第4章:闇の制御と、転校生の不気味な微笑
氷室怜央が転校してきてから、学校の空気そのものが変わってしまった。
彼の冷たい美貌と近寄りがたい異質な雰囲気は、僕の臆病な心だけでなく、クラス全体の波長を乱していた。誰も彼に話しかけようとしないが、彼の存在は教室の隅々にまで浸透し、まるで水面に落ちた油のように、日常という名の水を不気味に広げていく。
そして、僕の感受性は、氷室怜央の出現以降、悪魔の気配を以前よりも強く感知するようになった。
(これも、転校生のせいなのか?)
僕は疑った。ハニーに遭遇した時のような、魂を圧迫する強烈な悪意ではない。だが、街の雑踏や、クラスメイトの背後に、微かな粘着質な波長を感じる。それは、まるで汚れた血液が、僕の血管にゆっくりと流れ込んでいるかのような、不快で粘りつく感覚だった。
「フン。貴様は短絡的だな、宿主」
ベリアルは、僕の疑問を鼻で笑った。
「この不快な波長は、氷室怜央の策謀とは別物だ。奴の放つ冷徹な智の波は、熱情や欲望とは無縁。これは、七大罪に連なる下等な悪魔の気配だ。奴らが、私という高位の存在が地上に顕現したことに気づき、群れをなして集まり始めたのだろう」
(悪魔の群れ……?)
「そうだ。奴らは、知性を司る高貴な私とは違い、人間の欲望を餌にする愚鈍な存在だ。ハニーのような淫魔や、憤怒や貪欲を司る下っ端の悪魔が、力の恩恵を求めて集結し始めている。七大罪の悪魔は、智の法則に疎く、力と本能で動くからな」
ベリアルの言葉を聞いた瞬間、僕の体内の恐怖が跳ね上がった。これまでの恐怖は、ベリアルという圧倒的な個の存在に対するものだったが、今は見えない敵の群れが、僕の周りに張り付いているという集団的な恐怖だ。
放課後、僕は獅堂神父の厳格な視線に送られながら、ルカさんと共に教会を出た。「アッティエンツィオーネ(気を付けて)、憂くん。氷室怜央の出現は、智の法則を乱している。今日から、僕たちの訓練は、より秘密裏に進めなければならない」
ルカさんは、いつものチャラい口調ながら、その眼差しには強い緊張の色が滲んでいた。彼は、僕を連れて、教会の周辺とは違い、雑然とした裏路地へと入っていった。辿り着いたのは、古びた骨董品店だった。線香のような、甘く、しかし湿気を帯びた異様な香りが充満している。
「チャオ、ヴェスタ。緊急事態だ。アッビアーモ・ビスォーニョ(助けが必要)だよ」
ルカさんが店の奥に向かって声をかけると、奥の暗い帳の中から、一人の女性が現れた。
彼女――ヴェスタは、黒いチャイナドレスのような、妖艶な衣装を身に纏い、その顔立ちは冷ややかだが、大人の女性特有の余裕を纏っていた。まるで、退廃的な芸術作品のような雰囲気だ。
「あら、パードレ・ルーカ。相変わらず、運命の嵐の中に身を投げるのがお好きなのね」
ヴェスタは、僕を一瞥し、口元に薄い微笑を浮かべた。
「そちらが、ベリアル様の新しい器?子羊ちゃん。随分と繊細なのね。今にも悪夢に泣き出しそうだわ」
「悪趣味は止してくれ、ヴェスタ。氷室怜央の正体を教えてほしい。君の師匠のためにも」
ルカさんが真剣な表情で切り込んだ瞬間、ヴェスタの妖艶な微笑が、微かに揺らいだ。
「師匠……ああ、あの光の法則に殉じた方のことね」
彼女の瞳の奥に、遠い過去の情景がよぎる。その言葉には、深い結びつきがあったことを伺わせる含みがあった。
「あの方は神の法則を選んだけれど、私は深淵の真理を選んだ。でも、あの方の教え子が、私という闇の知恵を求めてきたのなら、対価は受け取るわ。後で、あの人の魂に最も触れるものを用意してちょうだい。私の代わりに」
ヴェスタは、冷徹な冷静さを取り戻した。
「あの転校生、氷室怜央。彼の波長は悪魔の系譜ではないわ。彼は、運命の糸を織り直そうとしている存在。智、傲慢、嫉妬。彼の出現は、封印されたはずの古き因縁が、再びこの地上で呼吸を始めたという証拠よ」
