2.婚約破棄
全ては三年前に遡る。
エスカリーナの王宮で、王太子ベルモンドは高らかに宣言したのだ。
「ベルモンド・エスカリーナはクロエ・ペドローサとの婚約を破棄し、新たにバネッサ・ペドローサと婚約する!」
ベルモンドは先代国王トルカーナ四世にとって待望の子であった。
他に子がいなかったため、トルカーナ四世はベルモンドを溺愛して最高の環境を整えたのだ。
それはベルモンドが四歳の時、王妃を亡くしてから加速した。
トルカーナ四世は万難を排してベルモンドに全てを与えることにする。
婚約者もその一環、ペドローサ公爵家のクロエがベルモンドの未来の妃として選ばれた。
クロエは美しく白めいて輝く金髪に深い知性を宿した碧の瞳を持つ少女であり、幼少期から本を愛し、人の考えを鋭く見抜くことができた。
多少、口下手なところはあったが――心優しく、芯もあって周囲の人からは存分に愛されることになる。
さらに一度見たことは決して忘れない特異な才能を持っていることに、ペドローサ公爵が気付くまで時間はかからなかった。
「神は一人の才女を遣わした」
公爵がそう神に感謝したのも無理からぬことだろう。
最高の教育が与えられた、という点について言えばクロエとベルモンドは同じであった。
ふたりは引き合わされ、六歳の時に未来の国王夫妻になるべく婚約を結んだ。
最初の頃は問題なかった。良き幼馴染、切磋琢磨する間柄、約束された未来……だが成長するにつれ、ベルモンドは疑問を抱えるようになってしまった。
――俺の未来はもう決まってしまっているのか、と。
そしてベルモンドが十七歳の時、王宮で開かれた豪華絢爛たる夜会。
その夜会でベルモンドはバネッサと運命の出会いを果たした。
太陽の輝きにも似た燃えるような金髪と肉感的な肢体。情熱的で見る者を惹きつける赤い瞳の女性、それがバネッサであった。
バネッサはクロエの腹違いの義妹であったが、あまりにも対照的な姉妹である。
聞くところによると、バネッサの母は隣国でバネッサを産んで亡くなったとか。
何事にも控えめで慎重、賢明で本を愛して病弱なクロエ。
大胆かつ直情径行で思ったことを口にして、外に出歩くのが大好きなバネッサ。
杖をついて足元も覚束ないペドローサ公爵に伴われ、バネッサは鮮烈にエストーナ王国の社交界へ現れたのだ。
バネッサはベルモンドの腕を、すっと取った。
「殿下、クロエに代わってお供させて頂きますね」
甘い芳香がベルモンドの思考を奪い、彼の燻っていた何かに火をつけた。
実際のところ、ベルモンドは鬱屈していたのだ。
クロエとの距離を取った交流のみならず、この頃のクロエは公務で忙殺されていた。
やれ貴族政治、有望な官僚候補への教育、どれもベルモンドは興味を引かれなかった。
(そんなのは人にやらせればいいじゃないか)
そんな中、バネッサはベルモンドを王都のカフェに誘った。
バネッサは公爵令嬢でありながらも、自由奔放そのもので。
ベルモンドは興味のあまり、同意してしまった。
護衛も付けずにふたりきりの……変装してただ歩くだけの王都の道は全然違った。
人の顔がよく見えて、驚くほど新鮮な光景であった。
誰もが日々を生きていて、楽しそうであった。
王宮でがんじがらめの自分とは全然違うと感じてしまった。
「息抜きしなきゃ。庶民の生活にも興味あるでしょう?」
誰もベルモンドたちに気付かず、ふたりはテラスでコーヒーを飲んだ。
もちろん王宮で飲むものとは比べ物にならないほど、マズい。
だが背徳感とスリルがベルモンドの背を焼いていた。
「美味しい……」
「ふふっ、王子様は大変よね。何を飲むかも全部、お役人が決めるんでしょう」
「多少は自由が利くぞ。毒見もなしに飲むなんてあり得ないけどな」
「嘘よ」
バネッサが挑戦的な瞳でベルモンドを見た。
「このカフェのコーヒーを飲んでみたい、なんて言って通るのかしら?」
「……そうだな」
カフェの掲げるメニューの看板を見上げて、同意する。まだたくさんのコーヒーと紅茶、それにジュースが売られていた。
そのどれもがとても魅力的に見えてくるが、王宮で飲むことはできない。
そんなことを言い出せば、側近はベルモンドに失望するだろう。
バネッサが獲物を待ち構える猫のように笑う。
「でも、言ってみたら? 私の名前を出して、そうすればお役人さんも頷くんじゃないかしら。だって私は……クロエの妹だもの」
「確かにな。君の名前を出せば……」
それはバネッサの甘い誘惑だった。
クロエの妹という言葉はあまりにも便利だったのだ。
ペドローサ公爵は忙しいクロエの代わりに、気を利かせてバネッサとベルモンドを引き合わせたわけだが――それは上手く行きすぎてしまう結果を生んだ。
すぐにバネッサとベルモンドの仲は過熱し、あまりにも危険な炎と成り果てる。
もちろん周囲の人間はベルモンドを諫めた。
あなたにはクロエという立派な婚約者がいるではないかと。
バネッサはクロエの妹だが、王妃教育も受けていない。
エスカリーナ王国を支える王族としては不適格であると。
しかしベルモンドはそのような諫言にこそ反発を覚えた。
(クロエは確かに明敏な知性と芯の強さを持っている。未来の王妃として何の不満もない。だが……俺はなんだ? 全部、与えられたものばかりじゃないか!)
