第八章 〜ノルディスの亡霊〜 9
戦いを終えて戻ってくると、女性は荒い息を整えながらこちらを見つめていた。その視線には驚きとわずかな警戒が混じっている。
「……思ってたより早かったわね」
彼女がぽつりと漏らす。目の前の戦場を見れば、それも当然かもしれない。散らばる追手たちの姿を見下ろしながら、ミレイは槍を肩に担ぎ、軽く息を吐いた。
「そりゃ、早く終わらせたほうが楽だからね」
軽い口調で答えるが、女性の表情にはまだ疑問が浮かんでいる。
「……あなた、何者?」
その問いに、ミレイは肩をすくめる。
「ミレイ。ただの冒険者だよ」
「ただの、ね……」
女性は納得できないような顔をしつつも、それ以上追及はしなかった。しかし、ふと自分の腕に視線を落とし、痛みをこらえるように表情を歪める。
ミレイはそれを見逃さなかった。
「ちょっと見せて」
軽く声をかけると、彼女はためらった様子を見せながらも、やがて静かに傷口を晒す。血が滲み、深くえぐられた跡が見えた。放置すれば感染の危険がある。
「思ったより深いね。動かないほうがいいよ」
ミレイは荷物から包帯と薬を取り出し、手際よく処置を進める。
「ちょっとしみるよ」
傷口に薬を塗ると、女性はわずかに顔をしかめるが、声を上げることはなかった。
その瞬間、ミレイの脳裏にふとリーナの姿がよぎる。優しく、けれどどこか不器用な手つきで、自分の傷を手当てしてくれた日々。何度も傷つき、何度も癒された記憶が、今の自分の手の動きに重なっていた。
(……リーナなら、もっと丁寧にできるんだろうけど)
微かに自嘲しながらも、彼女は無意識のうちにリーナのやり方を思い出し、薬を塗る手を少しだけ柔らかくした。
「……慣れてるのね」
「まあ、これでも戦場を渡り歩いてるからね」
淡々とした口調で返すと、女性は少し黙った後、静かに口を開いた。
「リヴィア・ノルディスよ」
「ん?」
「名前。私はリヴィア・ノルディス」
「そう。覚えとくよ」
あえて深く突っ込まず、ミレイは軽く相槌を打つ。
「で、何で追われてたの?」
リヴィアの表情がわずかに曇る。
「……言いたくない?」
「そんなわけじゃないわ。ただ……あなたがどこまで関わる気なのか、わからないから」
「関わるつもりはないよ。ただ、せっかく助けた相手がまたすぐ死んだら後味悪いだけ」
その言葉に、リヴィアは少し目を伏せる。そして、静かに呟いた。
「私は……魔王軍の幹部、ガブリエルを討つために動いてる」
ミレイの表情が一瞬固まる。
「……へえ」
わざと軽く返すが、頭の中ではその名前が響いていた。
(また、ガブリエルの名前か……)
彼女にとっても無縁の存在ではない。かつて敵対し、因縁を刻んだ相手。その名前を、こんな場所でまた聞くことになるとは。
「……あなたも、ガブリエルを知ってるの?」
リヴィアの問いに、ミレイは少し考えた後、静かに頷いた。
「まあね。ちょっとだけ縁がある」
「……そう」
リヴィアの紺碧の瞳に、わずかに期待と疑念が入り混じる。だが、ミレイはすぐに話を打ち切った。
「でも、話はあと。今は、あなたが休むほうが先でしょ」
そう言って、ミレイは焚き火を起こし、リヴィアが落ち着けるように手配を進めた。
炎がゆらめき、辺りにかすかな温もりをもたらす。
ミレイは荷物を探り、干し肉と固いパンを取り出した。水袋も手元に置き、リヴィアに差し出す。
「とりあえず、食べなよ」
リヴィアは躊躇いがちにパンを受け取り、小さくかじる。口の中でゆっくりと咀嚼しながら、身体の緊張がほんの少しだけほぐれていく。
「……食べるのは久しぶり?」
ミレイが何気なく尋ねると、リヴィアは微かに目を伏せた。
「追われていたから、まともに食事をする余裕はなかったわ」
ミレイは納得したように頷き、自分も干し肉を噛みしめる。戦場での食事はいつもこんなものだ。だが、こうして火を囲むだけでも、少しは気が楽になる。
「それでも、ちゃんと食べられるときに食べておかないと、動けなくなるよ」
そう言って、水袋を手渡す。リヴィアは小さく礼を言い、それを受け取った。
静かな食事の時間が続く。薪がはぜる音だけが、夜の闇に響いていた。