ヴェスタは、僕の目をまっすぐに見据えた。
「彼は、ベリアル様と同じ根源を持つ堕天使の残滓よ。そして、彼の目的は、ベリアル様の真理の座を奪うこと。光と智の最も深い嫉妬から堕ちた二つの残滓の戦い。ベリアル様が地上の覇権を望むなら、彼はその王座をひっくり返すでしょう。彼にとってベリアル様こそが、最も深い『嫉妬』の対象なのだから」
僕の脳内で、ベリアルが激しく動揺した。
「クッ……この女、何か私を侮辱するような真実を知っている!愚かな魔女め、口を噤め!」
ベリアルの威厳ある声が、明確な動揺と怒りを露わにした。ヴェスタの言葉が、ベリアルの根源的な弱点を突いていることは明らかだった。
「グラツィエ、ヴェスタ。ディスティノ(運命)は、僕たちが思っているよりも複雑だね」
ルカさんは、知識の衝撃を受け止めながら、僕の手を引いて店を出た。街はすでに日が完全に落ち、濃い闇に包まれていた。
「シニストラ(不吉)な話を聞いちゃったね、憂くん」
ルカさんは、そう言いながら、僕の背後を強く警戒していた。
その時、路地の奥から、奇妙な足音が近づいてきた。地を這うような、引きずるような音だ。
「来た。下っ端だ。ベリアルの再臨に群がる、愚鈍な悪魔たちだ」
ルカさんが警戒の声を上げると同時に、五、六体の人影が、路地の影から這い出てきた。彼らは、人間の形を保ってはいるが、その皮膚は炭のように黒ずみ、目は血のように赤く光っている。七大罪の悪魔に隷属する、知性を持たない下級の悪魔たちだ。
「グゥアアア……!ベリアル様の宿主……!肉を……!」
その体からは、醜悪な欲望の波長が放たれている。
「憂くん!」
ルカさんは、瞬時に僕の前に立ち塞がった。彼の金色の髪が夜の闇の中で光を放ち、彼のカソックの裾が聖なる結界のように微かに揺らめいた。
ルカさんは、チャラい笑顔を完全に消し、端正な顔立ちに、神聖な威厳を宿した。その姿は、まるで闇夜に立つ、一本の純粋な白百合のように強く、美しい。
「僕が持つ歴代最強の神聖力、見せてあげるよ、ミゼーロ(哀れな悪魔)ども!」
ルカさんが両手を前に突き出すと、彼の指先から、神聖力が奔流となって解き放たれた。それは、純粋な光でありながら、質量と熱を持つかのように、強烈な波動を伴っていた。
光が路地全体を覆い尽くす。
悪魔たちは、その強烈な光に触れた瞬間、皮膚から黒い煙を上げ、焼けるような激しい悲鳴を上げた。
「ギャアアアアア!……熱い……!体が、崩壊する……!」
悪魔たちの肉体は、光の熱によって炭化していく。彼らの醜悪な姿が、一瞬で灰と化していく過程は、生々しく、残酷だった。悪魔は、光という純粋な法則の前に、存在そのものの定義を否定され、塵に帰るのだ。
「宿主。ルカの神聖力が、奴らを一掃するだろう。だが、その一瞬の隙を、『智の法則』を学ぶために利用しろ。奴らが消滅する波長を、その魂に焼き付けろ!」
僕の脳内で響くベリアルの冷徹な指示に従い、僕は激しい光と、悪魔の断末魔の絶叫、そして存在そのものが分解される、悲痛な波長を、恐怖に震える魂で必死に受け止めた。僕の魂が、神聖力による消滅の法則を、強制的に学習させられている感覚だった。
光が消えた後、路地には黒い灰と、焼けた木材の匂いだけが残された。ルカさんは、一連の戦闘を行ったにもかかわらず、呼吸一つ乱していない。彼の圧倒的な神聖力と、プロフェッショナルな余裕を僕は改めて思い知らされた。
「トレマンダ(震えた)ね、憂くん。ミ・ディスピアーチェ(ごめん)。君に酷いものを見せてしまった」
ルカさんは、そう言って、僕を優しく抱き寄せた。その体には、戦いの興奮も疲労の影もない。ただ、僕を守ろうとする、揺るぎない意思の強さだけが、静かに存在していた。その強さと優しさが、僕の震える恐怖を、わずかに和らげてくれた。