ベルモンドは凡人であった。クロエの記憶力、思考力に到底及ばないことを自覚している。
父であるトルカーナ四世もクロエを信頼しきって、国を支えていくのは彼女だと信じている。
才覚ある官僚も全員そう考えているのがありありとわかった。
(俺は父の選んだ道を歩いているだけだ。凡才の俺でも国王としてやっていけるように――)
その頃のトルカーナ四世は病気がちで政務も困難な状況が続いていて、まもなくベルモンドが国王になるだろうと誰もが思っていた。
長年いたクロエよりも市井の生活が長いバネッサのほうがベルモンドには新鮮で、刺激があった。彼女はベルモンドの知らない多くのことを知っていた。
美味い酒、ちょっとした賭け事、蠱惑的なバネッサ、自由の心地良さ。
良き王になるために遠ざけられてきた全てが、あまりにも楽しすぎた。
そしてバネッサがベルモンドにこう吹き込むまで、時間はかからなかった。
「お義姉様はとても心配しているの。陛下だけでなく、父も体調が悪くて……」
「そうだな。だが……」
生まれたものはいつか死ぬ。いつかは自分が王になる。
ペドローサ公爵もかなりの高齢であり、ふたりの体調不良が重なってバネッサは不安に苛まれていた。
さらにペドローサ公爵の仕事を代行するため、クロエは多忙を極めていた。
「ねぇ、お義姉様は――殿下を愛しておられるのかしら?」
「何を言うんだ。クロエはいつも俺に手紙や贈り物をくれる。多忙なのは公務のせいだろう」
「でも私の目にはお義姉様は情熱をもって、殿下を愛しているようには見えないわ。お仕事としてなら、そうなのでしょうけど」
「……っ」
ベルモンドは言葉に詰まった。
バネッサが腕を絡め、熱っぽい視線でベルモンドを見上げる。
「お義姉様は絶対にこんなことをしないでしょう」
その通りだった。愛を込めた目線でベルモンドを見たことなど、一度もない。
クロエの深い緑の瞳はいつも揺らがない。
愛情がある振りはしている――すでに家族のように。
だが、ベルモンドもクロエとの付き合いは長い。
それ以上の、男女の激しい愛を感じたことはなかった。
「……ずっとこのままでいいの?」
バネッサの囁きはベルモンドを揺らして、変えてしまった。
否、変わったのはベルモンド自身の意志でもあった。
主導権はベルモンドにあったのだ。バネッサの立場はベルモンドの指先ひとつで吹き飛んでしまう程度のもの。
バネッサを口実に選択したのはベルモンドである。
父が病床に伏し、ペドローサ公爵も表舞台から去って……誰に遠慮することがあるだろうか。
エスカリーナ王国はベルモンドを国王にせざるを得ない。
他に王位を継承できる候補者などいないのだ。
そしてついに運命の日がやってきた。王国中の貴族が集まった夜会で、ベルモンドは高らかに婚約破棄を宣言した。
「ベルモンド・エスカリーナはクロエ・ペドローサとの婚約を破棄し、新たにバネッサ・ペドローサと婚約する!」
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