第21話 私とニーケのあの日の事➁
いかにも「私を『主人を自虐に導く酷いメイド』にしたいのか」と言いたげだけど、実際にその通りなのだから仕方がない。
だって、十分主人への配慮がない言い方だったもの。
少なからず「主人を揶揄ってやろう」という、いつもの軽口心があった筈だ。
「それで、何なの? あの子の目的って」
「それはご自分で考えてください。多分、自分で気が付かないと意味ないです」
頑ななミリアンをジッと見て、「折れそうにない」と認めてため息を吐く。
こうなると、ミリアンは梃子でも動かない。
主人相手にも動かないとはどういう了見なのかと思わないでもないけれど、こういうところも結構気に入っていたりするので、これ以上の強要もできまいと、諦める。
再び作業に戻ったけど、やはり時折思い出したように、ズリッ、ズリッという音は聞こえて来ていた。
もう何度目になるか分からないその音を私もじきに気にしなくなり、手元に集中していたのだけど、近くでカタンという音がして、ふと集中から浮上した。
「えっ」
いつの間にか、私の座っている椅子の隣に彼の姿がある。
彼付きのメイドが手伝ってか、画材はテーブルの上に乗せられ、椅子に座って書く彼の絵は、隣に座る私の位置からもよく見えた。
「あら、上手」
思っていたよりずっと上手な絵に、思わず誉め言葉がポロリと零れる。
ニーケがふいっと顔を上げるた。
私と目が合う。
その目がパチクリと瞬いて。
「僕、じょうず?」
「えぇ。とても躍動感があって」
ニーケが描いていたのは、動物だ。
屋敷の敷地内にいるのだろう。
走る馬の絵で、地を蹴る足に、揺れる尻尾。
どう見ても何度も走っているのを見た事がある人間が描いたものだ、と思った。
「馬が好きなの?」
「うん、かわいいよ?」
「そうね、馬は温厚だし」
私もここに来るまでの道中で、馬車引きの馬にはお世話になった。
そう考えれば馬というのは、貴族にとって最も生活に近い動物なのかもしれない。
「馬はね、『ブルルン』って鳴くんだよ」
「あら、それは鼻を鳴らす音でしょ? 鳴き声じゃないわ」
「じゃあ、馬、鳴かない?」
「鳴くわよ、『ヒヒィン』ってね」
「『ヒヒン』?」
「『ヒヒィン』よ。この間の『ィ』が、結構大事なんだから」
それがあるだけで、かなり似る。
そう答えてやると、彼は何だか嬉しそうに目を輝かせて。
「ゼリアさんは、色んな事を知ってるんだね」
「あら、リドリトも色々と知っているでしょ?」
「兄さまもいっぱい知ってるよ。でもこのお話は、した事ない。兄さまは、『馬は見るものじゃなくて、乗るものだ』って言ってた」
「まぁ、たしかに男性にとってはそうなのかも」
私にとっては馬は馬車を引く存在だけど、男性は社交の一環で遠乗りや狩りなどをする事もある。
馬に乗る事はそれらを行うための前提技術、できなければならない事の一つである。
「ニーケは、馬に乗った事はある?」
「ううん、まだ。でも、僕は見てる方が楽しいと思う」
そうなのね。
てっきり私は、この子はいつでも兄の背を追いかけているような子なのかなと思っていた。
しかしどうやら違うらしい。
彼の中にはしっかりと彼の世界が構築されていて、『我』というものも存在するようだ。
「そう思えるものがあるって、とてもいい事よ。私だって、立場上色々な事を教えられてできるようにはなったけど、『できる』と『好き』は別にあっていいと思うわ。貴方は大人になる前に馬に乗る事を教養として身に着ける必要があるけれど、それとは別に『馬を眺めるのが好き』というのも持っていていいと思う」
「好きじゃない事も、できなきゃダメ? 僕、ずっと絵を描いてたい」
ポツリと溢すような彼のこの本音には、どんな意味が隠れているのだろう。
勉強が嫌い?
できなくて叱られた?
それとも兄と出来を比べられた?
