7.バネッサの焦燥
「なんで、どうして……!?」
ベルモンドが部屋から去ったのを見届けて、バネッサは爪を噛んだ。
なんとか彼の前では平静を保てたのだが奇跡だった。
――あの字は、クロエの字だわ。
仮にも義姉だった人間の字だ。見間違えるはずがない。
専門の文筆家にも匹敵する美しい字。いつも比較されてきた義姉の字だ。
レイデフォン王国で育ったバネッサは完全な貴族教育を受けていない。
特に文字関係は練習も嫌でいまだに低レベルだ。
だからこそクロエの字ははっきりと覚えているし、憎らしい。
ぎりっと爪を噛む力が強くなる。
「なんで、いまさら。もうあの人は終わったはずなのに」
クロエは三年前の婚約破棄から王都に戻ってきていない。
父であるペドローサ公爵も死んだ今、彼女と繋がるような貴族もいないはずだ。
それなのにバネッサの心臓はどくどくとうるさく動く。
背は冷や汗でびっしょりと濡れていた。
ベルモンドがクロエの書いたものをなぜか持っている。
それだけの事実でバネッサは震えが止まらなくなっていた。
「嫌よ……! この場所は私のものなんだから」
バネッサはペドローサ公爵とレイデフォン王国の没落貴族との娘である。
さらには生まれ育ちもレイデフォン王国であった。
父さんが本当に愛したのは私とあなたなのよ。母の口癖はこれだった。
――嘘ばっかりよ。私と母さんを捨てたくせに。
幼少期のバネッサにはいい思い出がほとんどなかった。
公爵から贈られてくるわずかなお金だけが頼りの、慎ましい貧民生活。
見上げればスモークに覆われた市街地の薄汚れた壁。
ボロの服を着て、貴族の娘という虚像にすがっていた。
だが、そんなバネッサの転機は十五歳の頃に訪れた。
死病で寿命が尽きかけた母が、一か八かで公爵に連絡を取った。
正直、バネッサは父に全く期待もしていなかったが、結果は驚くべきものだった。公爵はバネッサを正式な娘として引き取ったのだ。
母はそれに安堵して亡くなり、バネッサの新生活がエスカリーナ王国で始まった。
そこでバネッサは初めて腹違いの姉であるクロエと対面した。
最初の顔合わせでクロエはバネッサに優しく語りかけた。
「あなたがバネッサ? これからよろしくお願いね」
「……はい、お義姉様」
「何か困ったことや聞きたいことがあったら何でも言ってね。力になるから」
軽やかで愛情に満ちて、何もかもが腹立たしいほどに正しい姉。
クロエは完璧だった。優れた容姿と知性を併せ持つだけでなく、性格さえも。
バネッサを新しい家族として迎え入れて、分け隔てなく接してくれた。
だが、それでもバネッサはエスカリーナの貴族社会に適応するのに相当な苦労を強いられた。
無理もない。バネッサは他国で生まれ育ったのだから。
しかも没落貴族と公爵家では全く違う。
礼儀作法、教養……学ばなければいけないことは山ほどあった。
この頃、教師や本に追われる悪夢を見たのは一度や二度ではない。
そうして悲鳴を上げながらペドローサ公爵の娘になっても、先には常にクロエがいた。
もちろんクロエも努力は重ねていたが、バネッサの心中は穏やかではなかった。
――私だって最初から同じスタートだったなら。
きっとあの姉と同じくらいはできたはず。こんなに苦労しなくても良かったはず。
クロエには全てが用意されていた。高貴な家柄、約束された地位、婚約者の王子様。
それら全部がバネッサには妬ましかった。
最初は貴族の娘として、憂いなく生きていけるだけで満足できたはずなのに。
しかしバネッサは欲しくなってしまった。クロエの持っていたモノが……。
「私にだって権利はあるはずよ。絶対に」
最初は奪い取るつもりなんてなかった。
単に多忙な姉の代わりにベルモンドと接するだけ。
そのはずだったが、思いのほかベルモンドはバネッサに興味を示した。
バネッサはエスカリーナの貴族女性らしくなく、刺激的で新鮮だったのだ。
ベルモンドが求めていた資質をバネッサは奇跡的に持ち合わせていた。
そこに気付いた時、バネッサに野心が芽生える。
――そうよ、ベルモンド様も本当は私のモノだったんだから。
バネッサも背徳とスリルに身を焦がし、ベルモンドを誘惑した。
そこから先は簡単だった。まさにゲームのようにクロエを追い落としたのだ。
ベルモンドを愛する必要さえなかった。
敷かれた道に反発していた彼は、積極的にバネッサになびいたのだから。
クロエは出来過ぎた女だった。
バネッサと比べ物にならないほど賢くて、仕事を任されていた。
亡き王妃のみならず、病気がちだったトルカーナ四世の仕事も一部代行していたのだ。
病弱な身体に鞭を打って――その上で女性としてベルモンドを相手にするのは不可能であった。その引け目もあったのかもしれない。
結局、クロエはベルモンドより国と仕事を優先せざるを得なかったのだ。
「私は悪くないんだから」
バネッサがイライラしながら部屋を歩き回る。
一体、ベルモンドはどうしてクロエの字が書かれたモノを持っているのか。
そんなことはこれまで一度もなかったのに。バネッサも気が付いてはいた。
ここ最近ベルモンドは多忙のためとか言って、バネッサに割く時間を減らしている。
政務で忙しいのはあるだろう。でも、本当にそれだけなのだろうか。
裏でクロエやその派閥と繋がっているのでは疑念が巻き起こってくる。
財政官の件もそうだし、今の指輪のやり取りだってそうだ。
この美しいサファイアの指輪も手放さないといけない。
疑えば疑うほどベルモンドの行動が怪しく見えてくる。
「せっかく手に入れた、王妃の地位を渡すわけにはいかないわっ……」
バネッサはベルモンドの手をついたテーブルを睨む。
何か、手を打たなくては。
バネッサはテーブルの上に置かれた呼び鈴をけたたましく鳴らした。
主の怒りに満ちた呼び出しを受けてメイド長が即座に入室してくる。
あの女だけには絶対に負けない。負けてなるものか。
バネッサは唇の端をいびつに曲げた。
それがさらなる破滅を呼ぶことになるとも知らずに――。
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