21.地獄の炎
こうしてベルモンドは王都から出立し、バネッサは王都に残されることになった。
代わって王都を取り仕切るようになったのがシャンテであった。
直系王族であるシャンテの威光はやはり大きい。
バネッサとシャンテの仲が険悪であっても、執務は滞りなく進む――ベルモンドとシャンテの意図した通りに。
翌日、シャンテはバネッサの住まう宮に現れて宣言した。
「お兄様が不在の間、新たな夜会は禁止とさせて頂きます」
「……っ!」
「今は遊興に国庫と時間を費やすべき時ではありません。わかりますわよね?」
「いい気にならないでよ……!」
バネッサが凄むが、シャンテは動じない。
生まれ持った王族の血がシャンテにもしっかりと流れていた。
「これはお兄様の決定でもあります。もし不満があるのなら、お兄様にどうぞ」
シャンテは唇の端に笑みを浮かべている。
バネッサはその時、シャンテが昨夜のことをベルモンドから聞いているのだと悟った。
(この、今まで離宮で引きこもっていた女が……っ!)
バネッサは目からあふれる憎しみを隠し通せない。
シャンテがバネッサの隣にいるシズへ話しかける。
「シズ、リンゼットの脅威がなくなるまで国庫は極力引き締めます。無駄遣いされることがないよう、しっかりと見張っていて」
「畏まりました。ただ――今夜、士気高揚のためということで夜会がセッティングされています。こちらはいかがいたしましょうか?」
バネッサ自身もすっかり頭から抜け落ちていたが、そうだった。今日は夜会をやるよう命じていたのだ。
「……参加者は?」
「リンゼット以外の外国からも外交官が多数参加されます。エスカリーナの軍務省からも多数の軍人が出席する予定です」
「なるほど、士気高揚……今から取り止めてはいらぬ詮索を受けそうですね。いいでしょう、予算は見直しますが今夜の夜会は許可して差し上げます」
シャンテの物言いにバネッサは一瞬、首へ掴みかかりそうになった。
日に当たらないため青白く、細すぎるシャンテの身体――こんなひ弱な女なら、ひとひねりできそうなのに。
「それでよろしいですわね、義姉上」
「……好きにしなさい!」
バネッサがそう言うと、シャンテは優雅に身を翻してバネッサの宮から立ち去っていった。
かすかにイチゴに似た香水が残る。
「私の宮にふさわしくない香りよ、あの女……っ」
バネッサは急ぎ香水を振りまいてシャンテの香りを消すように命じた。
それでも気分が収まらない。
事態はバネッサの思い描くより遥かに悪く、制御できないところにまで来ている。
その夜、予算を削られた夜会はいつも以上に色あせて見えた。
料理は味がせず、楽団も満足できる数ではない。取り巻きがおべっかを使っても――。
「王妃様、皆々喜んでおりますよ」
「ええ、軍人の方々が……ほら、緊張なさって。童のようにきょろきょろと」
この夜会は士気を高めるためのものだ。
そのためにいつもは参加しない、社交の場に不釣り合いな軍人も多数招待されていた。
もちろんこれら軍人の所作は貴族階級からすれば、滑稽極まりない。
(本来ならもっと楽しく、この夜会を笑っていられたでしょうに)
バネッサに軍人を慰労するなどという考えはない。
単に芸人や楽団を呼べないから――物珍しい道化のつもりで軍人を招いたのだ。
(でも今の有様は!? 私のほうが見世物じゃない!)
バネッサも気付いていた。
いつもより自分を無遠慮に見て、ひそひそ話をする貴族が増えているのだ。
自分の派閥の取り巻きも減っていた。
この夜会に来たのは何にも知らない軍人と他国の人間、バネッサの派閥の貴族だけ。
シャンテに親近感を覚えている貴族は軒並み参加を敬遠されてしまっていた。
「王妃様、ご機嫌麗しゅう」
「……あなた」
不機嫌なバネッサを物ともせず話しかけてきたのは、ラバラルである。
この男も期待外れだった、とバネッサは思っていた。
「せっかくの友好にヒビを入れてくれて、失望したわよ。エスカリーナを思うなら同盟を結んでくれても良かったんじゃないの」
「恐縮の至りでございます」
ラバラルは気まずそうな笑みを浮かべ、頭を下げてきた。
「私も本国を散々、急かしたのですが……ご期待に添えず、何と申し上げたらいいか」
「ふん……殊勝な態度ね。それで、言い訳するために夜会に出てきたの?」
「これは手厳しい。いえ、ちょうど先日少し情勢が変わりましてね」
媚びるような声音にバネッサが目を細める。
ラバラルは用がなければ、こんなことを言わない男だ。
「いいわ、ついてきなさい」
人目を遮り、バネッサはラバラルを特等室に招いた。
「それで? 何が変わったの?」
「大陸中央外務次官に昇進いたしまして。これも王妃殿下のおかげでございます」
バネッサは眉を寄せた。聞いたことのない役職で、全くピンと来ない。
「あっ、そう。おめでとう」
「ありがとうございます。これで私の権限も増して、この事態に向き合えます」
「兵を出してくれるっていうの?」
「それよりも重要なことがあるのでは……?」
ラバラルは微笑み、バネッサへと椅子をわずかに近寄らせた。
「これは本国からなのですが、連絡がありましてね。どうも貴国はレイデフォンとの同盟話を破棄して、私をエスカリーナから追い出そうとか」
「だ、誰がそんな勝手なことを!? まさか陛下が……!?」
「シャンテ姫殿下ですよ。まさか私の頭越しに本国へそんな話を持ち出すとは」
バネッサは衝撃を受けて唖然とした。
まさか、彼女がそんなところまで動いているなんて。
「……どうやらご存知なかったようですね」
「当然よ! で、それはどうなるの!?」
「レイデフォン本国も貴国の変わりように困惑しているようです。とりあえず時間をかけて、引き延ばす方針だと」
レイデフォンとラバラルを外しにかかっているのは、間違いなくバネッサを追い落とすためだろう。
(レイデフォンの後ろ盾をなくしたら……っ!)
