第6話 私の平穏を壊す者
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初めて公爵家に足を踏み入れてから、約一週間が経過した。
旦那様は依然として顔を出さないが、そのお陰もあって私の周りは今、結構平和である。
結果的に使用人たちは、あれ以降私にあからさまな嫌悪感を示す事はしていない。
特に冷遇されるでもなく、しかし厚遇されていない。
正に私が望んでいた『普通の対応』をされている。
それでも身の回りの物――タオルや周りの調度品は、叔父夫婦と住んでいた時よりも、数段いい物が与えられているのだから、改めて「やはり叔父夫婦は体裁を気にしていただけで、そこに関係しない部分にはとことん節制をしていたのだな」と実感する日々だ。
そもそも叔父夫婦と私とでは、使う物の質に開きがあった。
共通する生活空間内で使う物でさえ、私と彼らとでは区別されていた。
勿論、使う物そのももが区別されていた、という意味ではない。
品質が、それこそ一目見ただけで分かる程に違う物が私には宛がわれていたのである。
最初こそ、勝手に叔父夫婦の物を使ったり、口論したりしていた。
しかしやがて「その程度の違い、私の害には到底ならない」と気が付いてからは、面倒臭くなって抗うのを止めた。
その時から、幼いながらに自身が彼らに冷遇されている事には、気が付いていたけど。
「意外と気持ちのいいものなのね、普通に遇されるのって」
いつものように自分で紅茶を淹れながら、私はポツリとそう漏らす。
「遇されて『気持ちがいい』だなんて、聞く人が聞いたら高慢な人間が優越感に浸っているようにも聞こえますよ?」
「勿論そんな意味ではないわよ。ただ普通に、シミも黄ばみもないナフキン一つで、『まるで心が洗われるようだ』とか、そういう意味の“気持ちいい”」
「私は理解していますけど」
なら、別に言い換える必要、ないじゃない。
ここにいるのは、私と貴女の二人だけなのだし。
内心でそう言い訳をすると、「もしこの屋敷の者に聞かれたら、またよからぬ噂の恰好のエサですよ?」と釘を刺されてしまった。
ミリアンが言っているのは、社交界での過去のあれこれの事だろう。
私自身、自分の言動が周りに波紋を呼ぶ事がしばしばある自覚があるけど、実しやかに流れている噂話の中には、実際に私がやった事もあれば、根も葉もない物もある。
それらがすべて当たり前のように信じられているあたり、日頃の行いが出ているのだろうけど。
「言わせておけばいいじゃない」
「そんなふうに無頓着だから、噂に尾ひれがつきまくって原形を留めなくなるんですよ」
このメイドは、昔から少々揚げ足取りというか、からかい交じりにこういう指摘をしてくるところがある。
私は、私に少しくらい言い返してくる相手の方が傍にいて楽だという事もあって、こうして傍に置いているけど、普通はメイドがこんな事を主人に言っていたら、すぐさま不敬だとして罰せられるだろう。
寛大な私に少しは感謝してほしい、と思いながら、ミリアンの顔をジーッと見て。
「何です?」
「別にー?」
ともあれ、だ。
食事以外の私の身の回りの事はすべて、私自身かこのミリアンがする。
それ以外の時や裏方仕事では少なからずこの屋敷本来の使用人の手が入っている筈だけど、そこでもミリアンが先回りして取り除いてなどいない限りは、目立った排除や妨害の意志は見られない。
ここでの生活は存外快適だ。
あのクソ叔父夫妻と屋敷内で顔を合わせる事もなくなり、気分を害する機会も絶滅した。
これならば心安らかに、制裁のための調べと手配に時間を使え――。
コン、コンコンコンコン……と、何かが弾み、転がる音がした。
何だろうと足元を見てみると、一体どこからやってきたのか、敷かれている部屋の高価な絨毯の上に、丸みを帯びた石が一個落ちている。
