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始まりの章:憑かれし者

夕暮れの教室は、放課後のざわめきが嘘のように静まり返っていた。窓の外では、オレンジ色の光が校庭の隅々まで伸び、グラウンドの隅に立つ古びた桜の木を赤く染め上げていた。その光は、やがて来る夜の気配を告げている。悠真は、誰ともなく呟くように、机に広げた参考書を眺めていた。彼の天然パーマの髪は、壁画の天使のように柔らかな曲線を描いているが、その瞳の奥には、どこかほの暗い影が潜んでいる。幼い頃に両親が離婚し、その数年後に母を病で亡くして以来、悠真は自分の殻に閉じこもるようになった。目立たず、波風立てずに日々を過ごすこと。それが、彼にとって唯一の「平穏」だった。


「おい、凡人。いつまでそんな下等な文字を眺めているつもりだ?時間の無駄だろう」


突如、脳内に響いた声に、悠真はびくりと肩を震わせた。声は高圧的で、ひどく不機嫌そうに響く。それは、数日前、古びた書店で偶然手にした装丁の美しい洋書――誰も開いた形跡のない、埃を被った一冊――に触れた瞬間から、彼の内側に住み着いた存在だった。


「黙って、ベリアル。今、勉強中だから」


悠真は誰にも聞こえないように、小さく呟いた。クラスメイトのほとんどはすでに帰り、残っているのは部活に向かう生徒の喧騒だけだ。


「フン。この私をそのように呼ぶことを許すとは、お前も随分と傲慢になったな。だが、お前のような下等な人間が、この高位の悪魔、ベリアルを従わせるなど笑止千万だ」


ベリアルは、自分がかつて天使であったこと、そして他の悪魔の策略によって力を失い、こんな凡人の器に閉じ込められていることを、事あるごとに口にした。その声は常に苛立ちに満ちていたが、なぜか悠真には、その不機嫌さすらもどこか「美しい」と感じさせる響きがあった。しかし、彼の姿はまだ見えない。ただ、自分の意識の奥底に、高慢な存在が居座っているという奇妙な感覚だけがあった。


最近、悠真は無意識のうちにベリアルと会話するようになっていた。周囲から見れば、独り言を呟いているようにしか見えないだろう。その異変に、いち早く気づいたのが、彼の幼馴染たちだった。


ガラガラと教室の扉が開き、一樹と環が顔を覗かせた。一樹はスポーツ刈りが似合う快活な少年で、環は肩まで伸びた髪を揺らす、穏やかな雰囲気の少女だ。二人とも、悠真の母親の死を知っており、彼のことをいつも気にかけてくれている。


「悠真、まだいたのか?もう教室、俺たちだけだぞ」


一樹が少し心配そうに声をかけた。環も、悠真の机の横にそっと立ち、その表情を覗き込む。


「最近、悠真くん、よく独り言言ってるみたいだけど…何か悩み事でもあるの?」


環の優しい問いかけに、悠真は少し言葉に詰まった。ベリアルが脳内で「フン、下等な人間どもが。お前の心配など、この私にしてみれば取るに足らん」と鼻を鳴らす。


「あ、いや、別に。ちょっと考え事してただけだよ」


悠真は曖昧に答えた。二人にこの状況を話せるはずもない。


「そうか?でも、なんか顔色も悪いし、無理してないか?」


一樹が悠真の顔を覗き込む。悠真は、彼らの優しさに胸が温かくなるのを感じた。この日常を守りたい。その思いが、彼を突き動かす原動力だった。


「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」


悠真がそう言うと、二人は顔を見合わせ、少し安心したように頷いた。


「ならいいけど。あんまり無理するなよ。じゃあ、俺たちそろそろ帰るからな」


「また明日ね、悠真くん」


二人はそう言って、教室を後にした。悠真は、彼らの背中が見えなくなるまで見送った。


「フン。つまらんやり取りだな。お前の日常とやらが、そんな下等なもので構成されているとは、嘆かわしい」


ベリアルが再び脳内で喋り出した。


「うるさいよ、ベリアル。僕にとっては大事なことなんだ」


悠真は小さく反論した。


その日の夜、自室のベッドに横たわっていた悠真は、妙な気配を感じていた。窓の外は、街灯の光が届かない路地の奥で、闇がより一層深く、濃い影を落としている。その闇の中から、何か冷たい視線が向けられているような気がした。それは、悠真を品定めするように、じっとこちらを見つめているようだった。背筋に冷たいものが走る。


