第四章 〜黒い影〜 2
その存在は、ゆっくりとした動きで近づいてくる。人間に見えるが、どこか違う。生者ではない、何か。
「リーナ、後ろに下がって」
リーナは怯えながらもミレイの指示に従い、彼女の背後へと小さく身を寄せる。
ミレイは槍を構えた。生存本能が、静かに警鐘を鳴らしている。
敵の動きは鈍い。だが、それは決して油断していいわけではない。慎重に間合いを測りながら、ゆっくりと足を動かす。
「……試すしかない」
彼女は深く息を吸い込み、一気に踏み込んだ。
槍の穂先が、黒い者の胸元を突く。
——が、手応えがない。
刃先は確かに触れた。だが、まるで霧を切るように抵抗がなく、槍はすり抜けた。
「……効いてない?」
黒い存在は微動だにしなかった。そして、その腕がゆっくりと持ち上がる。
次の瞬間、ミレイの視界が一瞬にして暗転した。
「っ——!?」
まるで闇に飲まれるような感覚。意識が、一瞬だけどこかへ引きずられそうになる。
しかし——。
頭の奥に、微かな違和感が走る。何かが入り込もうとしているのか?
——けれど、それはすぐに霧散した。
ミレイははっと息を吸い、強く目を見開く。
「……何、今の……」
まるで精神を引きずり込もうとするような感覚だったが、それはすぐに弾かれた。ミレイの意識は揺らがず、冷静さを保っている。
「効かない……?」
敵の攻撃の意図は不明だが、少なくともミレイに影響を及ぼすことはできなかった。だが、それでも問題は解決していない。
槍が効かない以上、別の手段を探らなければならない。
「なら——別の手段で!」
彼女は、槍を素早く引き戻し、腰に下げたナイフへと手を伸ばした。骨のナイフを強く握りしめる。
「……燃えろ!」
ナイフの刃先に、小さな炎が宿る。
彼女は狙いを定め、一気に黒い者の胴へと突き立てた。
刃が触れた瞬間、黒い者の表面が一瞬だけ揺らめいた。しかし、ナイフが深く刺さる前に、まるで何かに弾かれたように押し返される。
「これも……効かない!?」
ミレイは即座に後方へ跳び、距離を取る。焦りが胸を締めつける。槍も、ナイフも、炎すらも通じない。
その間にも、黒い者はゆっくりと前進を続けていた。
「このままじゃ……まずい!」
ミレイはすぐに状況を整理する。攻撃が通じない相手に、無策で挑むのは愚策。ならば——
「……逃げるしかない!」
ミレイはリーナを背負い、森の奥へと駆け出した。
息が荒く、胸が苦しい。
森の中を駆け抜けながら、ミレイは後ろを振り返る。黒い者――それが何なのかはわからない。だが、あれと戦うのは得策ではない。
「リーナ、しっかりつかまって!」
背中にしがみつくリーナの小さな手が、さらに強く握るのを感じる。ミレイは歯を食いしばりながら、全力で駆けた。村の静寂が遠ざかるにつれ、黒い者の気配も薄れていく。
木々の間をすり抜けながら、彼女の思考は冷静だった。
「炎も槍も、効果がなかった……」
物理攻撃は効かず、火も無意味。あれは一体、どんな存在なのか。
今は考えている場合ではない。優先すべきは安全な場所を確保すること。村はもう戻れる状況ではない。ならば、この森で身を隠しつつ、次の手を考えるしかない。
しばらく走り続けると、木々の間から岩場が見えた。そこはちょうど崖の影になっており、茂みも多く、隠れるには最適な場所だった。
「ここなら、少しは休める……」
ミレイは慎重に周囲を確認し、リーナをそっと地面に下ろした。リーナの小さな体が震えている。無理もない、彼女は恐怖と疲労で限界だった。
「リーナ、大丈夫?」
リーナは息を整えながら、小さく頷く。顔色は悪いが、しっかり意識はあるようだ。
「……ミレイ……あれ……何……?」
「わからない。でも、あれと戦うのは危険すぎる。」
ミレイは手を伸ばし、リーナの肩を優しく叩いた。
「まずは落ち着こう。ここで少し休んで、それから今後のことを考える。」
リーナはぎゅっと唇を噛みしめたが、やがて小さく頷いた。
ミレイは森の静寂の中で息を整えながら、改めて思考を巡らせた。今のままでは、また遭遇したときに何もできない。新たな武器を探すか、別の方法であれを倒す手段を考えなくてはならない。




