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結婚に向いてない領主ですが、美しすぎる姫が嫁いできました

作者: 雨日

「グユウ様、妃様がお着きになります」

家臣の声に、グユウは小さく息を吐いた。


胸の奥に広がるのは、重石のような憂鬱だった。


今日、ワスト領に新たな妃が嫁いでくる。


相手は強大なミンスタ領の姫。


二十歳を過ぎても嫁がずにいたのは、領主である兄が妹を殊のほか気に入り、手放さなかったからだという。


愛も情もなく結ばれる婚姻。


そこにあるのはただ、同盟の証という名の鎖だった。


グユウは二十三歳。


これで二度目の結婚だった。


新しい妃を迎えるために、二年前に娶った妻とは離縁したばかり。


別れを告げたとき、前妻が残した言葉はたった一つ。


「承知しました」


生まれて半年になる赤子を置いて、生家へと帰っていった。


子は男の子だったため、跡継ぎとして自分のもとに残された。


夫婦として心が通じ合うことは、ついに一度もなかった。


――それは、自分が女性と話すのが苦手だからだ。


何度か歩み寄ろうとした。


努力もした。


言葉をかけ、会話を試みた。


けれど続かず、やがて妻は部屋に閉じこもるようになった。


子どもが生まれても、その距離は埋まらなかった。


ーーオレは結婚に向いていない。


胸の奥でそうつぶやく。


もし領主に生まれていなければ――ずっと独りで生き、独身のままでも構わなかったはずだ。


「グユウ様・・・?」

ぼんやりと佇むグユウに家臣は再び声をかける。


我に返ったグユウは、「今、行く」と答え、城門の前で妃を迎えることにした。


ーーどんな女性だろうと・・・うまくいくはずもない。


夕暮れに溶ける薄明の中、豪奢な馬車が静かに止まった。


そこから降り立ったのは、背の高い一人の女性。


ーーあれが、今度の妃・・・か。


グユウは、彼女に目を映す。


白に紫をあしらったドレスが夕闇に映え、

その姿はまるで異国の幻のように浮かび上がる。


落日の名残が髪を照らし、赤焔のように燃え立った。


少し顎を上げ、まっすぐに歩み寄ってくる女性。

その気迫に、思わず息を呑んだ。


――美しい。


その言葉しか浮かばない。


黄金の髪は夕光を弾き、澄んだ青い瞳には隠しきれぬ強さが宿っている。


近づくごとに、その存在は大きくなり、ついに目の前に立った。


間近で見れば見るほど、胸を打つほどの美貌。


――この女性が・・・オレの妃なのか。


グユウは圧倒され、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。


胸の奥で何かが震え、世界が一瞬静まり返った。


目に映るのは、彼女ただ一人。


少し冷たい春の風が、二人の間をすり抜けていった。


妃はじっとこちらを見つめている。


「・・・グユウ様」

重臣ジムの声に、ようやく我に返った。


――女に見惚れるなんて。恥ずかしい。


その羞恥を振り払うように、強張った声が唇をついて出た。


「・・・グユウ・センだ」


妃は呆然と立ち尽くしている。


――何か言わなければ。


「遠路ご苦労だった。今夜は、ゆっくり休むといい」


それ以上はもう限界だった。


どう振る舞えばいいのか分からず、逃げるようにその場を離れる。


――やはり、オレは女性が苦手だ。


結婚など、向いていない。



翌朝――今日は結婚式だ。


昨日顔を合わせたばかりの女と、その翌日に式を挙げる。


そして夜は初夜。


政略結婚とはいえ、気持ちがついていかない。


身支度を終えたところへ、重臣ジムが恭しく頭を下げる。


「・・・お似合いです」


ーー服装のことを言っているのだろう。


「そうか」


ジムは少し躊躇いながら口を開いた。


「グユウ様・・・シリ様と、少しでもお話をされては」


――シリ様。


そうか、妃の名はシリというのか。


黙り込む自分に、ジムはさらに言葉を添える。


「お言葉が難しいようでしたら・・・笑顔をお見せになるだけでも」


オレは無理やり口元を引き上げてみせた。


「・・・どうだ?」


ジムの返事は、容赦なかった。


「全く笑っておられません」



式場で待機していると、重々しい扉がゆっくりと開いた。


そこから現れた妃の姿に、周囲からどよめきが起こる。


真っ青なドレスに包まれた細身の体。


