第13話 私の真実
使うにあたり、どうしても無傷とはいかなかった。
毎日手入れして磨いていても、細かな傷はついてしまう。
形見としてもらった当時と比べると、おそらく劣化もしているだろう。
それでもこれを手にする度に、刻まれていく秒針を見る度に、お父様とお母様の事を思い出す。
そうすると少しだけ、心が温かくなる。
「……俺たちも、母親はもういない」
「えぇ、知っているわ」
「父親は、どこにいるか分からない」
「旦那様、全然帰ってこないものね」
「違う。あの人と俺たちに、血の繋がりはない」
そこまで言われて、私は彼の言う『父親』が実の父親の方なのだと思い至る。
「え、貴方の父親はまだご存命なの?」
「そうだよ。お母様がいなくなっちゃって、出て行ってからは一度も会いに来てくれないけど」
やはり噂は信用ならない。
「そう。会いたい?」
「よく分からない」
テーブルの上で、リドリトはギュッと両手を握る。
彼らの事情は分からないけど、父親を恋しく思う反面、「会いたい」という気持ちをまっすぐ口にできないくらいには、おそらく複雑な感情も同時に何かしら持ち合わせているのだろう。
「でも、俺は兄だ。だからまずは、ニーケを守らないといけない」
言いながら、彼は胸元に手をやった。
そこには布……いや、リボンだろうか。
そういうもので作られた小さなブローチが付けられている。
男の子には、少し可愛すぎるデザインだ。
もしかしたら私にとっての懐中時計と同じように、彼にとってのソレも今は亡き人の物――彼の心の支えなのかもしれない。
「何故私を『悪者』だと思ったの?」
言いながら、蒸らし時間が終わったポットを傾けて、カップに紅茶を注ぐ。
用意したカップは三人分。
こういう事もあるかもしれないと、いつもの一人用のポットより一回り大きなものを用意していたお陰で、十分三人分に足りる量の内容量をゆっくりと注ぐ。
紅茶の優しい香りが、鼻孔をふわりと擽っていく。
癒されていると、リドリトがポツリと一言溢す。
「……ノイマンたちが言ってたのを聞いたんだ。夜、部屋を抜け出した時に、たまたま」
「彼は何と?」
「『旦那様が、奥様を娶った。しかしかなり気性が荒く、金遣いも荒い人らしい』とか、『旦那様は依然として屋敷に戻る気はない。奥様に屋敷内を牛耳られるかもしれない』とか『屋敷内の物は皆、虐げられる可能性がある』とか、色々」
「ノイマン……」
思わず深いため息と共に、額を抑えずにはいられない。
彼は私がこの子たちの悪さについて話した時、何も心当たりがないようだった。
あの時の彼の様子を見ても、実際に今の話を聞いても「彼が直接この子たちに何かを吹き込んだ訳ではないのだろう」という私の見解は変わらない。
しかし。
「ミリアン」
「はい」
「あとでノイマンに、『何を思うのも、私の悪口を言うのも構わないけど、せめて外部の人間や子どもたちに聞かれるような場所では言わないように』と言っておいて。前者は外聞が、後者は子どもたちの教育に悪いわ」
「畏まりました」
刺すべき釘は刺しておくべく、忘れないうちにミリアンに丸投げしておきながら、子どもたちの前に紅茶を淹れたカップを置いて、誰よりも早く私自身が淹れたての紅茶に口を付けた。
……うん、上出来。
「それでリドリトは、そうして聞いた悪者からニーケを守るために、ああいう事をしたという事でいいのかしら」
「そうだ! 弟は、俺が悪者から守るんだ! それが、お母様との約束だ!」
「そう。じゃあどうすれば、貴方は弟を私から守った事になるの?」
「悪者はこの屋敷には要らない!」
「つまり、私をここから追い出せば成功?」
「そうだ!」
「そう。それは――とても素晴らしい事だわ」
「そう……ん?」
また「そうだ」と言いかけて、リドリトが思わずと言った感じで首を傾げた。
しかし私は言い間違えた訳ではない。
「だって貴方は弟を守るために、自ら目標を立て、そのための策を立案し、実行した。計画力と行動力、両方ないとできない事よ。貴方、まだ十二歳でしょう? その歳でそれだけできれば十分。あとは詰めの甘さをどうにかすれば、社交界での化かし合いの中でも十分やっていけそうだわ」
頭がいい。
責任感もある。
後者が「保護者不在という不安定な状況によって半ば強制的に生まれざるを得なかった」と思えば少々悲劇的だけど、『持たない現状』を悲観しても仕方がない。
そう在れる現状を誇るべきだ。
その上で、私が言えることがあるとすれば、一つ。
「『私を追い出したところで、私以外の性悪がまたやってきたら意味がない』という方向の詰めの甘さの矯正は、経験と積み重ねが必要な難易度の高いものだから、今はひとまず横に置いておくとして」
彼らをまっすぐに見据えて言う。
「誰かに聞いた話を元に自身の行動指針を決める場合は、その情報提供者が嘘をついていないか。本人が嘘をついていなかったとして、それは本当の情報なのか。それらの精査ができない人間は、周りに踊らされいいように使われるわよ?」
「俺がノイマンに、いいように操られたって言いたいのか!」
「いいえ。これは二人の話を聞いた私の感覚だけど、彼に他者を躍らせる気はなかったと思うわ。気にするべきは、『本当の情報か』という部分」
自分が手に入れた情報が真実か否かを突き止めるのは、大人でもかなり難しい。
情報とは基本的に、生き物である。
いつ変わるとも知れないものだし、真実か否かに他者の悪意が関係する場合、事はより複雑化するだろう。
だから私は、自分の目で見たものや、自分の耳で聞いた事、自分で抱いた印象しか信じない。
他者からえた情報は、一つの参考くらいにはするけど、決定的な証拠にはなり得ない。
その証拠に。
「私はね、本当はここに来るの、嫌だったのよ」
「え」




