第2章:悪魔嫌いの神父と、軋む廃教会
獅堂 守が去った後、僕の体内のベリアルは、しばらく沈黙を保っていた。しかし、教会の静寂が戻ると、再びその意識が僕に皮肉を投げつける。
「全く、滑稽な神父だ。私を憎悪しながら、その規律のために私を生かしておくとは。しかし、宿主、忘れるな。あの男の目には、私への殺意と、お前への侮蔑しか宿っていない」
「……わかっているよ」
僕は、床に手をついたまま立ち上がった。体は鉛のように重いが、今夜襲われる心配がなくなったという安堵感が、僕の神経を麻痺させていた。
僕は、獅堂の指示に従い、二階へと続く、軋む木製の階段を探した。
階段を上ると、そこは教会の回廊になっていた。高い天井と、割れたステンドグラスが並ぶ壁。月明かりが床に複雑な影を落としている。その回廊の奥に、いくつかの小さな木製の扉が並んでいた。
一つの扉を開けると、そこは小さな部屋だった。壁は石造りで、窓には鉄格子が嵌まっている。簡素なベッドと、小さな木製の机があるだけの殺風景な部屋だが、湿気とカビの臭いの中に、わずかに古い香木の匂いが混じっていた。
僕はリュックを床に投げ出し、疲労のあまり、ベッドに身を投げ出した。シーツは固く、薄い毛布は肌触りが悪い。それでも、悪魔の追跡と恐怖に怯えずに眠れる場所ができたという事実だけで、涙が出そうだった。
「どうだ、宿主。これが、お前の逃げ込んだ『聖域』だ。私には、十字架の呪縛に囚われた、陰気な牢獄にしか見えんが」
ベリアルは、僕が休んでいる間も、尊大な意識で僕の精神を支配しようとする。
「うるさいよ、ベリアル。……あんたが、僕のそばからいなくなってくれたら、僕は、元の生活に戻れるのに」
僕は心の中で、強く願った。
「不可能だ。お前と私は、運命共同体だ。私を解き放ったのは、お前の闇だ。その責任から逃れることはできん。せいぜい、この冷酷な神父に生きたまま焼かれることに怯えていればいい」
ベリアルの冷笑を聞き流し、僕は意識を深く沈めた。肉体的な疲労は限界に達していた。
次に目を覚ましたのは、部屋が明るくなった朝だった。
頭痛は残っているが、昨夜の極限状態の疲労は消えていた。窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえる。「日常」の音が、「非日常」の教会の石壁に囲まれているという、奇妙な感覚。
僕は顔を洗い、最低限の身支度を整え、リュックを背負って一階へ降りた。
本堂は、夜とは違う、厳粛な美しさを保っていた。ステンドグラスから差し込む朝日が、埃の粒子を照らし、神々しい光の柱を作っている。
祭壇の前には、獅堂の姿はなかった。
僕は、この神父が何を求めているのか、今後どうするつもりなのかを知る必要があった。彼は、僕を助けると言いながら、僕の苦痛を意図的に与えた。
本堂の奥、獅堂が消えた暗い廊下の方へ、僕は恐る恐る足を踏み入れた。
廊下を抜けると、そこは教会の居住空間と事務室のようだった。いくつかの部屋があり、そのうちの一つから、微かなコーヒーの香りが漂ってきている。
僕はその扉の前で立ち止まった。ノックすべきか、迷っていると、中から声がした。
「ああ、おはよう。君が、噂の汚れた子羊かい?」
声は、獅堂の冷徹さとは全く違う、明るく、開放的なトーンだった。
僕は驚き、反射的に扉を引いた。
その部屋は、簡素ながら清潔な事務室で、古びた机と椅子が置かれている。そして、部屋の中には、二人の神父がいた。
一人は、もちろん獅堂 守。彼は机に座り、黒いカソックの上から、小さな金属製の道具を静かに磨いている。その冷たい表情は、昨夜と変わらない。
そして、もう一人。
その男は、獅堂とは正反対の印象だった。
すらりとした長身に、金色の髪。カソックは、獅堂と同じ黒だが、その着こなしはどこか緩やかで、堅苦しさを感じさせない。そして何より、その顔には、穏やかな、親しみのこもった笑みが浮かんでいた。まるで、学校の人気者かのような、明るい雰囲気を持っていた。
彼は、僕の顔を見るなり、片手を軽く上げて挨拶をした。
「ボンジョールノ(こんにちは)、憂くん。驚かせてごめんね。僕は、ルカ。この教会の……そうだね、賑やかし係みたいなものかな。君が来てくれて、ライバルが増えてちょっと嬉しいよ」
ルカ。その存在は、一瞬にして、昨夜の獅堂との張り詰めた空気を一変させた。
「ライバル、ですか……?」僕は思わず聞き返した。
ルカは愉快そうに笑い、長い指先で金色の前髪をかき上げた。
「ノン・ティ・プレオキュパーレ(気にしないで)。ジョークだよ、ジョーク!ヴィーディ(ほら)、シドーを見てごらん。彼はベリッシモ(とても美しい)だけど、仕事にセンプリチェ(常に)真面目すぎるんだ。悪魔祓いと仕事のことしか頭にない。彼の厳しい目が、僕の自由まで監視しているみたいでね」
ルカは、声のトーンを下げずに続けた。
「君という新しい『題材』が来たことで、彼の過剰な注意力が僕から分散されるだろう?これで少しは僕の肩の荷が下りる。そういう意味での『ライバル』さ。君の闇の深さが、僕の休息時間と自由を守ってくれるかもしれないね」
その軽快で不真面目な説明は、僕を困惑させたが、同時に、獅堂との関係性を象徴しているようにも思えた。
獅堂は、ルカの長すぎるジョークに、眉間のシワを深くした。彼の冷たい視線がルカに向けられたが、ルカはそれを意に介さない。
「賑やかし係ではない、ルカ。貴方は、私の協力者だ」
獅堂は、冷たくルカを訂正した。そして、僕に視線を移す。
「彼は、貴方の体内にいる悪魔を駆逐するために、私が呼んだ、悪魔祓いの優秀な神父です。……さあ、憂。隠し事は終わりです。貴方の闇の深さについて、二人で詳しく調査させてもらいましょう」
ルカは、僕を安心させるように、にこやかに微笑んだ。その瞳の奥には、獅堂とは違う、純粋な慈愛のようなものが感じられた。