歩みごとに裾が揺れ、ヴェール越しの瞳には、揺るがぬ意志が宿っていた。


妃は静かに進み、自分の隣に立つ。


神官の声に合わせ、誓いの言葉が交わされ、儀式は粛々と進んでいく。


やがて訪れる誓いの口づけの時。


少し俯いた彼女に手を伸ばし、そっとヴェールを持ち上げると

うつむいた妃の睫毛が長く揺れ、夢見るように瞼を閉じている。


――こんなにも美しい女性が、自分に嫁いでくるなんて。


まるで夢のようだ。


形式に従い、グユウはそっと口づけを落とした。


これで、二人は夫婦となった。


披露宴の席でも、自分は隣にいる妃を見て見ぬふりをした。


ーー目が合えば、胸の奥が揺らいでしまう。


何を話せばいいのか、見当もつかない。


『きれいですね』と伝えればいいのだろうか。


だが、あまりにも唐突すぎる気がする。


ふと、妃の視線が自分に向いていることに気づいた。


気づきはした。


だが、その視線を受け止める勇気がない。


目が合えば、言葉を交わさなければならない。


それが、とてもじゃないができなかった。


夜が更け、初夜の時が訪れた。


重い足取りで寝室へ向かう。


初めて二人きりになる――そう思うと胸がざわつく。


扉を開けると、妃はベッドの端に腰掛けていた。


背中がかすかに揺れ、不安を隠しきれないように見える。


いきなり抱き寄せることなどできず、グユウは妃から一番遠い場所に腰を下ろした。


沈黙が重くのしかかる。


耐えきれず、言葉が口をついた。


「・・・式のときは、助かった」


妃は不思議そうに首をかしげる。


「・・・指輪」


挙式で、自分はうっかり中指に指輪をはめかけた。


それを妃がさりげなく薬指に導いてくれたのだ。


「いえ、気にしないでください」


その言葉に、グユウはただ一言だけ返す。


「・・・そうか」


ーーそれ以上、続く言葉は見つからなかった。


しばらくすると、妃がそっと自分の隣に腰を下ろした。


「あの・・・お名前、どうお呼びすれば良いのでしょうか。お館様? ご主人様? グユウ様?」

少し恥ずかしそうに笑みを浮かべる。


「いろいろ考えてみたのですが」


――そんなこと、考えたこともなかった。


しばし迷い、口を開く。


「・・・グユウでいい」


「えっ、呼び捨てはさすがに・・・。それでは家臣の目もありますし・・・

『グユウさん』で、よろしいでしょうか」


なんと返せばよいのか分からず、言葉が詰まる。


「・・・よろしいですか? グユウさん」


その響きを聞いたとき、思わず妃の方を振り向いた。


――美しい。昼のドレス姿もそうだったが、寝衣姿もまた、眩しいほどに。


花に吸い寄せられるように顔を近づけると、妃はぎゅっと目を閉じた。


唇が、一瞬だけ触れ合う。


ぎこちなく、たどたどしい口づけ。


そのまま妃をそっとベッドに横たえると、金の髪がシーツの上にふわりと散った。


細い首筋に唇を触れさせ、手を下へと滑らせようとした、その時。


妃の身体がびくりと強張る。


荒い呼吸、震える手。その目は固く閉じられている。


それは抗うためではなく、どうしようもない恐怖に立ち向かおうとする姿に見えた。


――怖がっている?


女の心などわからぬグユウですら、その反応だけは理解できた。


ーーこの妃は二十歳。


嫁ぐには遅い年齢だ。


それだけに、結婚がどういうものかも、子を望まれる意味も、知っているはず。


それでも。


グユウは妃から静かに身を離した。


やがて、閉じていた瞼がわずかに震え、妃はゆっくりと目を開いた。


吸い込まれるように澄んだ青。


その瞳に、思わず視線を奪われる。


「あの・・・」

その瞳を見ると、気持ちが揺れる。


「・・・続きを、しないのですか」

妃は思いがけず大胆な言葉を口にした。


――できない。


怖がっていたじゃないか。


怯えながら受け入れようとする姿を、これ以上見たくない。


けれど、そんなことを正直に言えるはずもなく。


「・・・今日はやめておこう」


「な、なんでですかっ?」

妃は涙をにじませながら問い詰めた。


――いや。怖がっているじゃないか。

とても抱ける状況ではない。


「・・・疲れているだろう」


考えた末、口から出たのはそれだけだった。


次の瞬間、妃は勢いよく身を起こし、顎を高く上げる。


「私は疲れていません!」


――この状況で・・・普通、そんな言葉が出るか?