「おい、凡人。何かいるぞ」


ベリアルの声が脳裏に響いた。その声には、いつもの高慢さに加えて、微かな緊張感が混じっているように思えた。


「まさか、お前を狙っているのか?こんな力が弱りきった私を感知できるとは、随分と鼻が利く悪魔もいたものだな。だが、まだ動く気配はないようだが…」


ベリアルの言葉に、悠真の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。闇の奥から感じる視線は、まるで彼を獲物と見定めているかのようだ。直接的な危険はないものの、この不気味な存在が、彼の平穏な日常を脅かしていることを、悠真は直感的に理解した。


「なんだか、不気味だな…」


悠真は、震える声で呟いた。ベリアルの声は、珍しく沈黙していた。その沈黙が、悠真の不安をさらに煽る。


翌日、放課後。悠真はいつも居場所にしている、街外れの古い図書館に向かっていた。重厚な木の扉を開けると、カビと古書の独特な匂いが鼻腔をくすぐる。ここは、彼が幼い頃から、現実の喧騒から逃れるようにして入り浸っていた場所だ。薄暗い書架の間を縫うように進み、いつもの隅の席に腰を下ろす。


「フン。こんな埃っぽい場所で何をするつもりだ?お前のような凡人には、無駄な労力だろう」


ベリアルが脳内で嘲笑する。


「うるさいよ、ベリアル。何か、手がかりがあるかもしれないだろ」


悠真は、漠然とした不安を抱えながら、パソコンの検索窓に「悪魔」と打ち込んだ。次に「天使」。そして「教会」。彼は、自分の身に起こっていることの正体を探ろうと必死だった。しかし、出てくるのはオカルトサイトや宗教団体の情報ばかりで、どれも現実離れしているように思えた。


パソコンから目を離し、悠真はふと、古びた書架に目をやった。埃を被った革表紙の分厚い本が、彼の視線を引きつける。指でそっと触れると、ひんやりとした感触が伝わってきた。彼はその本を手に取り、席に戻った。ページをめくるたびに、インクの匂いと紙の古びた香りが混じり合う。活版印刷の文字は、パソコンの画面とは違う重みを持って迫ってきた。


「ほう、随分と原始的な方法を選ぶものだな、凡人。そんなもので、この世界の真理にたどり着けると思うか?」


ベリアルが鼻で笑う。


「でも、もしかしたら、ここにしかない情報があるかもしれないから」


悠真は、ベリアルの皮肉を気にせず、黙々とページを繰っていった。時間が経つにつれて、図書館の窓の外は、深い藍色へと変わっていく。書架の影は長く伸び、まるで生き物のように蠢いているように見えた。館内はしんとして、ページをめくる音と、時折聞こえるベリアルの声だけが響く。


古びた書物には、悪魔の伝承、天使の堕落、そしてそれらを退けるための悪魔払いの儀式や呪文について、詳細に記されていた。各地に残る奇妙な事件や、不可解な現象が、悪魔の仕業として語り継がれていること。そして、それらに対抗するために、人々が信仰や特定の力を用いてきた歴史があることを知った。


「なるほど。この世界にも、私のような存在を認識し、対抗しようとする愚かな人間がいるものだな。だが、その程度の知識で私に挑もうなど、笑止千万」


ベリアルは相変わらず高慢な口調だったが、その言葉の端々には、悠真が調べている情報が「真実」であることへの肯定が含まれているようだった。


悠真は、本を閉じた。頭の中は、これまで知らなかった世界の知識でいっぱいになっていた。悪魔は確かに存在し、そして自分は、その悪魔に狙われている。


その日の帰り道、悠真は再びあの「視線」を感じた。路地の影、電柱の裏、そしてふと目を上げたビルの屋上。どこにでも、不穏な影がちらついているような気がした。図書館で得た知識は、彼の不安を解消するどころか、むしろその輪郭をはっきりとさせただけだった。


「おい、凡人。やはり、お前は狙われているぞ。私を感知できる悪魔が、お前の周囲を嗅ぎ回っている。愚かな…」


ベリアルの声が、悠真の不安を確信に変える。悠真の心臓は、じわじわと恐怖に苛まれ始めた。彼は、自分の平穏な日常が、音もなく崩れ去ろうとしていることを、はっきりと感じ始めていた。


「どうしたら、この不気味さを振り払えるんだろう…」


悠真は、誰もいない夜道で、小さく呟いた。知識は得た。だが、実際にどう行動すればいいのか、彼にはまだ全く分からなかった。このままでは、いつか本当に、大切な日常が壊されてしまう。

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