第七章 〜絶望の底で〜 1
意識が戻った瞬間、全身を襲う激痛に、ミレイは息を詰まらせた。
痛い。熱い。冷たい。すべての感覚が混ざり合い、脳が正しく処理できない。ぼやけた視界の向こうに、暗い空と霧が広がっていた。湿った空気に血の匂いが混じる。肺がざらつき、呼吸をするたびに痛みが走った。
自分がどこにいるのか——すぐには理解できなかった。
(……私は、落ちたんだ)
脳が動き出すと同時に、崖の上での死闘が鮮明に蘇る。リリスとの戦い、崖からの落下。
生きている。そう認識した瞬間、全身の痛みが一気に襲いかかる。
右足が特に酷い。捻挫か、それとも——最悪、折れているかもしれない。しかし、確認するよりも先に、本能が警鐘を鳴らした。
“何か”が近くにいる。
瞬間、心臓が跳ね上がる。体が勝手に動こうとするが、強烈な痛みがそれを阻む。
(……くそっ)
歯を食いしばりながら、左手で地面を探る。槍は——ない。
視界がぼやけている。冷静になれ。まずは、ここがどこなのか——。
ぼんやりとした暗闇の中に、影が揺れるのが見えた。
カサ……カサ……。
這うような、不規則な音。
ミレイは息を潜めた。胸の奥に鈍い圧迫感が広がる。
そして、ぼんやりとした影が輪郭を帯びた瞬間、全身の毛が逆立つ。
黒い者。
(……なんで、こんなところに……!?)
喉がひりつくほど乾く。黒い者がいるということは——この場所には"魔法陣"がある。
槍で倒せる相手ではない。物理攻撃は一切通用しない。戦うだけ無駄。
(魔法陣を壊さなきゃ……! どこ……どこにある!?)
体が動かない。しかし、時間は待ってくれない。
黒い者は、ミレイを"認識"すると、ゆっくりと——だが確実に、こちらへ向かってくる。
恐怖はない。だが、全身の痛みと極限の疲労が、冷静な思考を奪いかける。
(くそっ……! こんなところで……!)
槍を探せ。体を動かせ。魔法陣を見つけろ。
けれど、意識とは裏腹に、体は思うように動かない。肺は焼けるように痛み、血の匂いと鉄の味が喉の奥を満たしていた。視界の端で黒い者が蠢く。その輪郭が揺らぎながら、ゆっくりと確実にこちらへ向かってくる。
闇の中、何もかもがぼやける。世界は霧の中に溶け込み、冷たく湿った空気が肌にまとわりつく。
(……まずい、見えない)
焦るほどに、視界は鈍る。痛みと疲労で感覚が鈍り、思考はまとまりを失う。時間が溶けていくように、全てが鈍重に感じられた。
カサ……カサ……。
這い寄る音がする。すぐそばまで来ている。音の方向を頼りに、敵の位置を探るが、息が荒くなるばかりで、全身が鉛のように重い。
(どこだ……? どこにある……?)
魔法陣を探さなければならない。だが、暗闇に包まれたこの場所では、地面のどこを見ても泥と岩が広がるばかりで、決定的な痕跡は見つからない。
自分を落ち着かせるように、唇を噛み締める。無闇に目を走らせるのではなく、黒い者が"どこから現れたか"を冷静に見極めるべきだ。
……いや——
意識を、視覚ではなく“別の何か”へ向ける。
全身が痛む。血が流れ、体力が尽きかけている。それでも、体の奥底で微かな感覚が呼び覚まされる。
(……何かがある)
それは、肌に直接触れるわけではないのに、確かに感じる“違和感”。
まるで、風の流れがほんのわずかに歪むような——。
(魔力の……痕跡?)
今まで意識したことはない。けれど、確かに“そこ”に何かがある。
黒い者が現れた地点。そのすぐ近くの地面——。
感覚が研ぎ澄まされていく。喉がひりつくほど乾くのを感じながら、全身の痛みを無視して左手を地面に伸ばす。
指先に触れたものは、ただの石。
だが——
その下にある“何か”が、微かに響いている気がした。
震える指先で、地面を払う。
薄く積もった土の下に、滑らかすぎる感触があった。
刻印。
(……これか!)
呼吸を整える間もなく、影がさらに迫る。もう余裕はなかった。
どうする——!?