思わず声がこぼれた。


「・・・怖がる女は、抱けない」


その瞬間、妃はかぶせるように叫んだ。


「怖がっていません!! 私は・・・平気です!!」


頬を伝う涙が、妃の強がりを裏切る。


本当は震えているのに、手をぎゅっと握りしめて堂々と見せる。


――いやいや。怖がっているだろう。


どう見ても、それは。


「泣くほど怖がる女は、抱けない」


口にしたあとで思う。


――今日はしゃべりすぎだ。もう口が疲れてきた。


こういう場面で、世の男はどう言うのだろう。


・・・ジムに聞きたいが、今はいない。


その瞬間、妃はすさまじい勢いで言葉を返した。


「泣いてません!!」


けれど次の瞬間には、頬を伝う涙がぽろぽろと零れていた。


――泣いているじゃないか。


ボロボロと涙を流しながら、まるで泣いていないかのように強気な眼差しを向けてくる。


身体は嘘をついても、心だけは決して引かない。


――こんな女は初めてだ。


前の妻は、何も言わなかった。


大人しく自分に従うだけで、会話もなく、心が冷えていくだけの関係だった。


だが目の前の妃は違う。


泣きながらも抗い、必死に言葉を投げつけてくる。


このまま妃を泣かせたまま、寝室を出ていくことだけはしてはならない――そう悟った。


「・・・わかった」


絞り出すように口にしたのは、それだけの言葉だった。


「・・・わかった。お前は泣いてない。オレは疲れた。一緒に寝よう」


断片的な言葉を吐き出し、妃の腕を取ってベッドに寝かせた。


その瞬間、妃の身体がまた強張る。


「・・・何もしない。寝よう」

そう告げると、妃は拗ねたような声で返した。


「・・・私、眠くないです」


「そうか」


甘い香りが鼻先をかすめる。


腕の中にある柔らかな身体。


ーー気が遠くなりそうだった。


「眠くない」

「疲れていない」

「私は、平気だ」


妃は小さく、何度も言葉を吐き出す。


それに対して、返せるのは「そうか」だけだった。


腕の中で、妃はこちらを見上げる。


「私、本当に眠くないです」


拗ねた顔が愛らしくて、思わず唇を寄せそうになる。


けれど、また口から出たのは「そうか」だけ。


やがて、静かな寝息が聞こえてきた。


ちらりと顔をのぞくと――眠っている。


――ついさっきまで、眠くないと主張していたくせに。


グユウは蝋燭の灯を手で覆い、ふっと吹き消した。


闇がゆっくりと部屋を満たしていく。


腕の中で安らかな寝息を立てる妃の顔を見つめ、小さくため息をつく。


――これから、この人と共に暮らしていく。


果たして、自分に務まるのだろうか。



そう思いながら見つめると、妃の口元がわずかに上がったように見えた。


その微笑に心を揺らし、グユウは艶やかな髪をそっと撫でる。


そして目を閉じた。


こうして、二人の初夜は静かに幕を下ろした。



鳥のさえずりが聞こえ、ゆっくりと目を開ける。


すぐ目の前に妃の寝顔があった。思わず息を呑む。


――寝ている。


長いまつ毛がわずかに揺れ、口元は少し開いている。


妃を起こさぬよう、そっとベッドを抜け出した。


――オレも男だ。まだ若い。


夜の情事など、この2年で数えるほどしかない。


同じ部屋にいるだけで、抑えきれぬ煩悩が頭をもたげる。


居たたまれず、慌てて寝室を出て馬場へ向かった。


剣を握り、振るう。


自分の中に湧き上がる欲望を、ただひたすら鍛錬に叩きつけるしかなかった。


鍛錬を終え、朝食を取るために食堂へ向かう。


いつもなら一人で済ませる朝食。


だが今日は違う。


白いドレスに真っ赤な帯を締めた妃が、そこにいた。


質素な食堂には不釣り合いなほど、その存在は際立って見える。


テーブル越しに、ふと視線がぶつかった。


「・・・おはようございます」

妃が俯きがちに声をかける。


――『おはよう』。


ただそれだけの言葉が、どうしても口にできない。


胸の奥がむず痒く、恥ずかしさに声が詰まる。


「あぁ」


ようやく出た声は、それだけだった。


妃もまた、ちらちらとこちらを窺うだけで、何も言わない。