ベルモンドはクロエに執心している。シャンテも表舞台に戻ってきた。
リンゼットの騒動が収束したら、自分はどうなるのだろうか。
もう外堀は埋まってしまっているように思えた。
「ということで私も中々に困った状況で……それは王妃様も同じかと推察いたします」
「……何が言いたいの?」
「ベルモンド様の御心はもう、わかっておられるのでは? このままでは――」
バネッサは耳を塞ぎたくなった。
だが、できない。必要なのは逃避じゃなくて、解決なのだ。
「どうしろって言うのよ、私に!」
「我々は貴国を変えたいわけではありません。むしろ逆……古き良きエスカリーナのままでいて欲しいのです」
ラバラルが懐から小瓶を取り出した。
かつて彼から渡されたよりもさらに精巧な、アザラシを模したガラスの小瓶だ。
その小瓶には驚くほど純粋な蒼の液体が入っている。
「毒を盛れっていうの? 馬鹿じゃない!」
さすがのバネッサもそこまで危険なことをするつもりはなかった。
バネッサならベルモンドに毒を盛ることは可能だろうが……すぐさま露見するだろう。
「ははっ、毒ではありませんよ。いわゆる媚薬というものです。とても貴重な品物ですが、手に入れることができました」
「媚薬……?」
「ええ、王妃様の立場が不安定なのもベルモンド様との御子がいないから――ではないですか」
痛いところを突かれてバネッサは押し黙った。
実際、結婚当初の燃えるような夫婦生活が今はなくなっている。
遊びたいがためにバネッサが巧妙に外してきたのもあるが。
「陛下はご多忙で心に余裕をなくし、王妃様以外のことに振り回されているのではないかと。ご寵愛を取り戻せば、全て上手くいくはず」
バネッサはアザラシの小瓶を突き返すことができなかった。
覚悟を決めなければならない。
子どもができれば、確かにバネッサの地位は相当に補強される。
それに今朝、ベルモンドがバネッサに向ける目はとても冷たかった。
(あれは婚約破棄の時、クロエに向けたのと同じ目だったわ)
「もしご心配なら、この場でご使用になられても構いませんよ」
「…………」
バネッサは小瓶をひったくり、蓋を開けた。
むわっとした熱気が空間を満たす。甘い芳香は蜂蜜に似て、胸の奥を揺さぶってきた。
「香りだけでも多少の効果を得られます。飲用されるなら、数滴で素晴らしい結果を得られるでしょう」
ラバラルの澄んだ声が反響し、バネッサの頭に響く。
酩酊に近いが、もっと強烈な何かがバネッサの身体を覆おうとしていた。
それはもしかすると、数年振りの熱かもしれなかった。
思えばベルモンドとの初めの頃も、同じような熱に浮かされていた。
それがいつの間にか、消えていたのだ。
ラバラルが椅子から立ち上がり、バネッサの元に膝をつく。
「王妃様と初めてお会いしたのは、三年前でしたか。あの頃から少しも変わらず、いえ――今こそ王妃様は美しい」
バネッサは男に跪かれるのが好きだった。自分から跪くのではなく。
ラバラルとは色々あったが、今のバネッサには彼の態度はとても好ましい。
端正なラバラルの金色の瞳がバネッサを見上げる。
久し振りに満たされた気がして、バネッサの背筋が震えた。
「最近の陛下には、がっかりしているの」
バネッサは身体が熱くなるのを自覚した。
媚薬の効果がこれほどまでに早いのか、それともこの状況だからなのか。
「王妃様、私は王妃様を失望させません。これまでも、これからも」
「そう願うわ」
バネッサはドレスを脱ぎ払った。
今はただ、衝動に身体を任せていたかった。
たとえそれが破滅への道だとしても――熱は常にバネッサを焼き焦がす。
捨てられる側には絶対に立ちはしない。
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