第4章:闇の制御と、転校生の不気味な微笑
教会での共同生活が始まって四日目の朝、僕は久しぶりに制服に袖を通し、学校の門をくぐった。登校前、獅堂神父は「悪魔の波長を感じても、決して動揺を表に出してはいけない」と念を押した。ルカさんは、「ブオナ・フォルトゥーナ(幸運を)、憂くん。何かあったら、すぐ僕にテレーフォナ(電話)してね」と、軽やかなエールをくれた。彼の明るさが、僕の重い足取りをわずかに軽くしてくれる。
しかし、僕の意識の中には、常にベリアルの尊大な嘲笑が響いていた。
「フン。貴様は、あの神の残骸のような建物から逃れられて、心底ホッとしているのだろう。日常という腐った安寧が、貴様にとってどれほど心地よい麻薬であるか、この智の精髄である私は理解している」
(うるさいよ、ベリアル。僕はただ、ちゃんと学校に行きたいだけだ)
「馬鹿め。智を重んじる私からすれば、貴様のような無知な人間が、一時の平穏を貪る姿は、まさに滑稽だ。私が、なぜ貴様のような矮小な器に閉じ込められているか。その不条理を、貴様は少しでも理解しようと試みろ」
彼の言葉には、威厳が満ちていた。
教室に入ると、陸が、「憂、良かった!もう大丈夫なのか?」と、汗を拭うのも忘れて駆け寄ってきた。彼の爽やかな笑顔と実直な優しさは、僕にとっての「日常の象徴」であり、僕を闇から引き戻す光そのものだった。密も、少し離れた席から、内向的ながらも僕の様子を見守ってくれていた。
放課後、僕はまっすぐ廃教会に戻る。教会は、太陽が沈むと、石造りの壁が冷たさを増し、空気そのものが悪魔の波長を警戒しているかのように張り詰める。
「ベンヴェヌート(おかえり)、憂くん。今日の智の吸収は、エスプレッソのようにビターで強いものにするよ」
ルカさんは、僕の頭を軽く撫でると、書庫へと案内した。僕の体には、ルカさんが施した、ベリアルの力を三割抑制するための紋様の聖油がまだ残っている。
「ベリアルは『智の精髄』だ。彼の力を完全に封じるには、彼の法則を書き換えるしかない。だから、君の頭に、彼を縛る『古代の真実』を、彼の嫌がる形で叩き込む」
ルカさんは、いつになく真剣な表情だった。僕は、複雑な図形や古代アラム語の写本に集中した。
「チッ……。無駄な努力だ。この程度の微々たる法則で、智の全てを支配できるとでも思うなよ、偽善者ども」
ベリアルは、僕の脳内で、その尊大な威厳を崩さずに苛立ちを見せる 。僕の知識の成長が、彼にとって最も屈辱的な枷になっているのだと実感する。
ルカさんの訓練は、午後六時まで続く。ルカさんの隣にいる時間は、彼の持つ歴代最強の神聖力と、僕に対する優しさが、僕の心を最も穏やかにする瞬間だった。
ルカさんの知識訓練が終わると、次は獅堂神父の実地訓練の時間だ。
「憂くん。あなたの体内の悪魔の波長が活性化している今こそ、悪魔の気配を魂で察知する訓練に適しています。教会の周囲を、五感を研ぎ澄ませて一回りしなさい。決して、戦闘は許可しません」
獅堂神父は、冷徹な口調で僕に命じた。彼の背後の壁には、先日短剣で傷つけられた左腕の痛みが、まだ残っているような気がした。
僕は、教会の裏手の、人通りの少ない裏道を歩いていた。夕闇が濃くなり、街灯が古びた建物の影を長く引き伸ばす。
その路地の突き当たり、打ち捨てられた倉庫の入り口に、異質な色が目に入った。
濃いピンクのワンピースに黒いレースを重ねた、地雷系のファッションを身に纏った女性が立っていた。彼女の髪は明るい色に染められ、大きな瞳には、甘えたような表情が浮かんでいる 。
その瞬間、僕の体内のベリアルが、露骨な嫌悪感を示した。
「ハニー……!この愚かな淫魔め。なぜ、私の鬱陶しい部下が、こんな場所にノコノコと」
ハニーは、僕の姿を認めると、愛らしい口調のまま、まるで旧知の友に会ったかのように、スキップをするような軽やかさで近づいてきた。