――こうしてまた、妃とろくに話せないまま過ごしてしまうのだろう。


やはり、オレは結婚に向いていない。


改めてそう思わずにはいられなかった。


その日は、結婚によって滞っていた領務を片付けるのに追われた。


結婚早々、妃とゆっくり言葉を交わす暇などない。


廊下で何度かすれ違ったとき、妃はじっとこちらを見つめてきた。


だが、どうしていいかわからず、グユウは目を逸らすことしかできなかった。


書斎で山積みの書類に目を通していると、ジムが妃の様子を伝えてきた。


「・・・シン様と一緒にいるようです」


――シン。


前妻との間に生まれた子。


まだ赤ん坊の男の子。


男であるがゆえに、母とともに生家へ帰ることを許されず、城に残された存在。


「・・・シンと、何を?」

思わず声が震える。


「一緒に過ごしておられるようです」


ジムの淡々とした言葉を、グユウは黙って聞くしかなかった。


胸の奥で、言葉にできない感情がざわめいていた。



結婚二日目の夜。


再び寝室へ向かう足取りは重かった。


――今夜も泣かれたら、どうしよう。


扉を開けると、妃はすでにベッドに腰掛けていた。


閉じた扉の音に振り向いた顔は、どこか安堵したように見える。


ーー理由は分からない。


重苦しい沈黙。


座る場所は、やはりベッドの端と端だった。


「・・・シンに会ったのか」

気づけば口が開いていた。


「はい。とても可愛らしいお子さんです。目が、グユウさんによく似ていて・・・」


――オレの名を呼んでくれている。


それだけで胸の奥が、かすかにざわめいた。


「そうか」

やはり三文字しか出てこない。


妃はベッドの上で正座し、真っ直ぐに見つめてくる。


「私が嫁いだことで、前の奥様やシン様に酷なことをしてしまいました」


「・・・結婚はオレが決めたことだ」


ーー離縁も、この婚姻も。


すべては領と民のため。


「そうだとしても、グユウさんは望んでいなかった。政略とはいえ・・・申し訳なく思います」


その言葉に、思わず口をついて出た。


「シリも、オレとの結婚を望んでいたわけじゃないだろう」


次の瞬間、妃は身を乗り出した。


「名前・・・覚えていてくれたんですね!」


ぱっと咲くような笑顔。


眩しすぎて、思わず目を伏せた。


――妃の名は、前から知っていた。


けれど、その二文字を口にすることが、どうしても重かった。


どう返せばいいのか分からず、結局出たのは別の言葉だった。


「・・・もう遅い。疲れただろう」


二人はそのままベッドに身を沈めた。


――こんな時、どうすればいいのだろう。


グユウは目を閉じて考える。


このまま抱き寄せるべきか。


いや、それでは唐突すぎる。


では何を話せばいいのか・・・。


ぐるぐると思考を巡らせていると、隣から微かな寝息が聞こえてきた。


――寝たのか。


そっと身を起こし、妃の顔を覗き込む。


その寝顔は、まるで微笑んでいるように見えた。


幸せそうで、安らかな顔。


――少なくとも、妃はオレの隣で心を許して眠ってくれている。


無防備なその表情に、思わず口元が緩んだ。


そして自分も瞼を閉じる。


――面白い妃だ。


こうして結婚2日目の夜が過ぎた。



翌朝。


再び馬場で剣を握り、鍛錬に励んでいた。


新婚早々、汗を流す領主の姿に、家臣たちは不思議そうな顔をする。


――夜の疲れはないのか。


その視線に訝しげな色が混じる。


――とても言えない。


まだ交わってなどいないことなど。


今日は妃との披露宴。


淡い水色のドレスに身を包んだ妃は、ひときわ美しかった。


ーー本来、辺境の領主の隣に並ぶような人ではない。


オレには過分すぎる妃が嫁いできた。


妃はじっとこちらを見つめていた。


だが、その視線を返すことなど、どうしてもできなかった。


その夜も――寝室では具体的な進展はなかった。


日中は隣にいても、一言も言葉を交わさない。


けれど、夜になると妃は口を開く。


長い金髪をベッドに散らしながら、こちらを見て微笑む。


「・・・ワスト領の皆さんは、良い人が多いですね」


