第九章 〜逃亡の末に〜 9
町の入り口が見えてきたころ、ミレイが僅かに眉をひそめた。
門の向こうに広がる景色にはどこか違和感があった。空気が張り詰めている。活気があるはずの市場周辺も妙に静かで、人々の足取りが重く、ざわめきも薄い。
「……ここ、落ち着かないね」
吹き抜ける風が、砂埃を巻き上げながら通りを滑る。風に運ばれたのは、焼きたてのパンや果物の香りに混じる、乾いた土と微かに漂う鉄の匂い。人々の顔には警戒心が滲んでいるように見える。
その言葉に、リヴィアもすぐに警戒を強める。腰に手をやり、周囲を見渡す。
「具体的には?」
ミレイは肩をすくめながら、鋭い目で通りを見回した。
「人の動きが鈍い。誰も目を合わせようとしないし、逆に視線を感じるのも変に落ち着かないんだよね」
リヴィアもまた、通りの様子を観察する。普段ならば露天商が威勢の良い声を上げ、客が品定めに群がっているはずの場所が、異様な雰囲気を醸し出している。
「確かに、賑わっているはずの市場周辺が妙な空気ね」
ミレイは小さく頷き、そっと息を吐いた。遠くで鍛冶屋の槌音がかすかに響くが、それさえも普段より控えめに感じられた。
「……追手が混じってる可能性が高いわね」
「うん、たぶん。どうしよっか」
ミレイが問いかけると、リヴィアは一瞬考え込み、それから慎重に答えた。
「無理に隠れず、何気ない動きのまま補給を済ませるのがいいわね。周囲と違う動きをしてる者ほど目立つものよ」
ミレイは顎に指を当て、静かに納得するように頷いた。
「『静かに紛れ込む』ってやつか」
リヴィアは口元に微かな笑みを浮かべながら、周囲に気づかれぬよう剣を外し、大きめの荷物の中に隠した。ミレイもまた、槍を布で覆い、できるだけ目立たないようにする。
町の門の前では、二人の衛兵が退屈そうに槍を杖代わりにして立っていた。しかし、その瞳には鋭い観察の色が浮かび、通行する人々の様子を一つひとつ確認しているようだった。
「今回は派手に暴れず、静かに物資を調達して出るわよ」
「……それ、私に言ってる?」
「当たり前でしょ」
ミレイは小さく肩をすくめながら、わずかに歩調を落とした。そして、リヴィアと共にごく普通の旅人のように振る舞いながら、門をくぐった。
通りに足を踏み入れた瞬間、背後に感じる視線の数が増えた気がした。
◇◇◇
二人は町の市場を歩きながら、必要な物資を手早く集めていった。
露天商の並ぶ通りには、果物や乾燥肉、調味料などが所狭しと並べられている。しかし、客の数はまばらで、どの店主もどこか落ち着かない表情を浮かべていた。品物を並べる手つきもぎこちなく、時折、通りの向こうを窺うような仕草を見せる。
「とりあえず保存食と水。最低限あればいいでしょ」
ミレイは慣れた手つきで干し肉や硬いパンを選び、ためらいなく袋に詰める。水袋を持ち上げて残量を確認し、足りなければ補充するだけ。それ以上の選択肢はない。
「ダメよ」
リヴィアがすかさず否定する。
「塩と果物も確保しないと栄養が偏るわ。長く戦うつもりなら、体調を崩すわけにはいかない」
彼女は周囲を冷静に見渡し、熟れたリンゴや乾燥したナツメ、さらには少量のハーブを手際よく選んでいく。保存の利く食材を吟味しながらも、無駄な動きを一切見せない。その姿は、ただ食料を確保するのではなく、戦いを持続させるための知識と計算が滲んでいた。
「……贅沢だなあ」
ミレイはリヴィアを横目で見ながら、軽く肩をすくめた。彼女にとって食事は飢えを凌ぐための手段でしかなく、栄養のバランスなど考えたこともなかった。しかし、長期的な視点で見れば、リヴィアの言葉も理にかなっている。
ふと、ミレイの視線が市場の片隅にあるパン屋の露店に止まる。焼いたパンが並ぶ台の奥では、子どもたちが小銭を握りしめながらどれを買うか悩んでいた。その光景を目にした途端、かつての記憶がふと蘇る。
日本にいたころ、学校帰りに友達とコンビニに寄り、ちょっとしたお菓子を買い食いした日々。些細な楽しみだったが、それがどれほど幸せなことだったのか、今ならわかる。
食べることに命がかかるような世界で、ただ「おいしいから」という理由で何かを選ぶ贅沢。その感覚は、もうどこか遠いものになっていた。
「……変わったなぁ」
自分の口から漏れた呟きに、ミレイは僅かに眉を寄せる。
「何か言った?」
リヴィアが怪訝そうに顔を向けたが、ミレイは軽く首を振るだけだった。
「いや、なんでもない」
少しだけ過去に浸った自分を振り払うように、再び現実に目を向ける。今の自分に必要なのは、思い出に浸ることではなく、生き抜くこと。それだけだ。
リヴィアは果物を丁寧に袋へ詰め、最後に値段を交渉する。彼女の無駄のない交渉に、商人もまた表情を変えずに応じる。
ミレイはそのやり取りを見ながら、ふと口の端を上げる。
「本当は貴族じゃなくて元商人だったんじゃない?」
「……変わったのよ」
リヴィアはあくまで冷静に返し、二人はさらりと買い物を続けた。周囲の視線を意識しながら、あくまで自然に、そして慎重に。




