半から50代くらいの男が、ボロボロになったそのジーンズを、愛おしそうに撫でながらゴミ袋に入れ古着屋へ持ち込む姿だった。
「今迄ありがとう。お疲れさん」
男の呟きが聞こえた気がした。
4. 鉄紺の真実
「……はぁ、はぁ、はぁっ!」
気づけば、染屋は工房の床に膝をついていた。
全身が汗でびっしょりと濡れている。手の中には、先ほどまで触れていた『Lot.1003xx』が、何事もなかったかのように静かに横たわっていた。
だが、染屋には分かっていた。
今見たのは、ただの白昼夢ではない。
彼はかつて、広告のキャッチコピーに「ジーンズは歴史を刻む」と書いた。だが、それは単なる比喩ではなかったのだ。
デニムという生地は、縦糸と横糸の複雑な交差の間に、履く者の感情や記憶を電気信号のように、あるいは香りのように閉じ込める性質を持っている。特に、彼がこだわったジンバブエコットンの長い繊維は、その記憶をより深く、より鮮明に保持するための導線となっていた。
「俺は、なんてものを作ってしまったんだ……」
染屋は震える指で、もう一度そのジーンズに触れた。
今度はビジョンは現れなかったが、指先からは言葉にできない温かみが伝わってくる。
このジーンズは、あの男の人生を二十年以上も守り続けてきたのだ。
プロポーズの緊張、育児の疲れ、挫折の痛み。
それらすべてをこの鉄紺の布は吸い込み、その結果として、この美しい「縦落ち」を作り上げた。
染屋は立ち上がり、おもむろに古いミシンへ向かった。
彼の目は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
ただの古着を直す職人の目ではない。そこに宿る記憶を読み解き、死にかけた歴史を再び未来へと繋ぎ合わせる、「語り部」の目になっていた。
「デニムは、記憶を記録する。そして、俺にはそれを聞く力がある」
染屋吉之の、本当のジーンズ人生が今、幕を開けた。
彼は、工房の棚の奥に隠していた最高級のインディゴ糸を取り出した。
あの日、公にすることを諦め封印した、あの「未解決事件」の記憶が宿るジーンズ。そして、ロックスターが履き潰したヴィンテージジーンズ。それらの話を少し紹介したい。
「pure blue」の小さな工房の中に、ミシンのリズムが力強く響き始めた。
鉄紺の海に潜り、忘れ去られた人々の魂を救い出すための、長く孤独な旅。その一歩目は、自分がかつて放った一本のジーンズとの、運命的な再会から始まったのである。