返す言葉は、やはりいつもの「そうか」だけ。


「生家の催しは、あのような気さくな雰囲気はありませんでした」


――それは領の大きさの違いだ。


このような貧しい地では、大規模な催しなどできない。


そう説明したいのに、口から出るのは「そうか」ばかり。


すると妃はふっと笑った。


「・・・グユウさんの口癖、面白いですね」


――面白い?


オレと話して面白いのか?


思わず妃の顔を見上げた。


次の瞬間、妃は――眠っていた。


寝返りを打った拍子に、その手がグユウの腕に触れる。


思わず口の端が緩む。


――起きているときは、とても顔など見られない。


眠っているときだけは、こうして素直に見つめることができる。


妃はやはり美しい。


そっと手を伸ばし、柔らかな金色の髪をぎこちなく撫でる。


そのぬくもりに触れながら、グユウは瞳を閉じた。


こうして、結婚三日目の夜は静かに過ぎていった。



翌朝。


朝食に出されたりんごの砂糖煮に、妃は目を輝かせた。


「これは・・・何の果物ですか?」


「・・・りんごだ」

グユウが答えると、妃は首をかしげる。


「りんご・・・聞いたことのない名前です」


「小さくて赤い果物だ」


「それはどのように育つのですか?」


――そんなに、りんごに興味があるのか。


戸惑いながらも、グユウは淡々と答えた。


「木だ。春に花が咲き、秋に実がつく」


「こんな美味しい果物、ミンスタ領では味わえません」


「そうか」


しかし、妃は畳みかけるように続ける。


「どんな場所で育っているのですか?」


「シリ様!」

乳母のエマが鋭く制した。


慎み深くあるべき、それが女性の理想とされていたからだ。


気まずい空気を和らげようと、ジムが口を添える。


「ちょうど今頃、りんごの花が咲いていますね」


「りんごの・・・花?」

妃の青い瞳が輝く。


「ええ。白くてとても綺麗な花です」

ジムが微笑みながら答える。


「見てみたい・・・」


小さくこぼした声は、子どものように純粋だった。


ジムは苦笑して説明する。


「ただ、花が咲く場所は山道で、馬車は通れません。馬なら行けますが・・・」


「馬なら行けるのですか?」

「ええ、馬なら・・・」


「じゃあ、行けます。りんごの花を見てみたい」


――話を聞いているのか?


グユウは思わず眉をひそめる。


ジムが慌てて釘を刺した。


「シリ様。先ほど申し上げたように、馬に乗れなければ行けない場所なのです」


その瞬間、妃はまっすぐに言った。


「乗馬は得意です」


妃の口から放たれた言葉に、食堂の空気が一瞬で凍りついた。


この時代、女性が馬に乗ること自体が珍しい。


どうしても乗る場合は、横座りに馬に腰かけるのが常識だった。


女性が男のように跨って馬を操るなど、恥ずかしいこと――誰もがそう認識していた。


それなのに、妃は平然と告げたのだ。


「乗馬は得意」と。


――馬に乗る?


グユウはフォークを持つ手を宙に止めた。


「グユウさん。りんごの花を見せてください。鞍も鎧もありますから」

妃は無邪気にそう言う。


「・・・鞍も鎧もあるのか?」

思わず、考えもせずに口をついて出た。


「ええ。兄上がプレゼントしてくれたのです」


「ゼンシ様が・・・女性に鞍を?」

今度はジムが驚きの声を上げる。


あのミンスタ領の領主・ゼンシが、女に鞍と鐙を与えるなど、常識では考えられない。


ーーだとすれば、相当な腕前に違いない。


この妃には、何かがある。


グユウとジムは顔を見合わせ、無言で頷いた。


「・・・わかった。これから行こう」

ついにグユウはそう言葉にした。




しばらくして馬場に現れた妃の姿に、思わず口を開けた。


長い金髪をきりりと一つに結い、上は婦人服ながら、下には乗馬用のキュロットを履いている。


その異様な姿に、隣のエマは青ざめた顔でスカートの裾を握りしめていた。


一方で、妃の瞳は星のように輝いている。


「その格好・・・」

思わず声が漏れる。


「いつもこの服装で乗馬をしていました」


――そうなのか?