コン、コンコンコンコン……コツリ。
もう一つ飛んできた石が、今度は私の靴の横に触れるようにして止まった。
今度は見た。
間違いなくこの石が横から飛んできた。
飛んできた先に、視線を向ける。
そこにあったのは出入り口で、いつの間にか少し開いた扉から、小さな人影が僅かに見えている。
どうやら相手は、私の視線に気が付いたらしい。
「どっ、どうしよう、兄さま! こっち見てるよ?!」
「ちっ、とっとと逃げるぞ!」
「あっ、待ってよぉ!!」
丸聞こえのやり取りの後、パタパタという足音が遠ざかっていく。
「……子ども?」
姿は見えなかったけど、声の感じと軽い足音はいかにもそういう感じだった。
使用人の子どもなどだろうか。
それにしては、あまりにも不敬が過ぎるけど。
そう思い首を傾げたところで、ミリアンが少し呆れたように「お忘れですか?」と言ってくる。
「貴女様の旦那様には、子どもが二人いらっしゃいます。まだお会いはしていませんが」
「あぁ」
そういえば。
すっかり忘れていた。
「旦那様は屋敷内にいないっていう話だったから、当然子どもたちもいないのだろうと意識の外に置いていたのだけど、もしかして子どもたちだけで残しているの?」
「どうでしょう。少し聞き込んできましょうか」
「うーん……」
どうするか。
「っていうか、母親を手に掛けて晒しておいて、子どもたちも放置って……噂通りなら旦那様、かなりの『血も涙もない奴』じゃない?」
「その話だけを聞けば、まぁそうですね」
「放置するくらいなら、どこかに養子に出すとか、孤児院に連れて行くとか、やり方は幾らでもあるでしょうに」
どうやら私の旦那様は、子どもに対する責任感が思い切り欠落しているらしい。
たしかに噂が事実なら、自分とは血が繋がらないのだろうし、屋敷内には複数の使用人――もとい、世話をしてくれる大人がいる。
お金さえ入れているのなら、生きる上で困りはしないのだろうけど。
それでも子どもだって、望んでこんな環境に生まれた訳ではないだろう。
それなのに、まるで顧みていないのだとしたらそんな夫、二度と帰ってこない方が屋敷は平和なのではないだろうか。
子どもたちの事は知らないけど、少なくとも私はあまり顔を合わせたくない。
意図は分からないが、こちらに石を投げてきた不敬な子どもたちを私がお咎めなしにしたのは、私に実害がほぼなかったからに他ならない。
子どもの遊びに目くじらを立てる程、私も懐は狭くないのだ。
しかしそれも、実害があった場合は話が変わる。
上がった投擲精度によって、当たるようになった石を避けたところ、窓ガラスをガシャンと割ってみせたり、廊下の行く先で紐を引っ張った結果、私……ではなくちょうどたまたま通りかかった不運なメイドが足を引っかけて転んだり。
段々と脅威の気配が近づいてきたと思ったら、本日ついに庭を散歩中だった私の顔目掛けてホースで水がかけられた。
避ける暇もなかった。
近くにいたミリアン共々、頭から水を被った。
初めて自分たちの企みが真っ当にうまくいって、嬉しかったのか。
せっかく隠していた身をわざわざ晒してまで、彼らが言ったのが、コレである。
「あれぇ? おばさん、何で頭から水被ってんのー?」
「お風呂はここじゃないって、知らないの? ……で、よかったっけ、兄さま」
「合ってる合ってる」
わざとらしく、ニヤニヤと笑う十二歳らしい兄と、多少オドオドとしている六歳の弟。
二人のこの悪意満々の言葉に、ついに私の額にも血管が浮いた。
「上等じゃない」
淑女に突然水を浴びせかけるという、この暴挙。
つまり、これは私への宣戦布告よね?
「制裁の準備を始める前に、お前らの性根を叩き潰ぅす!」
「やるなら根性は叩き直してください」




