第九章 〜逃亡の末に〜 11
「リヴィア、伏せて!」
言うが早いか、ミレイは市場の中央に積まれていた果物の樽を蹴り倒した。
——ドシャアアアッ!
赤い果実が弾け、熟れた果汁が飛び散る。通行人が悲鳴を上げ、驚いた馬がいななく。
「うわっ!」「なんだ!?」「気をつけろ!」
転がる果実に足を取られ、人々が次々につまずく。誰かの買い物袋が破れ、野菜やパンが地面に散乱する。市場の活気は一瞬にして混乱へと変わった。
ミレイはその間に、さらに動線を塞ぐ。
「ごめんね!」
勢いよく近くの露店の布を引っ張る。天幕が引き裂かれ、並べられていた小物や装飾品が床に散らばる。カラフルなビーズが石畳を跳ね、人々の足元を混乱に陥れた。
「きゃっ!」「何をするの!?」「ちょっと、どいて!」
通行人たちがパニックになり、押し合いへし合いする。その一瞬の間に、リヴィアが素早く状況を把握し、ミレイの意図を悟った。
市場は混沌と化したが、意図的な攻撃ではないため、決定的な敵意を向けられることもない。
遠くで衛兵や追手の怒声が響く。
「邪魔だ! どけ!」「押すな! 早く行かせろ!」
追手たちは、なかなか進めない一般人を押しのけながらこちらへ向かおうとしていた。
「ミレイ、行くわよ!」
リヴィアが素早く最適な逃走ルートを探し、視線で示す。
「そっちね!」
二人は市場の裏手に回り込み、狭い通りへと駆け込んだ。
「捕まえろ!!」
背後から怒号が響く。だが、彼らはまだ市場の混乱に足を取られている。
その隙に二人は狭い路地へと飛び込んだ。
石畳の隙間にたまった埃が舞い上がり、古びた木箱が衝撃でガタリと揺れる。ミレイは咄嗟に壁を蹴り、勢いを殺さずに曲がる。リヴィアもそれに続き、滑り込むように暗がりへ身を潜めた。
背後では、未だ市場の混乱が続いている。怒声や罵倒が飛び交い、果実を踏んだ音が不規則に響く。監視兵たちの足音は、混雑に遮られながらも確実に迫ってきていた。
「くそっ……まだ追ってくるわね……」
リヴィアが低く呟き、息を整える。
ミレイは肩越しに一瞥し、口元を歪めるように笑った。
「……いいね、遊び足りなかった」
彼女の瞳には、戦いの昂揚が微かに滲んでいた。
◇◇◇
町を抜けたその時——
「前にもいるわ……!」
鎧の軋む音、剣が鞘から抜かれる微かな金属音——静かに待ち構えていた男たちが、こちらの到来を確認した瞬間、微かに体勢を低くする。
そして、背後では荒い息遣いとともに迫る足音。
「……挟まれた」
リヴィアが低く呟く。声に焦りはない。しかし、その青い瞳には冷静な分析が宿っていた。
ミレイは素早く周囲を見渡した。
道の両脇には大きな岩とまばらな木々。突破できる隙間はない。選択肢は、一つ。
「やるしかないね」
微笑を浮かべながら、ミレイはゆっくりと槍を構え直す。僅かに風が吹き抜け、彼女の髪を揺らした。
「はぁ……派手に暴れるつもりはなかったのに……」
リヴィアが深いため息をつきながら呟く。その指は、わずかに剣の柄を撫でた後、しっかりと握り直す。
対照的に、ミレイは楽しげに槍を軽く回し、獲物を前にした狩人のような笑みを浮かべる。
リヴィアは静かに息を整え、剣の柄を握り直した。
「——真正面から突破するわよ」
その言葉と同時に、リヴィアが先陣を切る。
光の反射を僅かに帯びた剣が、鋭い弧を描きながら相手の武器を弾き、流れるように間合いを詰める。金属が触れ合う澄んだ音が響き、リヴィアはその隙に一歩踏み込み、相手の動きを封じるように立ち回った。
一方、ミレイは一直線に敵陣へと突進する。
槍の軌道は無駄がなく、迷いもない。ただ、一撃で相手を仕留めるための冷徹な動き。
「チッ!」
追手は反応し、咄嗟に剣を構えて迎え撃とうとする。しかし——遅い。
ミレイの灰槍が、わずかに軌道をずらしながら肩口へと叩き込まれた。刹那、衝撃に肩を揺らし、追手の動きが鈍る。
「……っ!」
槍が肌に触れた瞬間、追手の意識が一瞬だけ遠のく。その一瞬の遅れを見逃すミレイではなかった。
「はい、一人」
槍の柄を勢いよく押し込み、追手の足元を払うようにして転ばせる。転倒した相手は、なおも剣を握ろうとするが、その余裕すら与えない。
リヴィアもまた、確実に相手を仕留めていた。
「——はっ!」
彼女の剣は一切の無駄がなく、相手の防御の隙間を正確に狙い、確実に戦意を奪っていく。
ミレイが戦場を乱しながら撹乱する一方で、リヴィアは一撃で戦況を変える剣を振るう。
「これで突破口は——」
そう言いかけたリヴィアの言葉を遮るように、新たな影が動いた。
「増援、か……」
ミレイは槍を回しながら、素早く周囲の地形を再確認する。
視線の先、森の陰からさらに数人の追手が現れる。既に戦闘を始めていた敵と違い、彼らは落ち着いて布陣を組み、逃げ道を塞ぐように配置されていた。
「このままだとキリがないね……リヴィア!」
「分かってる!」
リヴィアは鋭く周囲を見渡し、一瞬で脱出ルートを見つけ出す。
「……でもその前に、一つだけやっておきたいことがある」
ミレイは槍を持ち直し、槍先を地面に突いた。
「ちょっと視界を遮ろうか」
次の瞬間、槍先に魔力が宿る。火の魔法が地面を焼き、巻き上げられた熱気と砂塵が一気に視界を覆い隠す。
「今よ!」
リヴィアが声をかけ、二人は煙幕を利用して一気に駆け出す。
混乱する追手たちを尻目に、二人は迷いなく森の奥へと飛び込んだ。
「ふぅ、ちょっと遊びすぎたかな?」
走りながらミレイが笑う。
「……本当に、あなたって……」
リヴィアは呆れたように言いながらも、どこか安堵の色を滲ませた。
二人は速度を落とし、静かな森の中を進む。木々のざわめきが心なしか落ち着きを取り戻し、追手の気配も遠ざかっていく。
夜の冷たい空気が、火の魔法の余韻を洗い流すように肌を撫でた。
ミレイはふと夜空を仰ぐ。木々の合間から覗く星々が、まるで戦いの熱を静かに見守るように瞬いていた。
「まあ、いい運動にはなったかな」
肩を軽く回しながら、ミレイは呟く。
リヴィアは静かに剣を収め、改めて息を整えた。
「……今夜の寝床を探すまでは気を抜かないことね」
そんな忠告をしつつも、彼女の声には少しだけ緊張が和らいでいた。




