第八章 〜ノルディスの亡霊〜 12
朝の冷たい空気が、焚き火の残り火をかすかに揺らした。
夜明け前の静寂の中、ミレイは見張りを続けていた。
澄んだ空気が肌を刺し、地面に広がる薄霜がわずかに陽光を反射する。遠くの木々がわずかに揺れ、風が枝葉をかすめていく。
空は徐々に淡い青へと変わり、東の地平線に微かに光が差し始める。その光は、長い闇の時間を終わらせるように、静かに世界を照らしていった。
リヴィアがゆっくりと目を開けた。
「……もう朝?」
寝ぼけた声で呟きながら、身体を起こす。わずかに頬をかすめた冷たい空気に、身を縮めるように肩をすくめた。
「おはよう。よく眠れた?」
ミレイは淡々と声をかけながら、手元で残った火を弄っていた。
リヴィアは瞬きをし、少しだけ戸惑った表情を浮かべた。
「……変な感じね。こんなにしっかり眠れたの、いつぶりかしら」
彼女は自分の手を握ったり開いたりしながら、感覚を確かめるようにしていた。昨夜までの疲労が、ほんのわずかに軽くなっている気がする。
遠くの森の奥から、鳥の鳴き声が微かに響く。それに混じって、小さな動物が草を踏むかすかな音も聞こえてきた。
ミレイは焚き火の最後の炎が消えゆくのを見つめながら、小さく息を吐く。
「とりあえず、腹ごしらえしとく?」
そう言うと、ミレイは荷物の中から干し肉と固いパンを取り出し、リヴィアにも渡した。
リヴィアはそれを受け取りながら、少しだけ躊躇した。
「……ちゃんと朝ごはんを食べるのも、久しぶりね」
呟くように言いながら、パンを一口かじる。固いが、口の中でゆっくりと崩れ、空腹に染み込んでいく。
「昨日から“久しぶり”ばっかり言ってるけど、大丈夫?」
ミレイは軽く笑いながら、自分も干し肉をかじった。
冷えた朝の空気の中、二人はしばらく静かに食事を続けた。
やがてミレイは最後のひとかけらを口に入れ、立ち上がる。
「さて、そろそろ動く?」
槍を肩に担ぎ、軽く伸びをする。
リヴィアは深く息をつき、夜の冷たさがまだ残る朝の空気を吸い込んだ。
新しい一日が始まる。
「まずは、どこに向かうつもり?」
ミレイがそう尋ねると、リヴィアは少し考え込むように視線を下げた。
「……正直、予定が狂ったわ。追手がここまで来たということは、私の行動がどこかで読まれていた可能性がある」
「ふーん。じゃあ、なおさらのんびりはしてられないね」
ミレイは足元の小石を蹴りながら、周囲を見渡した。森はまだ朝霧に包まれており、遠くの樹々の向こうには陽光が差し込み始めている。
「私はとりあえず町へ向かうつもりだったけど、リヴィアは?」
「私は、町には入れないわ。きっともう追手の手が伸びてる」
ミレイはリヴィアの言葉に眉を上げ、槍の柄を軽く叩いた。
「そう。その追手、私が蹴散らせば町に入れる?」
リヴィアは苦笑する。ミレイの言葉はまるで些細な問題を解決するような口調だった。
「やめておいた方がいいわ。あなたも巻き込まれる」
「いいよ、私はリヴィアを助けたんだし、今更だよ」
ミレイの口元が僅かに笑みを作る。
(それに、魔王軍のことも気になるし)
内心で付け加えながら、ミレイは槍を軽く回した。彼女の動きには疲れの色もない。リヴィアはそんなミレイをじっと見つめた。
「意外にお人好しなのね」
お人好し。
その響きがどこかくすぐったくて、ミレイは視線を横に逸らし、小さく息を吐いた。
「……そう見える?」
槍の柄を指先で軽く弾きながら、言葉を零す。その声には、半ば自嘲のような色が混じっていた。
自分が誰かのために動くことを「お人好し」と言われるのは、なんだかしっくりこない。助けたのは偶然だった。けれど、そのまま放っておく選択肢は、彼女の中にはなかった。
「で、私と一緒に行動するとして、どうする?」
ミレイの言葉に、リヴィアは静かに息を吐いた。ミレイは折れそうになかった。
「……私は慎重に動きたいの。町に入れば、目立つ危険がある」
リヴィアは鋭い眼差しで周囲の気配を探るように見回しながら、低い声で続けた。
「もし追手が増えていたら、町に入るのは逆に危険。今は潜伏するべきよ」
「ふーん……慎重派だね」
ミレイはわずかに眉をひそめ、考え込むように槍を地面に突く。
「でも、私は討伐依頼の報告をしなきゃならないし、報酬も受け取らないと。さすがに何も言わずに消えるのは面倒が増えるだけだよ」
リヴィアは唇を引き結び、しばし沈黙した。
「報告は重要だけど、町に入れば目立つわ。追手がまだ動いている可能性を考えたほうがいい」
「なら、どうする? 町には行くけど、別のルートを使うとか?」
ミレイは淡々とした口調で提案する。
「……もしくは、変装する?」
「私が?」
「どっちでもいいよ。リヴィアは町の外で待ってるって手もあるし」
リヴィアは腕を組み、ミレイの提案を吟味するように考え込んだ。
「……確かに、そのくらいの対策は必要かもね。無防備に入るよりはマシだわ」
ミレイは小さく笑う。
「納得してくれた? どっちみち一緒に動くなら、なるべく目立たないようにしないとね」
リヴィアはわずかにため息をついたが、微かに口元が緩んだ。
「あなた、意外と強引ね」
「いつの間にか、ね」
二人は顔を見合わせ、軽く笑う。
「じゃあ、決まり。さっさと行こ」
ミレイは軽く槍を持ち直し、一歩を踏み出した。
リヴィアもその後に続く。
朝の冷たい空気の中、二人は森を抜け、町へ向かう道を進んでいった。
「町に着くまで、どれくらい?」
リヴィアが問いかける。
「歩きなら半日ってとこかな。道中で何もなければ、だけど」
「何もないとは思えないわね……」
リヴィアはちらりと背後を振り返る。昨夜の追手が全滅したとはいえ、それがすべてとは限らない。増援が来る可能性もあった。
ミレイはそんな彼女の警戒を気にせず、淡々と前を向いて歩く。
「考えすぎても仕方ないよ。動いてる間は戦える準備をしておけばいい」
「あなたはいつもそうなの?」
「まあね。頭使うのは戦うときだけでいい」
ミレイはさらりと言い放つ。
リヴィアは小さく笑った。
「単純で助かるわ」
「どういう意味?」
「いい意味よ」
会話を交わしながらも、二人の足は止まらない。
遠く、町の輪郭が霞の向こうにぼんやりと浮かび始めていた。




