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第七章 〜絶望の底で〜 3

 まずは水だ。


 口の中が乾ききっている。喉がひりつき、頭がぼんやりする。魔法陣との戦いで汗もかいたし、出血もしている。水分を補給しなければ、判断力が鈍るのは明らかだった。


(こんな場所に……水なんて……)


 崖の下。周囲は岩と土に覆われ、湿気こそあるものの、小川のようなものは見当たらない。そもそもこんな霧が立ち込める環境で、清流なんて期待する方が間違いだ。


 ミレイは舌打ちしつつ、ゆっくりと歩を進めた。右足をかばいながら地面を確かめ、できるだけ負担がかからないように移動する。傷がうずくたびに眉を寄せたが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。


 進むにつれ、地面がわずかに柔らかくなる。靴の裏が湿り気を帯びた土を踏む感触。ミレイは足元を確かめ、さらに進んだ。


 しばらく歩くと、苔むした岩の隙間に、小さな水たまりができていた。


(……あった)


 思わず安堵の息をつく。水は透明とは言えないが、飲めないほど汚れているわけでもなさそうだ。ただし、油断は禁物。下手に飲めば腹を壊す可能性がある。


 ミレイはじっとその水を見つめた。


(……魔法で、水を作れたりしないのかな?)


 火が扱えるなら、水だって……。いや、そんなこと考えてる暇があるなら、さっさと火を起こして煮沸したほうが早いか。


 今のところ、水の確保はできた。次は、火。


 ミレイは再び霧の中を歩き出した。 だが、足が止まる。


 疲労が限界に近い。じっとりとした汗が肌を冷やし、立っているだけで膝が震える。右足の痛みが増してきた。長時間動き続けるのは無理だ。


(……少し休まなきゃ)


 崩れかけた岩の側に腰を下ろし、深く息をつく。こうして座るだけで、体の重さがずっしりと響く。


(……まずは、少しでも体力を回復させないと)


 ミレイは霧の向こうを見据えながら、しばし動きを止めた。

 しかし——目を閉じるわけにはいかない。


 疲労が全身に重くのしかかる。頭の奥がじんじんと痛み、まぶたが自然と落ちそうになる。それでも、今は眠るわけにはいかなかった。


 リリスとの死闘、崖からの落下、黒い者との戦い。魔力も体力もすでに限界を超えていた。寒さがじわじわと肌を刺し、傷の痛みは鈍く広がっている。こんな状態で気を抜けば、次に目を覚ます保証はない。


 ミレイは自分の頬を叩いた。痛みで意識が少しだけはっきりする。


「……頑張れ」


 自分に言い聞かせるように、呟いた。


 しかし、その言葉も虚しく、視界がふっと揺らぐ。揺らいでしまった。


 霧が濃くなり、周囲の色が消えていく——



◇◇◇


 暖かい光が差し込む店の奥、棚に並べられた薬草の瓶。淡い香りが鼻をくすぐる。


「ミレイ、動かないで」


 リーナの声が響く。彼女の小さな手が、傷薬の瓶を取り出し、布を湿らせている。


「大げさだって。ただの擦り傷だから——」


「ダメ。ちゃんと消毒しなきゃ、悪化するでしょ」


 ぷくっと頬を膨らませたリーナが、手際よく傷口を処理する。冷たい薬液が肌に染みる感覚がリアルすぎて、一瞬、本当にそこにいるかのように思えた。


「ふふ……もう、薬師見習いってレベルじゃないね」


「ふふん♪ 先生にも褒められたもん」


 リーナは誇らしげに微笑んだ。その小さな顔には、かつてゴブリンに襲われ怯えていた面影はなく、都市で少しずつ自信をつけていった成長の証が刻まれている。


 ミレイは目を細めながら、ぼんやりとその姿を見ていた。


「……ねぇ、ミレイ」


「ん?」


「無茶しすぎるの、やめなよ」


 リーナの表情がふと曇る。ミレイの腕を包帯で巻きながら、じっと目を伏せた。


「……ミレイが、死んじゃったら……私、やだよ」


 ——その瞬間、温かかった空気がすっと引いた。


 光が淡くなり、リーナの姿が霞んでいく。


「……ミレイ?」


 声が遠のく。


「ミレイ、寝ちゃダメ!!」


 強烈な衝撃が走った。


 ハッと目を開く。冷たい霧、血の匂い、痛みが戻ってくる。


(……今、リーナが……?)


 いや、夢だ。でも——


「寝たら、死ぬ……」


 ミレイは息を震わせながら、ゆっくりと体を起こした。まだ終わっていない。まだ、生きている。


(……リーナ、ありがとう)


 ミレイはかすかに笑い、霧の中に目を凝らした。


(……まずは、生き延びること)



 しばらくの間、動かずにじっと息を整える。ゆっくりとした深呼吸。肺が冷たい空気を吸い込み、少しずつ意識がはっきりしていく。


(落ち着け……考えろ)


 武器はない。食料もない。だが、まずは火だ。


 火を起こすなら燃えるものがいる。枝や葉、それに乾いた苔。視線を落とし、指先で土を探る。湿った冷たい地面の感触が伝わる。


(……苔がある。使えるかも)


 手探りで掴み、指でほぐしてみる。湿っているが、乾いた部分もある。これを焚きつけにできるかもしれない。


 ミレイは周囲を見渡し、小さな枝や落ち葉を集めることにした。足を引きずりながらも、倒れないように慎重に動く。かつてなら「こんなの無理」と思ったかもしれない。だが、今は違う。


(生きるために、やれることをやる)


 震える指で、慎重に苔と枝を積み上げる。


 問題は——火をどう起こすか。


(魔力が……残ってればな)


 意識を集中しようとするが、魔力はほとんど枯渇していた。火魔法を使う余裕はない。


(摩擦熱……? いや、道具がないし、そんな余裕も……)


 唇を噛む。だが、あきらめるわけにはいかない。生き延びるために、どんな手でも使う。


(……少しでも、魔力を引き出せないかな?)


 呼吸を整え、指先に意識を集中する。微かに、体の奥に残る最後の魔力を感じる。


(……頼む、一瞬でいい)


 震える指が苔の上に触れた。微かな火花が散る。ミレイは息を呑み、もう一度——。


 パチッ。


 乾いた音とともに、苔の先がわずかに赤く染まった。

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