「ミンスタ領では女性も馬に?」


「いいえ。乗馬をしていたのは私だけです」


「・・・そうか」


ーーどうやら、自分の妃は常識に収まらぬ人らしい。


視線を横に移すと、兄から贈られたという鞍が目に入った。


黒地に金の花模様があしらわれた、高価すぎる品。


妹にこんなものを与えるとは――そう思ったが、次の瞬間、納得させられる。


妃は軽やかに馬へと跨り、そのまま颯爽と駆け出したのだ。


その姿は、まるで風そのもの。


平坦な道に入ると、鞭をひと振り。


馬は勢いを増し、さらに速く走る。


――うまい。


その速度は男でも躊躇するほどだ。


だが妃は、恐れなど微塵もなく、むしろ嬉しげに瞳を輝かせていた。


金色の髪を風になびかせ、凛とした横顔を見せる。


思わず、見惚れそうになるほどに。


道が狭まり、妃はスピードを落とした。


その背を見つめながら、グユウはそっと馬を並べる。


「グユウさん、乗馬がお上手ですね」

妃が笑みを向ける。


眩しさに、思わず視線を前に戻した。


「・・・それほどでもない」


やがて、グユウが指を伸ばす。

「あの角を曲がれば、りんごの木がある」


道の先に現れたのは、枝を広げ、ぎっしりと花を咲かせた林だった。


白い花が雪のように連なり、甘やかな香りが風に乗って流れてくる。


「きれい!!」

妃が馬を止め、瞳を輝かせた。


「ミンスタ領には、こんな花はないわ!」


無邪気に歓声を上げる姿に、胸の奥に温かいものが流れる。


――これは、何だ? 奇妙な感覚。


白い花びらが風に乗って頬に触れた。


そうか・・・オレは楽しいのだ。


女と一緒にいて、楽しいと感じている。


それは味わったことのない感覚だった。


妃はりんごの木の下に腰を下ろした。


少し離れた場所では、ジムたちが馬の世話をしている。


「グユウさん。座りませんか?」

草地をぽんぽんと叩かれ、グユウは頷いて隣に腰を下ろす。


見上げれば、花の隙間から淡い青空がのぞいていた。


「・・・馬の扱いが上手だな」

思わず漏らした言葉に、妃は微笑む。


「ありがとうございます。ワスト領の馬が良いのですよ」


「いや・・・乗り手が良いのだ」


その一言で言葉が途切れる。


――やはり気の利いたことが言えない。


落ち込む気配を見せかけたとき、妃が口を開いた。


「・・・私は男に生まれた方が良かったと思うんです。兄からもそう言われました」


長いまつ毛を伏せながら妃は続ける。


「縫い物やお化粧よりも、馬や戦術の方が面白いんです。

でも、エマからは“そんなことでは殿方に愛されない”って叱られて・・・仕方ないんですけどね」


そう言って笑う横顔は、自嘲が入り混じっていた。


――そんなことはない。その姿は魅力的だ。


そう言おうとした。


けれど口から出たのは一言だけだった。


「・・・いや」


それきり言葉を閉ざす。


――どう言えばいいのだろう。


「いや・・・の次は何ですか?」


妃は真っ直ぐに目をのぞき込んでくる。


その瞳の強さに、思わず顔をそむけた。


苛立ちを含んだ声が重なる。


「そんなふうに顔をそむけるなんて。私の格好が変だからですか?」


――違う。違うのに。


けれど、形になる言葉が見つからない。


「いや・・・その・・・すまない。意味は特に・・・」


「何か思うことがあるなら教えてください。理由もわからないまま謝られても困ります」


妃が近くに迫り、青い瞳で射抜く。


ーーどうやら機嫌を損ねてしまったらしい。


どうすれば・・・。


「・・・いや。それは・・・わかった」


しどろもどろになりながら、妃を見つめる。


そして、言葉がこぼれた。


「・・・そんなことはない」


「何がですか?」

不満そうな眼差しに、必死で続ける。


「そんなことはない。・・・馬に乗る姿も、美しい」


――言ってしまった。


心の底で思っていたことを。


「え・・・?」


妃の青い瞳が驚きに大きく見開かれる。


次に何を言えばいいのかわからない。


ただ焦りながら、妃をじっと見つめる。


やがて妃は頬を赤らめ、俯いた。


その表情は愛らしく、いつまでも見ていたいほどだった。


