第1章:序列一位の嘲笑と、最初の襲撃
日が傾き、街全体が不穏な青色に染まり始める。僕は一度家に帰り、リュックに最低限の着替えと、食料を詰め込んだ。窓の残骸や、部屋に残る悪臭は、昨夜の惨状をまざまざと突きつけていた。
「賢明な判断だ、宿主。あの古い結界のひびは、今夜も持つ保証はない」
リュックを背負った瞬間、ベリアルが僕の意識の中で冷笑した。
「教会に行っても、お前は無力だ。神聖な力は、お前の闇と私を焼き尽くすかもしれんぞ。どちらにせよ、人間にとって最悪の選択だ」
「それでも、あんたの言う『蠅』よりはマシだ」
僕は、心の中でだけ言い返した。僕の口調は、昨夜より少しだけ強い決意を帯びていた。この選択は、死の恐怖から逃れるための、僕なりの反抗だった。
日が完全に沈み、僕は山へと続く寂れた裏通りを歩いていた。駅裏の山道は、街灯の光が途切れ、すぐに漆黒の闇に飲み込まれる。周囲の草木がざわめく音、遠くで聞こえる車のエンジン音、その全てが、僕の神経を逆撫でる。
「廃教会」の噂を教えてくれた陸のLINEを何度も確認し、地図アプリと照らし合わせる。陸が言っていた通り、山の中腹に、古びた教会のマークがあった。
あと、どれくらいだろう。
その時、一瞬、空気が冷たくなったのを感じた。
そして、脳内でベリアルの警戒が響く。
「……宿主。また来たぞ。今度は一体ではない。結界の外で、二体の蠅が獲物の匂いを嗅ぎつけている」
僕の背筋に、冷たい水が流れた。昨夜の悪魔は一体だった。それが、今日は二体。そして、僕の体に染み付いた生肉と硫黄のような悪臭が、再び辺りに充満し始める。
「くそっ……! まさか、もう!」
僕は走ろうとしたが、昨夜の疲労と恐怖で足がもつれた。アスファルトの道から外れ、薄暗い山道へと逃げ込む。
ガサッ、ガサッ……。
木々の間から聞こえる音は、獣のそれではない。重く不規則で、時折、粘液質な何かが地面を引きずるような音が混じっている。僕が立ち止まると、その音も止まる。僕が走ると、その音は楽しむように追いかけてくる。
「ベリアル! どうすればいい!? 教会はまだ遠い!」
僕は心の中で叫んだ。恐怖で喉が渇き、呼吸が荒くなる。
「慌てるな、愚鈍。下級の悪魔は視覚が弱い。彼らが頼るのは、お前の闇と私の匂いだ。風下にいろ」
ベリアルの冷徹な指示に従い、僕は風上から来る匂いを避けながら、闇の中をひたすら駆け上がった。しかし、二体の悪魔は、まるで僕の鼓動を聞き分けているかのように、徐々に距離を詰めてくる。
山道のカーブを曲がった瞬間、木立の隙間から、視認してしまった。
それは、昨夜の悪魔とは少し違う姿だった。一方は四足歩行で、巨大な犬のような骨格を持ちながら、皮膚は腐敗した人間の肌のように弛んでいる。もう一方は、背丈は人間と同じだが、全身が泥と血にまみれた皮膚に覆われ、奇妙なほど長い腕を垂らして、地面をズルズルと引きずっている。
「ああ……」
息が詰まる。その悪魔たちの目は、闇の中で鈍く光り、確かに僕を捉えていた。
「見られたぞ、ベリアル!」
「見るのは構わん。問題は接触だ。奴らは私を抑え込むための触媒として、お前を取り込もうとしている。決して捕まるな」
二体の悪魔が、低く喉を鳴らし、同時に加速した。腐敗した犬型の悪魔が、時速数十キロに達するような凄まじいスピードで、木々をなぎ倒しながら僕に迫る。
僕は、生まれて初めて、死の冷たい感触を肌で感じた。足が動かない。もう、追いつかれる。
その瞬間、ベリアルが微かな力を僕の右腕に注入した。それは熱ではなく、氷のような冷徹な衝動だった。
「右だ、宿主。全力で木に向かって走れ」
僕は言われた通りに、進行方向右側にあった、ひときわ太い樫の木に向かって全身の力を振り絞って走り込んだ。
悪魔の爪が僕の背中を掠め、リュックがビリッと引き裂かれる激しい音。僕は咄嗟に木の幹の裏側へと体を滑り込ませた。
そのままの勢いを殺せなかった犬型の悪魔は、木に激突した。「グァアアア!」という、悲鳴とも怒号ともつかない濁った咆哮が山中に響き渡る。その衝撃で、僕の周囲に大量の土と腐敗した葉が降り注いだ。
「走れ! 奴が動けないのは数秒だ!」
ベリアルの指示は正確だった。僕は木の陰から飛び出し、再び山道を駆け上がった。後ろでは、泥まみれの悪魔が、長すぎる腕で木に激突した仲間を引きずり起こそうとしているのが見えた。
心臓が破裂しそうだ。肺は痛み、喉は燃えるように渇いている。しかし、死の恐怖が、僕の疲弊した肉体を突き動かしていた。
坂道を上りきり、道がわずかに平坦になった瞬間、僕は息を呑んだ。
闇の中、古びた石造りの建物のシルエットが、巨大な影となってそびえ立っていた。中央に立つ高い塔のような構造物。それが、陸が言っていた「廃教会」だった。
その建物全体から放たれるのは、悪魔の悪臭とは真逆の、冷たく厳粛な空気。ベリアルが言っていた「封印の勢力」の痕跡が、今も残っているようだった。
「辿り着いたぞ、宿主。……この忌々しい結界に、よくぞ辿り着いた」
ベリアルの声には、皮肉だけでなく、ほんのわずかだが安堵のような響きが混じっていた。
教会の巨大な木製の扉は固く閉ざされ、その上には、風化して黒ずんだ巨大な十字架が掲げられている。
しかし、その教会の重厚な壁に囲まれた敷地内に踏み入った瞬間、背後から追ってきた悪魔の追跡の気配が、再びピタリと途絶えた。
僕の体が、教会の神聖な空気に触れたことで、内部のベリアルと体内の闇が強く軋むのを感じた。
「入れ、宿主。奴らはこの聖域には踏み込めまい。さあ、お前の選んだ運命の扉を開けろ」
僕は、教会へと続く錆びついた鉄格子の門を、震える手で開けた。門が軋む音が、闇の中に不気味に響く。
その門をくぐり、背後を振り返る。闇の中、二体の悪魔は教会の敷地境界線ギリギリで立ち止まり、悔しさと憎悪に満ちた低いうめき声を上げていた。彼らは、一歩も踏み出すことができない。




