第十章 〜美味い料理と酒瓶と〜 1
冷たく凍えた風が音もなく吹き抜ける。深い霧が辺りを覆い尽くし、雪山は静かに朝を迎えていた。厚く積もった雪が音を吸い込み、どこまでも続く静寂だけが存在している。
そんな中、吹きさらしの山肌にぽっかりと口を開けた洞窟。その奥で、小さな焚き火が静かに揺らめいていた。炎の淡い光がごつごつとした石壁を照らし、揺れる影を作っている。
火のそばには、酒瓶を片手にした男がいた。
肩まで伸びたダークブラウンの髪。琥珀色の瞳が焚き火の光を映し、どこか退屈そうに酒を口へ運んでいる。彼の足元には、歴戦を感じさせる巨大な鎚が無造作に置かれていたが、今のところはただの荷物のように放置されていた。
男は、火を見つめながらぼそりと呟く。
「……いい酒だ」
ごくり、と琥珀色の液体が喉を滑る。その表情は飄々としていて、戦場の喧騒とは無縁に見えた。
しかし、次の瞬間——。
遠くで 鈍く重い音 が響いた。
——ドゥウウウン……!
低く長くこだまする音。空気が震えるほどの衝撃が大地に伝わる。
男は酒瓶を軽く揺らしながら、ちらりと音の方向へ目を向ける。
「……雪崩、か」
独りごとのように言いながら、しばし考え込む。単なる自然現象ならば放っておいてもいい。だが、この音は何かを巻き込んだ音でもあった。
彼はわずかにため息をつき、静かに立ち上がる。酒瓶を地面に置き、鎚を背負う。
「まぁ……死人を埋める趣味はねぇしな」
そう呟くと、男は重い足取りで雪の中へと歩き出した。
◇◇◇
降り積もる雪を掻き分け、男は静かに辺りを見渡した。雪崩の痕跡は大きく、地形が崩れた場所には不自然な凹みができていた。
「……あったな」
雪の中に、微かに見える 人影 。
慎重に近づき、手を伸ばす。
「よっと……っと、こりゃひでぇな」
まずは銀色の髪が覗いた。体はほぼ完全に雪に埋まっているが、呼吸は…… まだある。
「生きてるか。お嬢さん、運はいいな」
もう一人——すぐ近くに、同じように雪に埋もれた少女がいた。こちらは金髪。雪の中に薄く沈んだ横顔は、かすかに苦しげに歪んでいた。
「二人か……ったく、まとめて助けるのは骨が折れるぜ」
呆れながらも、男は迷いなく二人を抱え上げた。冷え切った体がまだ硬直しておらず、命を取り留めるにはギリギリの状態だった。
「……ま、起きたら礼くらい言ってもらおうか」
軽く肩をすくめ、男は二人を担いで洞窟へと戻った。
◇◇◇
小さな焚き火がぱちり、と音を立てた。
ミレイは、重い瞼をゆっくりと開く。視界に映ったのは、ごつごつとした岩の天井。焚き火の明かりが影を揺らしている。
「……ここは?」
かすれた声で呟いた瞬間、全身を痛みが襲った。身体の芯まで凍えていたせいで、関節が強張り、動くたびに軋むような感覚がする。
「目ぇ覚めたか」
低く、落ち着いた声が響く。
焚き火の向こう、男が酒瓶を傾けていた。気だるげに炎を見つめながら、ゆっくりと酒を口に運んでいる。
「……誰?」
ミレイは慎重に男を見つめた。相手は特に気にする風でもなく、軽く酒瓶を振る。
「バルド・フォルティス。しがない流れ者だよ」
「……助けてくれたの?」
「ああ。たまたまな」
バルドは肩をすくめる。焚き火の光に照らされた琥珀色の瞳は、どこか軽薄そうに見えるが、どこか底が知れない。
「雪山で飲む酒も悪くねぇが、死人と飲む趣味はねぇ」
そう言うと、バルドはもう一口酒を飲んだ。
ミレイは静かに辺りを見回す。隣には、リヴィアが毛布に包まれて眠っていた。顔色は悪くないが、まだ目を覚ます様子はない。
「……とりあえず、ありがとう」
ミレイは短く言った。
バルドは目を細め、酒瓶を軽く傾ける。
「ま、礼はいらねぇよ。ただ……」
ミレイが顔を上げる。バルドは微かに笑いながら言った。
「お前さんたち、何でこんな場所で死にかけてたんだ?」
ミレイは一瞬、答えに詰まった。
何を話せばいい? この男は、どこまで知っている?
しかし、バルドはすぐに「ま、無理に言えとは言わねぇけどな」と肩をすくめた。
バルドは焚き火を見つめながら、ぼそりと呟いた。
「……お前さん、戦いすぎてねぇか?」
ミレイは眉をひそめる。
「どういう意味?」
バルドは酒瓶を軽く振りながら、肩をすくめる。
「いやな、さっき起こすときに少し手を握ったが……お前の手、力が入りすぎてるんだよ。眠ってるはずなのに、指が無意識に固まってる。まるで武器を握ったまま寝てるみたいにな」
ミレイは、反射的に自分の手を見た。毛布の下で、指が少しこわばっている。無意識のうちに、何かを握るように手を丸めていた。
「戦場に長くいるとな、手から抜けなくなるんだよ。戦い方ってやつがよ」
バルドは軽く笑った。
「まぁ、余計なお世話かもしれねぇが——『このままじゃ、戦いに飲まれるぞ?』」
ミレイの胸がざわついた。
この男、何を言ってる? なぜそんなことを?
「……何が言いたいの?」
バルドは焚き火の炎を見つめながら、ぼそっと言った。
「戦い続けることが、生きることになっちまう奴を何人か見てきた。気づいたら、戦ってないと落ち着かなくなるってな。……そうなると、もう"自分の戦い"じゃなくなる」
「……」
「ま、難しい話はあとだ。お前さんが今、何を考えてるのかなんて知らねぇが……」
バルドは酒を口に運び、穏やかに笑う。
「しばらくは、温かいもんでも飲んどけ。槍は、握らなくても消えたりはしねぇよ」