白い花びらが風に乗って舞い散る。


その後、二人の間に言葉はなかった。


けれど――それはこれまでの重苦しい沈黙とは違っていた。


柔らかく、どこか心地よい。


――もっと話したい。


妃と・・・いろんなことを話したい。


そう思えたのは、生まれて初めてだった。


「・・・そろそろ戻りましょう」

ジムの声が静けさを破る。


――もう、そんな時間なのか。


もっと一緒にいたい。


その目を見つめ、触れ合えたら。


胸に芽生えた思いを押し殺し、グユウは手綱を取った。


りんごの花の香りを背に、帰路へと馬を進めた。



その夜――結婚して四日目。


月は少しずつ満ちてきていた。


銀色の光が雲を真珠色に染め、湖面にはにぶい輝きが揺れている。


寝室に入ると、妃は窓辺に立っていた。


振り返った顔は月に照らされ、淡く輝くように美しかった。


「グユウさん、一緒に月を見ませんか」


声をかけられ、嬉しさが込み上げる。


だが口から出たのは、いつも通りの無言の頷きだけ。


妃の隣に立ち、同じ月を仰ぐ。


「今日は楽しかったです」


――そう思ってくれたのか。


心が温かくなる。


だが返せる言葉はそれだけだった。


「・・・そうか」


ーー本当は伝えたい。


オレも楽しかった、と。


けれど、自分のような人間といて妃が楽しいはずがない――思わず口にしていた。


「オレといても・・・楽しくないだろ」


「どういうことです?」

まっすぐに向けられた瞳に、視線を少しだけ返す。


「オレは・・・話すのが得意じゃない」


「知っています」


「だから、オレといても・・・楽しくないだろう」


妃は一歩も引かず、強い声で返す。


「楽しいかどうかは、私が決めることです」


その瞬間、初めて正面から妃を見つめた。


結婚してから、初めてだった。


――こんな美しい女性が、自分といることを「楽しい」と言うなんて。


信じられない。


だが、その真っ直ぐな瞳は揺らがない。


「・・・どうした?」


今日の妃は、言葉少なに見えた。


その瞳はわずかに揺れながらも、何かを決意したように定まっていた。


「・・・グユウさんの目って、黒くて綺麗ですね」

かすれた声で妃がつぶやく。


――な、何を言っているんだ。


思わず呆然とする。


白く細い指が、そっとオレの袖を摘んだ。


控えめに、けれど確かな力で自分の方へ引き寄せようとする。


「おい・・・」

慌てた声が、唇から漏れた。


袖を引かれ、前のめりになったその瞬間――爪先立ちになった妃の唇が、オレの唇に触れた。


一瞬の重なり。


だが、もう抑えきれなかった。


グユウは、妃ーーシリを力強く抱き寄せた。


胸の奥で弾けるものを、そのまま解き放つように。


シリを強く抱きしめたあと、その身体をそっと抱き上げた。


驚きに目を見開くシリを腕に収めたまま、ゆっくりと歩く。


そしてベッドの縁に身をかがめ、柔らかなシーツの上へとシリを優しく横たえた。


金色の髪がシーツに広がり、月明かりに照らされて淡く輝く。


その姿を見下ろした瞬間、胸の奥に言葉にならない熱が込み上げた。


「・・・怖いか?」

シリの顔を見つめ、グユウは低くつぶやいた。


「怖くないです」

シリは即座に答える。


――それは、まるで戦さに挑むような眼差し。


「無理しなくていい」

「大丈夫です」

シリの瞳は強く揺らがなかった。


遠慮がちに触れると、シリの身体にわずかな緊張が走る。


その手を止め、グユウは静かに告げた。


「・・・やめるなら今だ。これ以上は、もう止まれる自信がない。嫌なら拒絶してくれ」


「それは・・・相手にもよります」


「オレでは・・・」

自信のなさに言葉が揺らぐ。


触れた手を引こうとしたとき――


シリはゆっくりと瞬きをして、柔らかな笑みを浮かべた。


「・・・グユウさんなら、良いですよ」


その笑顔は、これまでに見せたどんな表情よりも穏やかで、優しかった。


――オレで、いいのか。


胸の奥で、何かがほどけていく。


「・・・シリ」

全ての想いを込めてその名を呼び、彼女を抱き寄せた。


宝物を扱うように、慎重に。


