第七章 〜絶望の底で〜 2
ミレイは迷いなく手を刻印へと押し当てた。瞬間、ぞわりとした冷気が指先を駆け抜ける。触れてはならないものに触れたような、拒絶の感触。
脳裏に警鐘が鳴る。それでも手を離すわけにはいかない。
不意に、視界が揺れた。
霧が濃くなる。肌を撫でる空気の流れが歪む。刻印を通して、何かが脈打つのを感じる。
ミレイの全身に、微細な震えが走った。
(これ……崩せるか? いや、どうすれば……!)
その瞬間、体の奥底から何かが突き上げてきた。思考ではない、知識ではない。直感。
——魔力干渉。
理解はしていない。けれど、やるべきことはわかる。
手のひらに力を込め、意識を刻印に流し込む。
即座に、逆流するような力がミレイの体を突き抜けた。
「……ッ!」
全身に、鋭い痛み。
体の奥にある何かが削られていくような——いや、魔力を根こそぎ持っていかれる感覚。
(……このままじゃ、やばい!)
意識が霞む。視界が歪む。それでも——
「……壊れろッ!!」
ミレイは最後の力を振り絞り、刻印へと意識を叩きつけた。
ひび割れるような音がした。
刻印が、揺れた。
瞬間——黒い者の動きが、ぴたりと止まる。
崩れ落ちるかのように、その輪郭が歪み始めた。
しかし、まだ終わりではない。
魔法陣は今にも崩れそうだった。ひび割れ、脈打つように揺れている。けれど、まだ完全に砕けてはいない。
ミレイの体は限界を迎えていた。呼吸は浅く、四肢の感覚も薄れていく。それでも、意識の奥底で“まだ動け”と生存本能が叫んでいた。
(あと……一押し……!)
震える指先に、かすかな電撃が走る。残った魔力を掻き集めるように、右手に雷の煌めきを灯した。同時に、左手には揺らめく炎が舞い上がる。
全身の力を振り絞り、最後の一撃を刻印へ叩き込む。
雷と炎が絡み合う。力を込めた瞬間、閃光が爆ぜ、炎が駆けた。雷が魔法陣の刻印を引き裂き、火がその痕跡を焼き尽くした。
閃光が爆ぜ、炎が駆ける。雷が魔法陣の刻印を引き裂き、火がその痕跡を焼き尽くした。
激しい衝撃音が響き、魔法陣が弾け飛ぶ。次の瞬間、黒い者が痙攣するように震え、その輪郭が霧散していった。
静寂。
黒い者が完全に消えたことを確認し、ミレイはようやく膝をついた。
「……終わった……」
全身は重く、意識が遠のきそうになる。それでも、彼女は最後まで目を開け、崩れた魔法陣の残骸を見つめていた。そこに何の力も残っていないことは理解していた。ただ、動く力が湧かない。しばらく、荒い呼吸を整えることに集中するしかなかった。
ゆっくりと、冷たい地面に指を押し当てる。
(……これ、前にもあったな)
頭に浮かんだのは、転移してきた直後のことだった。
あの時も、こんなふうに地面に転がっていた。体は動かず、痛みに苛まれ、どこにいるのかも分からないまま。それでも、"生きる" ことだけは考えていた。
今はどうだろう。
以前と同じく傷だらけ、疲労困憊、未知の場所。だが、違うこともある。
まず、槍を探す。次に、食料と水の確保。それから、この場所の探索。
転移したばかりの頃は、何をすればいいのかすら分からなかった。ただ、目の前のことに必死に対応するしかなかった。だが、今は違う。
経験がある。知識がある。戦いの中で培ったものが、確かにここにある。
淡々と脳内で整理すると、不思議と体の力が戻ってくる気がした。
(……そうだ。私、もうあの頃とは違うんだ)
右足を引きずるようにして体を動かす。足に響く痛みは無視できない。だが、それでも——。
「……動ける」
ミレイはゆっくりと息を整え、体を押し上げながら立ち上がった。視線を上げる。目の前には広がる暗闇と霧。次に進むべき道が、そこにあった。