「あーら、ベリアル様のカワイイ宿主くんじゃないですかぁ。こんなところで会えるなんて、ラッキーですねぇ」
彼女は、僕の目の前でピタリと止まり、顔をのぞき込む。彼女の体から発せられる悪意の波長は、僕の魂を圧迫したが、彼女の表情は満面の笑みだ。
「憂くんって呼んでいい?ハニーね、ベリアル様の忠実な部下なんですよぉ。だから、憂くんのこと、心配で」
ハニーは、そう言って、僕の肩に手を置いた。その指先から、ぞっとするような冷たさと、内側に隠されたほのかな嫌悪が伝わってくる。彼女は甘えた口調と笑顔という狡猾さで完全に覆い隠しているのだ。
「憂くん、ベリアル様の言う『智の解放』なんて、面倒なことしなくていいんですよぉ?ハニーに身を任せれば、すぐにベリアル様は自由になれるのに」
彼女の言葉は、まるで優しい誘惑のようだが、その内容は僕の破滅を意味している。
「愚鈍な雌め。私の解放には、生贄など必要ない。智の解放こそが必要なのだ!鬱陶しいから、さっさとそこを立ち去れ、ハニー!」
ベリアルが、僕の脳内で怒鳴る。ハニーは、ベリアルの罵倒を聞くと、一瞬だけその愛らしい表情を寂しげに曇らせたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「もう!ベリアル様はツンデレなんだからぁ。でも、ハニーはベリアル様の一番の忠犬なので、憂くんを見守ってあげますね。また遊んでくれるかな?」
彼女は、僕の返事を待たず、にこやかに手を振って、来た道を戻って行った。そのピンク色の残像と、彼女の恐ろしい笑顔が、僕の心に深く焼き付いた。
教会に戻った僕は、ハニーに遭遇した恐怖で、訓練の成果である波長の感受性が乱れていることを、獅堂神父に悟られてしまった。
「悪魔の波長に、あなたの意志が負けています、憂くん。悪魔の甘言に惑わされてはいけません。先ほどあった淫魔は最も危険な種類の悪魔です」
獅堂神父の指導は厳しかったが、その言葉には、僕を守ろうとする強い決意が込められていた。
夜。僕が寝静まった頃、僕は再び喉の渇きで目を覚ました。そして、再び礼拝堂へと続く扉の前で、獅堂神父の苦悶の気配を感じ取った。
僕は、そっと扉に近づいた。扉の向こうからは、獅堂神父の息を呑むような苦悶の吐息が聞こえてくる。
「ッ……ぐ、あ、ああ……!なぜ、なぜだ……!」
それは、冷徹な完璧主義者からは想像もできない、魂を削られるような慟哭だった。彼は、今も過去の悪夢に苛まれているのだ。
その呻きに混ざり、ルカさんの静かな気配がした。
僕は、扉の隙間から、盗み見てしまった。
ルカさんは、膝から崩れ落ちた獅堂神父を、一言も発さずに、ただ強く、抱きしめていた。ルカさんの大きな体が、獅堂神父の肩を覆う。彼の表情は、深い悲しみと痛みに満ちていたが、その瞳は揺るぎない献身と慈愛を宿していた。
言葉はなかったが、その抱擁は、「君の苦しみは僕が全て受け止める」という、秘めた気持ちの表れだった。ルカさんは、自らの全身全霊の神聖力を、言葉ではなく体温で、獅堂神父の傷ついた魂に注ぎ込んでいるかのようだった。
やがて、獅堂神父の苦悶の呻きが、静かな安堵の呼吸に変わる。
ルカさんは、ゆっくりと獅堂神父を椅子に座らせ、彼の整った顔を優しく見つめた。
そして、僕が隠れていた廊下に、ルカさんの優しい声が届いた。
「憂くん。ごめんね」
彼は、僕の存在に気づいていた。ルカさんは、扉から一歩出て、静かに僕の傍に近づいた。
ルカさんは、僕の頭にそっと手を置いた。
「毎晩彼は悪夢にうなされて、まともに睡眠もとれていなかったみたいなんだ。だから、できれば、彼の鋼の鎧の下にある傷を、君の成長で癒してあげてほしい」
僕は頷くことができなかった。人生で今まで一度も希望をもって見られたことのなかった経験がなかったから。ちっぽけな自分でも誰かの役に立てるのか、わからなかったから。




