第九章 〜逃亡の末に〜 19
ガブリエルはわずかに息を整えた。
そして、一歩、静かに踏み出す。
「——十分だ」
その言葉と同時に、剣を振るった。
風を切る音。
刹那、ミレイの槍が弾かれる。
瞬時に反撃しようとしたミレイだったが、その前にガブリエルの剣が寸分違わず首元に迫っていた。
「……!」
ミレイは本能的に動きを止めた。
わずかな間。
だが、それは決定的な間合いの支配だった。
ミレイの背に、冷たい汗が流れる。ガブリエルは剣を下ろし、ミレイの前から後退する。
「お前は、あいつを追いかけているのか」
ミレイの瞳が微かに揺れた。
そして、その背後。
リヴィアが剣を握りしめる音が響く。
「……待て! まだ……!」
リヴィアが叫びながら、血の滲むような執念で駆け出す。
だが、ガブリエルの動きはそれを許さなかった。
剣の軌跡が淡く光を引き、リヴィアの剣が弾かれる。
次の瞬間、ガブリエルの掌がリヴィアの腹部を突き、軽く押し出すように距離を取らせる。
息が詰まる。
リヴィアの身体は後方へと吹き飛ばされることはなく、ただ無理矢理、その場から退かされた。
「……力に頼るな、感情に流されるな」
ガブリエルの声が、低く響く。
「お前には、考えるべきことが山ほどあるだろう」
リヴィアは歯を食いしばる。
しかし、ガブリエルはそれ以上何も言わなかった。
ゆっくりと剣を鞘へと戻し、背を向ける。
「——二人とも、次に会う時は、どうなっているか見せてもらおう」
そう言い残し、彼は静かに去っていった。
その足取りは、一切の迷いを感じさせなかった。
◇◇◇
静寂が戻る。
戦いの余韻が、二人を包む。
ミレイは深く息を吐き、槍を支えにして立っていた。
しかし、その膝は僅かに震えている。
戦闘の興奮が冷めるにつれ、体に重みがのしかかってくる。
「……思ったより、くるね……」
自嘲気味に呟くが、指先の痺れは消えない。
ガブリエルの膂力の影響なのか、それとも自分が無意識に負荷をかけすぎたのか。
隣でリヴィアが剣を杖のようにしながら、ゆっくりと息を整えている。
だが、その目はミレイを見ていた。
まるで別人のような戦い方。
あの動き、あの冷たく悍ましい笑み——。
目の前で戦っていたのは、本当に彼女だったのか?
ミレイが何かに取り憑かれたように、戦場を掌握していた。
いや、それだけじゃない。
——戦いを、楽しんでいた。
リヴィアは喉の奥が乾くのを感じた。
「……ミレイ」
微かに呼びかけると、ミレイはゆるりと顔を上げた。
「ん?」
普段通りの、呑気な声。
まるで、さっきの戦闘がなかったかのように。
「今の戦い……どう感じた?」
リヴィアの声には、無意識に硬さが混じっていた。
ミレイはしばらく考え込んだ後、困ったように笑う。
「んー……すごく強かったなあ、ってくらい?」
——何も考えていない。
それとも、本当に覚えていないのか?
リヴィアは息を呑んだ。
今の戦いで、一番恐ろしかったのは——
ガブリエルではなく、ミレイだったのかもしれない。
胸の奥が冷たくなる。
しかし、それ以上考えを巡らせる余裕はなかった。
今のリヴィアの頭の中にある問題は、それだけではなかった。
——自分の血。
王族の血が、魔王軍にとって特別な意味を持つ。
それを、ガブリエルは言い残した。
だが、彼の言葉を真正面から受け止めるには、あまりにも唐突で、あまりにも重すぎる。
「……私にそんな力が……本当に……?」
小さく呟いたが、それ以上言葉にはできなかった。
もし、それが本当なら——
自分は何者なのか。
さらに——
ガブリエルを、逃してしまった。
戦うべき相手を、止めることができなかった。
膝に力が入らない。
すべてが、自分の手の中からこぼれ落ちていくような感覚。
しかし、戦いの余韻に浸る間もなく——
遠くから、足音が聞こえた。
不規則に、だが確実に近づいてくる。
「……まさか……」
リヴィアが顔を上げる。
来ないはずの追手。
だが、その気配は紛れもなく——敵。
「チッ、休ませてくれないね……」
ミレイはわずかに槍を構え直し、歯を食いしばる。
体は重い。




