第5話 愛情の反対 ~夫・シディアン視点~
§ § §
『シディアン・ルー』。
食堂で夕食を終えた俺は、自分の名前が書かれた札がかかった部屋の扉を開ける。
一人部屋だ。
騎士宿舎ともなれば、使用人もいない。
戦場に使用人など連れて行ったところで荷物にしかならない以上、自分の身の回りの事はすべて、自分でやるのがここの通例だ。
当たり前のように真っ暗な室内で、俺は慣れた手つきでランプに火を入れ、ちょっとした荷物を机に投げる。
ゆらゆらと揺れる蠟燭の炎に照らされて、投げた物が机上を滑って一つ落ちた。
ハァとため息を吐きながら、訓練で適度に疲労した体を折り、それを拾う。
手紙だ。
神経質そうな達筆で書かれた宛先は、俺。
送り主の名は、ノイマン。
「やはりあいつからか」
言葉と共に思い出したのは、見知った初老の執事の顔である。
彼には、俺が留守の時の屋敷の一切を取り仕切らせている。
領地経営も、屋敷の管理もすべてだ。
故に、この男からの手紙と言えば、決まって仕事の報告だ。
どうせまた小難しい事があれやこれやと綴られているのだろう。
そんなふうに思いつつ、来た手紙だ。
もう何年も殆ど屋敷に帰っていないとはいえど、これでも俺はまだ一応ルー侯爵家の当主である。
読まない、という訳にもいかない。
仕方がなく手紙の封を切り、中の文章に目を通す。
案の定冒頭から、領地経営に関する報告が綴られていた。
領内で作っている穀物を始めとする食品の収穫報告と、それを用いた分析。
収穫結果は例年通りで、干ばつや病気・害虫などの食害による影響はそれほど出ていない。
もうすぐそれ以外の領内の商い報告――領内税収に関連する領民たちの年間収入も入ってくるが、こちらもおおむね例年通りだろうという予想などが綴られていた。
例年通りなら、それでいい。
増えているなら御の字だが、減っていた場合は原因調査や補助金の給付、下手をすれば領外への大量の物資買い付けなどをしなければならなくなる。
そうなれば、流石に当主が動かねばならない。
「そういった事には、興味がないんだ。俺は剣さえ振れればいい」
問題なければ、当主が動く必要には迫られない。
それはつまり、自分の邪魔にならないという事で。
おおむね満足した。
故に手紙は、ポイと机の脇に投げておく。
俺は一応周りから『英雄』と呼ばれる立場にある。
たくさんの敵を殺し、結果的に味方を守り、そうして得た呼び名である。
しかし今はもう、それすらむなしい。
昔は少なからずあった剣や武勇に対する執着も、今はもうなくなってしまっていた。
王族からの覚えの良さや褒章を貰う事さえも、こちらから辞退できるようなものではないから仕方がなく受け取るが、ただそれだけだ。
基本的に俺は辺境の地の騎士寮で寝起きする、今まで繰り返してきた日常を、ただ淡々とこなしているだけ。
一体何が楽しいのかと聞かれれば、特に楽しい事はない。
そもそも生きる事は、楽しい事ではない。
多くの問題やしがらみや、過去に囚われるのが人間だ。
――そんな人間に新しい妻など、必要ないのだが。
そう思ったのは先程の手紙の最後に、名目上の妻となった女が屋敷に到着したという旨が書き連ねられていたからである。
婚姻は、お祖父様が勝手に手を回した事だ。
俺も婚姻届けにサインはしたが、それはただ「騎士なんぞやっておらんで、帰ってこい」といつも煩い祖父が「籍を入れるだけでいい。そうすればもう何も言わん」と言ってきたからに他ならない。
我が家は、父は天災で、母は病気で他界している。
存命の血縁は、もうお祖父様のみだ。
だから何かと俺を気に掛けたいのだろうが、あの無口な老人と俺との間に、長話なんてあった試しがない。
正直な話、無理に気にかけてもらわなくて結構だ。
が、あの老人は何を言ってもこちらの話などまるで聞かない。
――ゼリア・ヴァンフィーリン。
騎士として戦った数年間、職務を口実に一度も社交界に顔を出さなかったから、本人の事はまったく知らないが、それでもヴァンフィーリン公爵家の評判は、戦地にいても届く程である。
金遣いが荒く、周りを見下し、権力を振りかざす馬鹿一家。
金はすべて浪費に回し、国防のために戦地に騎士を送る事もなければ、物資を寄こす気配すらない。
ああいうのを金と権力の持ち腐れというのだ、と。
アレを、ノブレスオブリージュという言葉の意味を忘れた非貴族と呼ぶのだ、と。
そんな家の娘である。
まともな筈などないだろう。
「そんな女を妻にというお祖父様の、気が知れないが……まぁいい。幸いにも、陛下から賜った報奨金には使い道がない。腐る程ある。その範囲であれば、好きにさせていればいい」
そもそも屋敷におけるすべての事は、ノイマンに任せている。
その『すべて』の範囲には、その家に住む事になった『嫁らしき人間』も含まれる。
“ご令嬢と、リトリド様とニーケ様との御面会は、ゆっくりと時間を空けてから徐々に行いたいと思っております”
手紙に書かれていた最後の一文を思い出す。
リトリドと、ニーケ。
頭の片隅からすら追い出そうとしてきた、妻の不貞の紛れもない証拠たち。
たった一度会ったきりだ。
覚えているそれらの表情は、ひどく朧気ではあるが。
たしか母親の後ろに隠れた、怯えたような顔の子どもたちだったような気がする。
俺の面影の欠片もないそれらに、制御しようのない怒りがこみ上げて――。
考えるのを、止めた。
気分が悪くて、吐き気がした。