第2章:悪魔嫌いの神父と、軋む廃教会
僕は恐怖で全身を硬直させ、声さえ出せなかった。
祭壇の前に立つ男は、僕の沈黙を責めることなく、静かに僕を観察していた。彼の整った顔には、感情の機微は全く見えない。しかし、僕の体内にいるベリアルは、男の視線に宿る底知れない憎悪を感じ取っている。
「……沈黙は、不純な意図の証明となりますよ」
男は再び口を開いた。声は静かで、耳に心地いいほど丁寧なのに、その中に鋼のような冷たさが込められている。その冷たさは、僕の臆病な心を凍りつかせた。
僕の中にいるベリアルが、その態度に苛立ちを覚えたようだ。
「フン。『丁寧』が売りの滑稽な人間よ。貴様は私を『汚れた者』と断じたようだが、貴様こそ、その信仰を時間と怠惰で汚しきったではないか」
ベリアルは、僕の口を使わずに、直接、男の意識へと嘲笑を放った。
男の表情に、初めて微かな変化が生まれた。その瞳が一瞬、鋭く燃え上がった。しかし、男はすぐにそれを抑え込み、僕に向けていた視線を、祭壇の足元へと落とした。
「貴方の高慢は、昔から変わらないようですね、悪魔」
男は、あくまで僕という少年に向かってではなく悪魔に語りかけている。この態度は、ベリアルと僕を切り離して扱おうとしていることの表れだと、僕の直感が告げた。
僕は震える体を無理やり動かし、言葉を絞り出した。
「あ、あの……ごめんなさい。僕は、その……悪魔じゃないです。ただ、その、助けを求めて、ここに……」
僕の声はか細く、途切れ途切れになった。
男は、僕が発したその「助け」という言葉に、わずかに反応した。彼はゆっくりと僕に視線を戻す。今度は、憎悪の炎ではなく、観察と鑑定の色を帯びた、冷徹な目だった。
「助け、ですか。そのお言葉が真実だと仮定しましょう」
男はカソックの袖を払い、一歩、僕に向かって歩み寄った。その足取りは静かだが、圧倒的な自信に満ちている。
「貴方は、悪魔の序列一位という、最も忌まわしい悪魔の巣窟となっている。にもかかわらず、貴方の肉体は、まだ人間的な性質を強く保っている。その怯えた目つき、その卑小な態度……まさか、悪魔に逆らうつもりで、この聖域に逃げ込んできたのではありませんか?」
男は僕の怯えと臆病さを、一瞬にして見抜いた。それは、僕がベリアルに完全に支配されていないという、一つの事実を指し示していた。
その指摘に、僕の体内のベリアルが再び皮肉を放つ。
「見ての通りだ、神父。お前の聖なる力が萎んでいる間に、この愚かで軟弱な器は、私の解放という大罪を犯した。そして、私の知識と指示に従い、命乞いをしに貴様の元へやってきた。実に人間らしい滑稽さだ」
男は、ベリアルの言葉を聞き流したように見えた。彼の焦点は、依然として、僕という少年の純粋な恐怖に向けられていた。
「どうやら、強大な悪魔に利用され、恐怖に駆られている『子羊』のようですね」
彼の表情に、憎悪とはまた違う、複雑な影が差した。それは、過去の何かに対する後悔や痛みを連想させた。
男は静かに僕に背を向け、祭壇の方へ再び歩き始めた。
「私は悪魔を、心底、忌み嫌っている。貴方の体内にいるあの悪魔は、私の憎悪の対象そのものです」
その声は、誓いの言葉のように重い。
「本来ならば、貴方をこの教会から即刻追放すべきでしょう。貴方をこのままここに留めておけば、私の信仰が再び汚染される可能性がある。そして、貴方を狙う眷属が、この聖域を標的にしかねない」
僕は、心臓が潰れそうになりながら、彼が僕を追放するという言葉に、絶望的な未来を見た。追い出されれば、僕は今夜、またあの異形の悪魔たちの餌食になる。
「お願いします……! 僕は、どこにも行く場所がありません……! あの悪魔たちは、毎晩来るんです。僕では、どうすることも……」
僕は、初めて、本能的な命乞いを口にした。
男は祭壇の前で立ち止まったまま、長身の体を僅かに揺らした。その沈黙は、長く、重かった。
そして、男は、教会の床に散らばる月明かりを、まるで血のシミを眺めるように見つめながら、静かに結論を出した。
「……貴方を、すぐに追い出すことはしないでおきましょう」
僕は、その言葉に、崩れ落ちそうなほどの安堵を覚えた。
「ただし、それは貴方があの悪魔に完全に支配されておらず、自らの意志で助けを求めたからです。私には、無力な者を見捨てるという神父の規律を破ることはできません」
男は、憎悪の対象である悪魔の宿主を、信仰の規律によって一時的に受け入れたのだ。
彼は、ゆっくりと僕の方を振り向いた。その瞳は、依然として冷たい。
「私は獅堂 守と言います。そして、貴方の体内に巣食う堕天使を、この教会から駆逐する方法を、必ず見つけ出します。それまでの間、貴方には、私の指示に絶対に従っていただきます」
獅堂の視線は、僕の顔から胸、そして足元へと冷徹に移動した。
「さあ、まずは貴方の闇の核を、詳細に調べさせてもらいましょう。……そこで、悪魔。貴様にも、この忌々しい再会を、存分に楽しんでいただくとしましょう」
彼は、僕を無視して、再びベリアルに皮肉を投げつけた。二人の間に、永遠に交わらない対立が始まったことを、僕は悟った。




