第20話 私とニーケのあの日の事①
ちょうど二週間ほど前。
「あら? リドリトが一緒じゃないのは珍しいわね」
部屋まで一人でやってきたニーケに、私は小さく驚いた。
私は、たまに庭に出たりする事はあるけど、午前中は大抵自室にいる。
私が彼らの事を少しずつ知っていっているのと同じように、彼らも少なからず私のそういう部分を分かってきているのだろう。
リドリトからも「探したんだぞ!」とか「勝手にどっか行くな!」と怒られる事がなくなった頃だったので、私の予定を予測した兄の『私探し』の技術は、一緒にいた弟にも何かしらの収穫を齎していたのだと思った。
ニーケは、リドリトと三人で過ごす事には大分慣れてきたようだったけど、兄がいない環境下では、やはり緊張せざるを得ないようだった。
私の事を、入り口の扉から顔だけ出して覗き見てきている。
座ったら? と言う事もできた。
しかし遠慮のないリドリトには適当に言えるその言葉も、同じように言ってしまったら彼を怖がらせてしまうような気がして……。
「貴方のための席はここにあるし、ここには温かい紅茶と美味しいフィナンシェがあるけど、どこにいるかは貴方の自由よ」
強制的に席に着かせたい訳ではなかった。
命令だと思ってほしくなかった。
だから少し考えた結果、こんな言い方になった。
これでもいつもより少しだけ多く、言葉を尽くしたつもりである。
彼が私に恐怖を抱いているのなら、あまり構っても可哀想かと思った。
だからそれ以降は手元に視線を落とし、作業を再開する事にする。
ハンカチ生地にチクチクと刺繍を入れ、チラリと入口の方に目をやる。
彼は、少しの間私を観察した後で、入り口から一歩室内に入り、そこでお付きのメイドが持っていたお絵描きセットを広げ始めた。
――この子は本当に、絵を描くのが好きよね。
兄と一緒に来た時も、よくお絵描きセットを持参して、絵を描いていたなと思い出す。
一人でも、楽しそうに画用紙に向き合っていた。
そんな彼を盗み見して、怯えが消えたのを確認して、少しホッとして。
ニーケは今年で六歳だ。
貴族教育は早ければ四歳、遅くても五歳頃から徐々に始まっていく。
彼も既に教育を受けている筈で、その中には貴族の嗜みとして芸術面の基礎も含まれている。
基本的に貴族の嗜みは芸術鑑賞の方面だけど、稀に作り手に回る者もいて「もしかしたらニーケもそちら側に興味を持った人間なのかもしれないわね」なんて、内心で思って、私は小さく微笑んだ。
すっかり目の前の紙に集中している彼を見て、「芸術家向きな性格をしてはいるのよね、この子」と考えた。
内向的な子というのは、自身の内に世界を作れる子が多い。
好きこそものの上手なれとも言う。
この年でこれだけ集中できるのなら、今から続ければ、もしかしたら成人の年齢になる頃には、立派な芸術家になっているかもしれないわね。
そんなふうに思いながら、手元の刺しゅうを進めていると――ズリズリ。
そんな音がした。
何の音かと思ったら、早々と一枚目を書き終えたニーケが、子どもの足で二歩半くらいの距離、先程よりも近づいてきている。
……いや、そんな気がするだけで、気のせいか。
すぐにそう思い直し、視線を再び刺繍に落とした。
チクチク、チクチクと針を刺す。
刺繍は少しずつ、形になっていく。
喉を潤したくなって、一度視線を上げた時だ。
ズリッ。
音のした方に視線を向けると、ちょうど中腰のまま画材諸々を引っ張るニーケの姿と共に、ズリッという音がまた聞こえてきた。
お付きのメイドが、彼の移動の手伝いをしようとしたのだろう。
彼の下に駆け寄ろうとしたけど、彼女が行きつく前に彼は進行を止めてまた絵を描き始める。
そんな彼を、メイドが困惑顔で見ていた。
彼の不思議な行動の理由を、慮る事ができなかったのだろう。
しかしそれは私も同じで。
「何がしたいのかしら、あの子」
「え、分からないんですか? ゼリア様」
ポツリと呟いた私に、ミリアンがそんな声を上げた。
「え、分かるの? ミリアン」
後方に視線を向けると、いつも通りそこで待機している見慣れたメイドの姿がある。
……が、ものすごく呆れた顔になっていた。
ハァとわざとらしく深いため息を吐いて「分かりませんか、この健気な子ども心が」なんて、更に言ってくる。
「悪かったわね、もうとっくにそんな綺麗な心なんて失っていて」
「そこまで言っていませんよ。私を利用した自虐は止めてください」
私が悪いみたいじゃないですか。
ミリアンが少しムッとしている。