この触れ方で、彼女の恐怖を拭えるのなら――。


シリは少しずつ力を抜き、その瞳は、まるで自分を求めるように潤んでいた。


「・・・シリ、大丈夫だ」

不安にさせないよう、何度も繰り返す。


――理由はわからない。


けれど、彼女がこの営みを怖れていることだけは確かだった。


シリはまぶたを持ち上げ、視線が交わる。


オレの顔を見て驚いたように目を丸くするシリ。


ーーどうやら、オレは笑っているらしい。


微動だに動かなかった頬が緩んでいる。


「・・・シリ。力を抜いてくれ」


彼女の瞳が潤み、静かに頷いた。


そのまま、彼女の細い腕が強く抱きついてくる。


――離したくない。


その温もりを胸に受け止めながら、夢中で彼女の名を呼んだ。


何度も、何度でも。



まぶたの隙間から、やわらかな光が差し込む。


鳥のさえずりが遠くで響き、夜の気配がゆっくりと薄れていく。


グユウはふと目を開けた。


腕の中には、静かに眠るシリの姿がある。


――あぁ、昨夜のことは夢ではなかった。


金の髪が枕に広がり、無防備な寝顔はあまりにも愛おしい。


胸の奥に、温かいものが満ちていく。


そっと身をかがめ、彼女の髪に口づけを落とした。


それは祈るような仕草でもあり、確かめるような仕草でもあった。


じっと寝顔を見つめていると、シリの瞼がふわりと開き、青い瞳が自分をとらえた。


「・・・おはようございます」

小さな声でそう告げると、頬がほんのり赤く染まる。


「あぁ」

返事はそれだけ。


――こんな時、何を言えばいいのだろう。


“昨夜は良かったか”


――いや、そんな露骨なことは言えない。


結局、言葉は喉で詰まり、出てこなかった。


「今日は鍛錬をしないのですか?」

シリはもぞもぞと身体を動かし、布団を引き寄せる。


服を着ていないことに気づき、戸惑ったようだった。


「・・・そろそろ行く」


「普段は、もっと早い時間から鍛錬していましたよね」


――彼女のいいところは、思ったことを素直に口にしてくれるところ。


無口な自分にとっては、それがありがたかった。


結婚してから、彼女が目覚めた時に自分が隣にいるのは、これが初めてだった。


「・・・鬱憤を晴らすために鍛錬していた」

恥ずかしそうに目を伏せながら言う。


「鬱憤、ですか・・・?」


「オレも、男だ」


シリを優しく抱きから放すと、グユウはベッドから名残惜しげに立ち上がる。


――もっと気の利いた言葉が言えればいいのに。


そう思いながらも、何も出てこなかった。


馬場へ向かう足取りは、ふわふわと浮ついていた。


――オレは浮かれている。


恋焦がれた妻と、夜を共にした。


それでも、オレは結婚に向いていない男なのだろう。


けれど――


グユウはふと足を止めた。


――彼女と過ごすのは、楽しい。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました!


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフとして、グユウ視点で描いたものです。

本編では、姫シリの視点から政略結婚と戦乱の物語が展開していきます。

短編だけでも楽しめますが、本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わると思います。

よろしければ本編もご覧ください!


→ 本編「秘密を抱えた政略結婚 〜兄逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜」

(Nコード:N2799Jo)


続いて2作目の短編です。

『無口な領主ですが、初夜の翌日から姫に翻弄されています』

よろしければこちらからご覧ください。

→ https://ncode.syosetu.com/N1000KZ/


追記3作目の短編です。


「無口な領主ですが、気の強い姫に少しずつ変えられていく話」

本編はこちら → https://ncode.syosetu.com/n4050kz/


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