20.選別
手記の内容を駆使することで、多少の軍資金は追加で揃えられた。
だが、まだ苦しい。ラセターが指摘した急所がある限り、エスカリーナの苦境は変わらない。
そして数日間、シャンテはベルモンドが驚くほど役に立っていた。
王都が静穏なのは認めたくなかったが、シャンテの手腕によるものであった。
「可憐なる奥の宮の姫が立つならば」
「姫様からのご依頼であれば」
離宮から出てこなかった妹に何ができるかと思っていたが、そうではなかった。
どうやらベルモンドの思った以上に手紙やら贈答品の交流で支持を繋ぎ止めていたらしい。
皮肉なことにバネッサが表に立って反感を買っていた分の支持が、シャンテに回っている。
今、そのシャンテとベルモンドは王宮の一角で対面していた。
春の美しい青い空。空気も柔らかで花の香りを運んで甘い。
清々しい陽気だ――このテラスは東に面しており、その先にリンゼット帝国の軍がいないと思えばだが。
「……お兄様、レイデフォンとの同盟は思いとどまっているのですね」
「条件を吊り上げてきたからな」
シャンテと極小数の秘密を守れる人間にだけ、ベルモンドはレイデフォンの条件を伝えていた。その判断は正解であったと思う。
もし公表していたら国内の混乱はさらに深まっただろう。
「だが、国境に陣取るリンゼット帝国軍の数は増すばかりだという。守備軍の士気が心配だ」
「私たちは戦争を知りませんもの」
「エスカリーナは長年、平和を享受してきた。訓練ばかりだった我が軍で戦経験豊富な帝国に対抗できるだろうか」
実際のところ、マズロー山を守る守備軍からは脱走兵が出ている。
まだ極めて少数ではあるが、どこまで軍が維持できるかはわからない。
「お兄様、リンゼット帝国と会談を持つべきでは?」
「俺に国境に向かえと?」
「まだ帝国からエスカリーナに何の要求もないのでしょう? 目的を確かめるべきかと」
密偵の話では国境近くの鉱山が目的だとか、次の攻勢に向けての威嚇のみだとか……。
どれも確証がなく、どんな理由も疑わしい。
「リンゼットも動かないうちに、エスカリーナの国王を害するようなことはしないでしょう」
「ふむ……」
リンゼットはどこまでエスカリーナの内情を把握しているのだろうか。
あの国は直情傾向で武勇と名誉を尊ぶ。
近年、軍事活動を増大させているが外交特使に危害を加えたという話は聞かない。
交渉をするならば早いほうがいいというのは正論だ。
マズロー山を失ってからでは、さらに不利になる。
「気になるのはむしろレイデフォンのほうかと思いますが」
「条件を付けてから、あの国は何も動いてないぞ」
「お兄様がリンゼットと和解なされたら、レイデフォンは梯子を外された形になります」
「俺の妨害をしてくる、と……? まさか、そこまで悪辣ではないだろう……」
シャンテの瞳はまだそんな甘いことを、と暗に語っていた。
「何にせよ、行くのならばなるべく内密に。お兄様がいない間、私は王都の動揺を鎮めるよう努めます」
「そうだな……。思えばこうして兄妹で国を支え、守るのは初めてだ。もっと早くこうしていれば……」
シャンテから答えはなかった。
ただ、胸につけているイチゴの花をかたどったブローチ。
このブローチがクロエからシャンテに贈られた物であることを、ベルモンドは知らなかった。
◆
ベルモンドはシャンテの勧め通り、マズロー山へ向かうことに決めた。
(このままの睨み合いを続けては国が持たない)
同時にクロエのことも探りたいとベルモンドは思っていた。
王都から調査するのでは限界がある。
もっとリンゼットの懐に飛び込めば、クロエのことがわかるかもしれない。
急ぎ支度を整え、翌朝には出立できるようにする。
蒸気機関の鉄道を使えば、二日とかからず王都からマズロー山へ到着できるはずだった。
久方振りにゆっくり休めると思ったベルモンドが王宮の寝室で早めに休もうとすると――。
「陛下……」
バネッサが寝室へとやってきた。
最近、彼女と接する時間が特に減っている。
(やむを得ないがな。そんなことをしている場合ではない)
ベルモンドはバネッサに対して申し訳ない、という気持ちさえ喪失していた。
「最近、私を避けておられるのでは?」
「……そんなことはない」
肌色が透けるようなドレスに身を包んだ彼女はしおらしく、魅力的であった。
しかし、今のベルモンドはバネッサを抱く気持ちもなかった。
