プロローグ 「命の温度」
僕は龍崎一磨。
どこにでもいそうな二十四歳の普通の人間。
少なくとも、自分ではそう思っている。
スーツでも作業着でもない私服を着ている。
流行からは少し遅れているが、
だからといって目立つわけでもない。
アスファルトを叩く水音が、一定の間隔で続いている。
止まらない。
この世界が今日も何事もなく動いていると、示しているみたいだった。
街灯の下を、僕は一人で歩いていた。
傘は差していない。
濡れることを、もう気にしなくなっていたから。
僕は同年代の友人や知り合いと比べて、
物事に対しての探求心が、少しだけ強い。
例えば、1+1はなぜ2になるのか。
なぜ、ボールを空に向けて投げると落ちてくるのか。
いや、そりゃ分かっている。
リンゴが一つと、もう一つあれば二だし、
この地球には重力というものがある。
でも、そうじゃないんだ。
こういう当たり前を、
どうしても考え続けてしまう。
答えは知りたいが、
その物事について深く考えること自体が、好きだった。
この好奇心は、
どんな分野に対しても、だいたい同じだ。
ポケットの中で、スマホが震える。
反射的に画面を見る。
ニュースアプリ。
SNS。
動画サイトのおすすめ。
未読の通知。
指を動かすだけで、情報は際限なく流れ込んでくる。
誰かが叩かれ、
誰かが頭を下げ、
誰かが夢を叶えたと笑い、
誰かが数字を叩き出して称賛されている。
再生数、いいね、フォロワー。
全部、数字だ。
価値は数字になり、数字にならないものだけが、
いつの間にか切り捨てられている。
……すごいな。
でも、本当にすごいことなのか?
そう思った瞬間、
自分がその「すごさ」の外にいることだけは、はっきり分かった。
僕は、今日なにをしたんだろうな。
朝起きて、顔を洗って、
スマホを見て、ニュースを流し見して、
何かを分かったような気になって、
生きるために必要なことだけをやった。
それだけだ。
メッセージに既読をつけて、返信もした。
気になる投稿に共感して、コメント欄まで読んだ。
そのとき、
胸の奥、心臓より少し深いところで、
ぎゅっと、鈍い音がした。
息が、一拍遅れた。
ニュース映像。
失われた命。
取り返しのつかない出来事。
見慣れているはずの光景が、
今日は、やけに重い。
考えないようにしてきた。
でも、胸に残った。
「……人って、なんで分かり合えないんだろうな」
水たまりに映った自分に、そう呟く。
情けない顔だった。
何かを考えているようで、
何も決めていない顔。
答えが返ってこないことも、
考え続けても意味がないことも、分かっている。
それでも。
ほんの少し、立場が違えば。
ほんの少し、勇気があれば。
ほんの少し、早く手を伸ばしていれば。
救えた命が、あったんじゃないか。
……いや。
違う。
僕は知っている。
救えなかった理由を。
怖かった。
責任を負いたくなかった。
正解を間違えたくなかった。
だから「何もできなかった」で、全部を片付けた。
無力。
便利な言葉だ。
世界は今日も回り続ける。
正しい顔をした仕組みが、
何事もなかったみたいに、今日も動いている。
その中で、僕だけが立ち止まったままだ。
そのときだった。
交差点の向こうから、怒鳴り声が聞こえた。
「だから、危ないって言ってるだろ」
「うるさいな、急いでるんだよ!」
信号待ちの人混み。
その端で、一人の少年が立ち尽くしていた。
小学生くらい。
ランドセル。
雨で濡れた靴。
視線は下を向いたまま。
傘も差さず、信号も見ていない。
スマホに夢中な大人たちの流れに、完全に置き去りにされている。
あ。
胸の奥が、ひくりと嫌な音を立てた。
大型トラックが、水しぶきを跳ね上げながら右折してくる。
雨で視界は悪い。
速度は落ちていない。
少年は、気づいていない。
周りの大人たちは。
気づいているのに、動かない。
「誰かがやるだろ」
空気が、そう言っていた。
その瞬間、僕は理解した。
これだ。
これが、
僕がずっと見てきたものの正体なんだ。
選ばれる命。
選ばれない命。
世界は、こうやって命を切り分けてきた。
ふざけるな。
そんな理屈で、命を片付けるな。
考えるより先に、身体が動いていた。
走る。
運動不足の脚が、すぐに悲鳴を上げる。
筋肉が引きつる。
これ、あとで痛くなるな。
靴が滑る。
息が詰まる。
正直、怖かった。
間に合わないかもしれない。
失敗するかもしれない。
それでも。
今動かなかったら、
また無力って言うだけだ。
「はぁッ危ない!!」
少年に手を伸ばす。
クラクションが鳴った。
視界が白く弾ける。
衝撃。
身体が、浮いた。
右肩と肋骨が潰れる感覚。
息をするたび、肺が痛む。
それでも。
視界の端で、少年が転がりながらも轢かれなかったのが見えた。
……ああ。
選ばせなかった。
ざまあみろ。
この世界の「仕方ない」に。
それを受け入れてきた、僕自身にも。
「くあッハ……グフッ!」
地面に叩きつけられながら、
それだけは、はっきりしていた。
僕は、
誰かが決める前に、選んだ。
世界が決める前に、動いた。
視界が暗くなる。
音が遠ざかる。
スマホ、割れたかな。
どうでもいいことが浮かんで、少し笑いそうになる。
人の役に立つって、こういう感じなのかな?
悲鳴と、僕を呼ぶ声が重なって、
世界は歪み、紫色に滲んでいった。
そして、僕は死んだ。
拍子抜けするほど、あっけなく。
でも。
意識は、途切れなかった。
真白な闇の中に、確かに何かがあった。
形はない。
声もない。
ただ、圧として存在している。
それでも分かる。
世界のすべてを定める、根っこのようなもの。
『命ハ、律ニヨッテ選定サレル』
『在ルベキモノハ在リ、在ラザルモノハ消エル』
理屈としては、完璧なのかもしれない。
だからこそ、息が詰まる。
冷たい。
合理的で、容赦がない。
だから、僕は笑った。
そんなもの、認めるか。
それは、
僕の存在を丸ごと否定する仕組みに見えた。
選ばれ、切り捨てられていく在り方に、もう疲れていた。
「……だったら、僕は消える側でいい」
「でも」
「でも、命を消すかどうかを、勝手に決めるのは違うだろ!」
白い闇が、わずかに揺れた。
冷たいはずの空間が、
一瞬だけ、温かくなる。
その温度だけが、
今の僕を、ここに繋ぎ止めていたような気がした。
次の瞬間。
光が崩れ、世界が組み替わる。
白が青に変わり、
色が戻っていく。
そして、僕は再び息をした。
身体にはまだあの慣れ親しんだ重さを感じない。
ふわふわと浮いているような感覚だ。
見上げた先には、
地球では見たことのない星空。
二つの月。
ここは、どこだ?
答えなんてない。
でも、胸の奥の熱だけは消えていなかった。
死んだはずなのに。
もう一度、やり直せってことか。
正直、疲れた。
休ませてほしい。
二十四年間。
無駄な人生だったとは思わない。
でも、
本気で生きたかと聞かれたら、
胸を張れない。
……もし、生まれ変われるなら。
今度は、
選ばせないって思った命を、
見捨てない生き方がしたい。
怖くないかって言われたら怖いよ。
でも、不思議と嫌じゃない。
もう、命を選ばせない。
世界がどう決めようと、関係ない。




