第九章 〜逃亡の末に〜 7
◇◇◇
月が雲間から覗き、うっすらとした銀の光が森を照らしている。風が枝葉を揺らし、夜の静寂の中にかすかなざわめきを生んでいた。
リヴィアは剣を膝の上に置き、じっと耳を澄ませた。風に混じる不自然な音がないか、気配を探るように目を細める。遠くで鳥が羽ばたく音が聞こえたが、それ以外に異変はない。
焚き火の名残が微かに燻り、消えかけた炭が赤黒い光を宿している。そのそばで、ミレイは槍を傍らに置いたまま、乾パンをかじっていた。
「見張りは交代でやりましょ。あんたは、少し寝ておきなさい」
リヴィアが低く言う。その声は静かだが、どこか命令口調にも聞こえた。
「んー……どうしよっかな」
ミレイは少し迷う素振りを見せながら、口の中の乾パンをゆっくりと噛みしめる。しかし、すぐにわずかに肩をすくめると、槍を手元に寄せたまま地面に横たわった。
「じゃあ、少しだけ。目を瞑るくらいはね」
「ええ、起こしてあげるから安心して寝なさい」
リヴィアは剣を手に取り、月明かりの下でその刃をわずかに傾ける。光が鋭く反射し、彼女の瞳に一瞬だけ冷たい輝きを宿した。
その目は、まるで深い闇の底から何かを睨みつけているかのようだった。復讐の炎は消えることなく、静かに彼女の胸の奥で燃え続けている。
「……どこにいるのかしら」
彼女は誰にともなく呟いた。その声はひどく淡々としていたが、微かに滲む激情が月夜に溶ける。
ミレイは軽く頷きながらも、槍の柄をしっかりと握ったまま目を閉じる。そのまま深い眠りにつくことはなく、意識の端で周囲の気配を探り続けていた。
リヴィアはそんな彼女を横目で見ながら、小さく息をついた。
この短い休息の間にも、明日は確実にやってくる。
◇◇◇
夜が明け、冷たい朝の空気が森を包んでいた。わずかに湿った土の香りが漂い、枝葉の隙間から淡い陽光が差し込んでいる。
ミレイはゆっくりと瞼を開いた。冷たい空気が肌を刺し、思わず肩をすくめる。視線を巡らせると、すでにリヴィアは起きていた。焚き火の残り火を前に、静かに剣の手入れをしている。剣先に布を滑らせる彼女の動きは、驚くほど無駄がない。
「……もう朝?」
ミレイが寝ぼけた声で呟くと、リヴィアは手を止めずに小さく頷いた。
「ええ、そろそろ動き出さないとね」
ミレイは伸びをしながら身を起こし、昨夜の疲れを払うように軽く肩を回した。身体の奥に残る鈍い疲労感は、逃亡と戦闘を繰り返した証だ。
「……このままじゃ追っ手を捌くのが面倒だね」
そう言いながら、ミレイは槍を手に立ち上がる。彼女の目はすでに次の戦いを見据えていた。
リヴィアは剣を鞘に収め、ミレイに視線を向ける。
「どうしたいの?」
無駄のない問いだった。彼女の口調には、判断を委ねるというより、意見を試すような響きがある。
「拠点がほしい。戦い続けるにしても、ちゃんと休める場所がないと、いずれ息切れする」
ミレイは槍を肩に担ぎながら、周囲の地形を見渡す。森の奥深く、どこまでも続く木々が視界を覆っている。
「どこか安全な場所があればいいけど……」
リヴィアの手が、剣の柄を軽く握りしめた。
「……安全じゃないけど、人が寄り付かない場所ならあるわ」
低く、抑えた声。ミレイはその言葉に反応し、彼女の横顔をちらりと見る。リヴィアはわずかに伏し目がちで、朝日に照らされた睫毛が影を落としていた。
「……ノルディス跡地」
名を口にするだけで、どこか苦しげだった。
ミレイは短く息を吐く。そこがどんな場所か、知らないわけではない。
「確かに、国の跡地に今さら足を踏み入れたい人間もいないだろうね」
「でも、もう……拠点にできるようなものは何も残っていないわよ」
リヴィアの声は淡々としていたが、その奥に微かな迷いが滲んでいる。ミレイはその感情を深く追求せず、ただ静かに肯定する。
「それでも、行く価値はある」
彼女ははっきりと断言した。
「どうせ戦うなら、こっちが戦う場所を選んだほうがいい」
リヴィアはミレイをじっと見つめた後、短く息をつく。そして、わずかに目を伏せながら静かに頷いた。
「……なら、せめて途中で補給しておきたいわ」
ミレイも頷く。しかし、リヴィアの表情には警戒の色が滲んでいた。
「でも、補給地点には敵が待ち伏せている可能性が高い」
「だったら、それすら利用すればいいんじゃない?」
ミレイの言葉に、リヴィアは一瞬目を細める。その後、小さく笑った。
「……あなたって、本当にそういうところが抜け目ないのね」
二人は並んで森を抜け、次の目的地へと歩み始めた。