少し前はバネッサとの子を望んでいたが、今や状況は大きく変わっている。
(もしバネッサとの子ができて、妃の地位が高まったら……面倒だ)
妻に対して面倒、という酷薄な判断を下すまでベルモンドの心は冷めてきていた。
「お前も知っての通り、リンゼットとの対応策で寝る暇もないんだ。お前のことを避けるなんて、あるわけないじゃないか」
バネッサがベッドに横たわるベルモンドの元にやってくる。
その様子にベルモンドは軽く腕を緊張させた。
今のバネッサは不安定になっていてもおかしくない。
いきなり刺されることはないにしても、喉元に掴みかかってくることはあり得る。
「なら、いいんだけど……」
「それと明日から数日間、王都を留守にする。マズロー山へ視察だ」
ベルモンドはバネッサを刺激しないよう、なるべく平易に伝えた。
そして肝心なところは隠して。
マズロー山へ向かった足で、ベルモンドはリンゼットの陣営を訪れるつもりであった。
ベルモンドの言葉を聞くとバネッサは前のめりになった。
バネッサの声には怯えが含まれている。
「そ、それは……もしかしてクロエにも会いにいくつもり?」
「……可能なら」
バネッサはクロエがリンゼットにいることを知っている。
その上、クロエのことだけは異常に察しが良い。
心中で舌打ちしながら、ここである程度の含みを持たせないと、問題が起きるかもしれないとベルモンドは判断した。
(クロエの力がやはり俺には必要だった。クロエだって、いつまでもリンゼットにいたいわけではあるまい。何としても……)
クロエの現状はわからないが、ベルモンドは勝手にそう判断していた。
これまでと違う答えにバネッサが衝撃を受ける。
「どこまであの女を追いかけるつもりなの?」
「今の状況をわかっているのか? リンゼットの軍事行動でエスカリーナは窮地にある。過去の経緯は水に流し、総力をもって国難にあたるべきだろう」
ベルモンドはこれまで考えてきた言葉を冷静に言った。
理が通じるとは思っていないが、バネッサがわめいて変わるような時は終わったのだ。
「リンゼットの軍事行動が終わっても、使った金は戻ってこない。エスカリーナの国庫は非常に苦しい。クロエがいれば、貴族の不満も抑制されるだろう」
「そ、そんな……!! 私はどうなるのよ!」
「君は今まで通りだ。何も変わらない」
全てはクロエが戻ってきてからだ。
いや、戻ってこなくても……情勢が落ち着いたらバネッサのことを考えなければならない。
今まで自由にやらせてきた分、バネッサは反発するだろう。だが、シズとシャンテ……ふたりの協力で首輪を嵌めればバネッサへの依存度も減らせる。
(……いざという時は)
レイデフォンも頼りにならなかったのも大きい。バネッサの価値はそこにあったのに。
(大丈夫だ。クロエの手記で貴族のコントロールもできる。バネッサがいなくても……)
バネッサはまだ理解していないのかもしれない。
ベルモンドは必要とあれば、切り捨てることができる人間だ。
かつてクロエを婚約破棄に追い込んだ人間なのだから。
「俺がいない間、王都はシャンテが預かる。問題が起きるようなら彼女に相談しろ」
「あ、あの人が……!?」
「シャンテは俺の妹で、エスカリーナの姫君だ。彼女のほうが適任だろう」
藁をも掴む気持ちでバネッサは寝転がるベルモンドの腕にすがりつく。
「じゃ、じゃあ……っ! 私もマズロー山へ連れて行って!」
「なんだと……?」
「あなたと離れるのが心細いの! ねぇ、お願い! 邪魔はしないと誓うわ!」
バネッサは本能的な恐怖で言葉を続けているようだった。深い付き合いでベルモンドもこれが嘘でないとわかる。
「……駄目だ。俺はともかく、レイデフォンに近い君まで来るとリンゼットを刺激しすぎる」
リンゼットが外交交渉に来たバネッサを害するとは思わない。
しかしクロエの件を探るのにバネッサは不要だ。いれば足枷になる。
「いい子だから王都で待っていろ」
それは決別の言葉にも似ていた。その後もバネッサはああだこうだすがりつくが、もうベルモンドの心に彼女の言葉は響かなくなっていた。
ある程度、言わせたところでベルモンドは顎で寝室の扉を差した。
「さぁ、もう寝かせてくれ。明日は早いんだ」
ドレス姿の妻を追い返し、ベルモンドはゆっくりと目を閉じた。
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