分からない。
でも、たとえ何を聞いたとしても、私が返せる答えは一つである。
「そうね。好きな事だけやりたいという気持ちは、とてもよく分かるわ。そっちの方が楽しいものね」
「うん」
「でも、苦手でも嫌いでも、できるようになるべきだわ」
「何で?」
「そんなの、決まっているじゃない。『できないと、周りに舐められるから』よ」
ニーケがキョトンとした顔になった。
それが何だか可笑しくて、ニヤリと笑いながら続ける。
「だって、皆できる事が、一人だけできないなんていう事になってみなさい。間違いなく馬鹿にされるわ。そうしたら、みんなで楽しく遊べない」
「そうなの?」
「仲間外れにしたりする馬鹿が、この世には意外とたくさんいるのよ。本当なら、誰しも得意と不得意があるんだから、別にできない事があっても、その分他で補えばいいのにね」
私が言った今の言葉には、自身の愚痴も若干含まれていた。
昔、そういう意地悪をされていた人間がいたのだ。
私は幸い負けず嫌いが高じて苦手は特になかったけど、刺繍が苦手な子がいて、周りから笑われてしまっていた。
それが私には理不尽に見えて、横から口を挟んで私の喧嘩になった上に、勝ったところで意地悪されていた子からは「怖い……」と距離を取られた訳だけど。
それでも結果的にあれ以降、あの手の意地悪を視界に入れる事はなくなった。
少なくとも私の視界は、平和になったのだ。
そういう成功体験の話を少し思い出したのである。
「特に私や、貴方もそうだけど、親がいない子は何かできないとすぐに『いない親のせい』にされるのよ。腹が立つわよね」
「それは、僕、嫌」
「でしょ? それにできないとリドリトにまで飛び火しかねないわ。『誰もができる事ができない弟を持った兄』って。私の場合は一人っ子だったから、その心配はなかったけど」
私の場合、その代わりに叔父夫婦が攻撃対象足り得たのだろうけど、別にあの人たちがどう言われようと、私の心は痛まない。
ある種、評判に影響が出ても困らない人間しか傍に居なかった事が、私自身が評判を気にせずにこれまで過ごせた理由なのかもしれない。
「兄さまが馬鹿にされるのは、嫌!」
「そう。なら、嫌いな事も苦手な事も、程々にできるようになるくらいまでは頑張らないとね」
「そっか……」
ニーケは納得と同時に、自身の小さな手に視線を落とした。
まるで決意の表れであるかのように、彼の両手の拳がギュッと握られる。
彼なりの決意がそこにはあるのだろう。
きっと兄が弟を守ろうと奮闘するのと同じく、弟だって兄を守りたいと思っているのだ。
一人っ子だった私には、味わえる筈もない感覚だけど。
「私にも兄弟がいたら違ったかしら」
「ゼリアさんも、兄さまほしいの?」
「そうねぇ、いたらどうなのかなって考えた事はあるかもしれないわ」
「じゃあ僕の兄さま、貸してあげる」
「え? リドリトを?」
思わずフッと笑ってしまった。
だってリドリトを「お兄様」と呼ぶ私の図を想像してみなさいよ。
どう考えても可笑しいじゃない。
それに、間違いなくリドリトが苦々しい顔になるに決まっているわ。
……少し見てみたいような気が、しなくもないけど。
「あの子が兄になんてなったら、多分私から逃げ回るわよ?」
「大丈夫だよ! だって兄さま、優しいもん!」
それは貴方に対してだけよ。
そんな言葉を飲み込む代わりに、更に笑ってしまったのだった。
「という事で、リドリト、私の兄になってくれる気はある?」
「ハァ? ないわ!」
「ないんですって。せっかくニーケからのお勧めだったのに」
「兄さま、ならない……?」
私がわざとらしく悲しむと、ニーケが少しショックのような、悲しげな顔で兄に聞く。
「い、いや、俺は、その、ニーケの兄さまだし」
「ふふふふふっ」
「おいお前、笑うな!!」
堪え切れなかった私のせいで、リドリトがクワッと声高に吠えた。
こういう時のリドリトは、相手に舐められないための威嚇をしているのだ。
小型動物みたいな虚勢の張り方をするのが可笑しくて、私は更に笑ってしまう。
お陰で彼は更に気を悪くするという、明らかな悪循環が生まれてしまうのだけど――。
「ん? ノイマン、何か用事だった?」
気が付けば、リドリトたちが入ってきた時に開けっ放しにしたままだったらしい部屋の扉の外に、ポカン顔のノイマンが立っていた。
基本的に、彼は私の傍にはいない。
来る時は、決まって何か用事がある時だ。
「ノイマン?」
「えっ、あ、あぁ、失礼しました。奥様にお客様がいらっしゃったのですが」
「お客様?」
悲しい事に、私にわざわざ王都でもなければ大都市とも言えないこんな領地に、訪ねて来てくれるような友人はいない。
一体誰が――。
「それが、第五王子・ディートリヒ様と名乗っておりまして」
「ディートリヒ様が?」
「だれー? ディートリヒさまって」
ニーケが、私のところまで走ってきて、ギュッと抱き着いて聞いてくる。
まぁ、隠す必要もないか。
「ディートリヒ様は、この国の第五王子で――私の元婚約者よ」




