17.情熱の終わり
その日の夜、バネッサは完全に落ち着きをなくしていた。
今夜は久し振りにベルモンドとの会食があるというのに。
廊下を歩きながら、バネッサはぶつぶつと不満をこぼしていた。
「どうして、どうして……陛下はラセター侯爵に会いに行ったの!?」
計画性のないバネッサだが、唯一ベルモンドの動向だけには目を光らせていた。
否、それ以外の考えを持てなかったと言うべきか。
バネッサの生命線はベルモンドだ。
彼なしでは存在できないとバネッサも理解していた。
「……なんとかしないと」
クロエとラセターの繋がりを知っているのは極少数のはずだった。
この繋がりはクロエも極力、秘密にしていたほどである。
ラセターはクロエの知性に気が付いた最初の人間だ。陰からクロエの知性を引き出し、貴族の裏側を教えていた。
彼と接触したということは、クロエのことを探っているも同然だ。
「やっぱり陛下はクロエのことを……っ」
ベルモンドとバネッサが結婚して三年が経っている。
結婚初めの頃、バネッサは夜の生活をそれとなく牽制した。
理由は単純でもっと遊んでいたかったからだ。
子ができてしまえば夜会も控えなければいけない。
ベルモンドはバネッサを心底愛しているし、子がなくてもそれは揺らがないと思っていた。
最近はベルモンドのほうが乗り気ではなく、夜の生活は遠ざかっている。
今ではこの判断が正解だったかどうか、バネッサにも自信がない。
ふたりの間に子がいれば、変わっていたのだろうか。
エスカリーナの正当な次代の王がいたら、きっと……。
まとまらない頭で考えながら、バネッサは会食の広間に到着する。
そこは広間というには狭く、派手な芸術品は一切ない古びて寂しい空間だ。
並ぶ料理も質素そのもの、王家の食事とは思えなかった。
青白い顔のベルモンドは先に座っており、気だるげに手をバネッサの座る席へと差し出す。
「よく来たな。今日はちょっと話したいことがある」
「陛下、私からも話があります」
ベルモンドがメイドと執事に手を振り、広間から退出するように促す。
王と王妃以外の人がいなくなり、広間はがらんとした。
バネッサがベルモンドの前のテーブルに手をつく。
「クロエのことを探っている、というのは本当ですか?」
「……どこからそんなことを聞いた」
「じゃあ、事実なんですね」
バネッサは自身の声が上擦るのを自覚したが、止められなかった。
「いまさらあの女を! クロエに何の用があるのですか!?」
「彼女は君の姉でもあるんだぞ、もう少し落ち着いてくれ」
「私の質問に答えて!」
バネッサがテーブルを叩く。
激したバネッサに対して、ベルモンドが鬱陶しそうに答えた。
「なら、いい機会だ。はっきりと答えよう。今、この国は危機的だ。打開策が――根本的な打開策が必要だ」
「だからクロエを呼び戻そうっていうのね……!」
「そうだ。可能ならそうしなければ」
体調不良をにじませながらも、ベルモンドは断言した。
これだけは譲れないとばかりに。
「もちろん、それなりの償いはしなければクロエも納得しないだろう……」
「嫌よ!」
「これはもう決めたことだ」
ベルモンドが立ち、バネッサを上から睨みつけた。
「バネッサ、君はこれまで何をしてきた?」
「……っ!!」
「俺は俺で努力してきた。不足はあっただろうがな。だが、君は……夜ごと遊んでばかりだったんじゃないか?」
ベルモンドがバネッサに近寄り、彼女の右腕を握った。
「三年前に俺たちは愛し合った。さらに親の決めた運命に抗って、国をモノにした」
「ちょっ、痛い……!」
「なのにお前はずっと好き勝手に……」
ベルモンドの瞳には怒りの色がはっきりと浮かんでいた。
これまでに見たことがないほど、彼は怒っていた。
「……俺たちが臥所を共にしなくなって久しいな」
「そ、それは……!」
バネッサは口ごもり、身をよじる。
子どもが出来れば奔放な王妃ではいられなくなる。
だからこれまで、バネッサは先延ばしにしていたのだ。
ベルモンドがバネッサを抱き寄せる。
「きゃっ!?」
愛しい男、エスカリーナの王。
そのはずの彼の胸の中にいて――バネッサは何も感じなくなっていた。
もはや燃えるような恋はなく、あるのは王と王妃という仮面だけ。
ベルモンドはもうバネッサを甘やかして贅沢をさせてくれない。
それどころかあの女――クロエのように道理を語って、バネッサを縛り付けようとしてくる。
「俺との子が欲しくないのか」
「……っ」
「あの頃は散々、俺に愛していると言ったのに」
「今も私は……愛しているわ」
「変わったな。三年前ならそんな言葉だけじゃなく、俺に接吻のひとつもしてくれたはずだ」
ベルモンドがバネッサを突き放すように、胸から離した。
「お前がそのつもりなら、俺にも考えがある」
「えっ……?」
「クロエに相応の座を用意するということだ」
ベルモンドの冷たい決意を聞いて、バネッサがはっとする。
「ま、待って! それって……」
ベルモンドはそのまま歩いて、広間を出ていこうとしていた。
「バネッサ、もう理解してくれ。この国はこのままでは終わりなんだ」
「だからクロエを、あの女をまた側に置くと言うの!?」
「そうだ。そうする必要がある」
「私はどうなるのよ!」
「……王妃だけで満足できない女に、俺はどこまで付き合えばいいんだ?」
ベルモンドは吐き捨てるように広間から出ていく。
ひとり広間に残されたバネッサは、扉が閉ざされるのを見届けると――。
「あああっーー!!」
バネッサはテーブルの上にある食器を薙ぎ払い、グラスを床に叩きつけた。
こんなに苛立ち、怒ったのは結婚してから初めてだ。
ベルモンドは変わってしまった。
あれほどバネッサを愛していたはずなのに、今では驚くほど冷たくなっている。
さらにあろうことか、ベルモンドはクロエを呼び戻そうと認めた。
「なんで、なんで! どうしてなのよ!」
バネッサは地団駄を踏み、用意された晩餐を壊し尽くす。
それでも気分はちっとも晴れなかった。
「私は、私は……これで良いと思ったのに。あなただって、許してきたじゃない……!」
わなわなとバネッサは両手を見つめる。
良かれと思って、この手も毒で汚してしまった。もう後戻りなんてできない。
にしても、ベルモンドに何があったのだろう。
どこからこんなにも状況が変わってしまったのか。
「……! まさか、あのクロエの書いたものを読んでから……?」
ベルモンドの胸から落ちた、クロエの書いたであろう手記。
あの手記の日からベルモンドは明確に変化した。
何が書いてあったのか、それはわからないが――バネッサを追い落とすことが書いてあったに違いない。
クロエとバネッサは一緒に生活していた。クロエなら、どんな罵詈雑言も真実のように書けるだろう。
昔なら信じなかったようなことも、今の不安定で神経質なベルモンドだったら……。
自分のことを棚に上げ、バネッサは怒りの眼でベルモンドの去った扉を睨む。
「もう手段を選んでいられない……」
躊躇していれば全てを失う。
あの頃、何者でもなかった時に落ちて戻ってしまう。
バネッサは爪を噛んだ。子どもの頃、レイデフォンで何者でもなかった時の癖のままに。
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