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第十一章 〜変質〜 10

 肺が潰れ、視界が揺れる。それでも——槍を離さない。


 そこへ、声が響いた。


 「……そこまでにしときな」


 瘴気の結界が砕け、バルドが現れる。


 戦槌を構え、静かにリリスを見据える。


 「好きにやってくれたな……“死神”」


 リリスの動きがぴたりと止まる。

 その目が細くなり、口元の笑みがわずかに深まった。


 「……あら。起きちゃったの? "壊し屋"。あなたが来ると、面倒になるのよね」


 彼女はゆっくりと肩を回すようにしながら、わずかに後退する。


 「本気でやり合うつもりはなかったの。今日はね。ほんとよ」


 その目はバルドから外れず、しかし攻撃の気配はなかった。


 「それに、もう十分楽しませてもらったし……」

 「……あなたにはまた今度、ゆっくりと面倒を見てもらうわ」


 そう呟いた瞬間、リリスの身体が霧のように揺らぎ、風に溶けるように姿を消した。


 残された空間には、ただ僅かな瘴気と、沈黙だけが残った。


 リヴィアは剣を持たぬ手で胸元を押さえ、崩れ落ちそうな体をかろうじて支えていた。

 額には冷たい汗。呼吸は浅く、震える吐息が唇を震わせている。


 幻術によって強制的に“あの日”を再体験させられた心は、今もなお混乱の中にあった。


 自分がどこにいるのか、一瞬わからなくなりそうになる。


 ——焼け落ちた城壁。赤く染まった石畳。剣を持つ手が震えていた少女の自分。


 リヴィアは拳を握る。


 今は違う。過去ではない。隣には、戦っている仲間がいる。


 それでも、頭の奥に残る“あの日の景色”が、今なお視界の端をちらつかせていた。


 その様子を、バルドは黙って見ていた。

 ミレイに向けられていた視線を一度だけリヴィアに向け、わずかに眉をひそめる。


 幻術が見せたものが何だったかは知らない。

 だが、リヴィアが「それでも立った」ことを、彼は見逃していなかった。


 そして、その視線はミレイへと戻る。


 槍を握ったままの少女。傷だらけで、まだ戦うように前を向いている。

 けれど——その目の奥には、何も宿っていなかった。


 バルドの表情が、僅かに硬くなる。


 「……おい、ミレイ」

 バルドの声は低く、静かに落ちた。

 「その目……どこ向いてんだ?」


 しばしの沈黙。

 ミレイは応えない。槍を握る手をわずかに強くし、視線を地に落としたまま——あるいは、遠くを見るようにして——その問いを通り過ぎる。


 バルドはそれ以上、何も言わなかった。


 やがて、砦の静けさを裂くように冷たい風が吹き、三人の体温を奪っていった。


 「……火を起こすぞ。身体が冷えたら、傷も悪化する」

 バルドがぽつりと呟き、近くの倒木に目を向ける。


 リヴィアは静かにうなずくと、まだ震える足取りでその場を離れ、焚き木になりそうな枝を集め始めた。


 ミレイは、何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。

 だが、ふと視線を足元に落とし、転がっていた薬草袋に気づく。


 血に濡れた手でそれを拾い上げると、中を覗き込み——しばし黙ったまま動かない。


 誰のものかは言わない。

 けれど、その指がごく自然に、その薬草を手当てに使い始めた。


 リヴィアが焚き火を起こし、赤い火が揺れる。

 夜が深まっていく中で、三人はそれぞれの痛みと沈黙を抱えたまま、ただ静かに、そこにいた。


 言葉はなかった。

 夜の風がまた一度、灰色の空気を撫でる。



◇◇◇



 そして、焚き火の影が揺れる中——夜が、静かに明け始めた。


 東の空がほのかに明るみを帯び、砦の廃墟にもわずかな光が差し込み始める。

 風は冷たく、瓦礫の隙間から吹き抜けるたびに、残っていた熱を静かに奪っていった。


 ミレイは、焚き火の前でじっと座っていた。その目は炎を見つめているようで、何も映していなかった。


 やがて、彼女は静かに立ち上がった。

 その手には、昨夜手当てに使った薬草袋がまだ握られていた。

 傷は完全には癒えていない。それでも、彼女はそれを気にも留めない様子だった。


 「……行こう」


 その声は、誰に向けたものでもなく、ただ空に落とされたような小さな呟きだった。


 リヴィアが一瞬だけミレイに視線を向ける。何かを言いかけたが、唇がわずかに動いただけで、言葉にはならなかった。


 バルドは黙って立ち上がる。肩にかけた大槌の重みを確かめるように片手で軽く揺らしながら、一歩、二歩とミレイのあとに続いた。


 リヴィアもまた、何も言わずに歩き出した。足取りは重くなかったが、どこか迷いのようなものを引きずっていた。


 砦を後にする三人の足音だけが、静まり返った廃墟に響いていた。


 道中、誰も振り返らなかった。



◇◇◇



 それからの道中、三人はほとんど言葉を交わさなかった。

 ただ足音と風の音、時おり吹き抜ける草のざわめきだけが、静かな旅の伴奏となっていた。


 昼過ぎ、小さな峠を越えた先で、野盗の一団が現れた。

 装備は粗末だが動きは悪くなく、手慣れた構えを見せる者もいた。

 ミレイは、その姿を見て、一瞬だけ呼吸を整えるように目を伏せ——そして、静かに槍を構えた。


 気配が走るより早く、彼女は地を蹴っていた。

 しかしその突撃には、かつてのような鋭利な殺意はなかった。

 むしろ、刃が届くぎりぎりのところでわざと外し、敵に反撃の余地を与えていた。


 敵が驚き、混乱し、攻撃してくる。その一手一手を、ミレイは淡々といなしていく。

 その目は、まるで何かを感じていたいとでも言うように、じっと敵の動きを追っていた。


 槍が振るわれるたび、肉が裂ける。

 けれど、それは即死ではない。

 致命傷ではない箇所を、わずかに外して、何度も繰り返す。


 敵の一人が膝をつき、血を吐きながらも剣を振り上げようとした——その腕ごと、ねじ伏せるように叩き折る。


 それでも、ミレイの表情は変わらない。

 喜びでもなく、怒りでもなく、ただ何もない時間に浸っているようだった。


 敵が逃げようとする。それを追う。

 後ろから突き刺すでもなく、足を刈り、転倒させ、また立ち上がらせる。


 リヴィアが構えを取りながら低く呟く。


「……何してるのよ」


 それは敵に向けた言葉ではなかった。

 目の前で繰り広げられる終わらせようとしない戦いに、声をかけずにはいられなかった。


 だが、ミレイは応えない。


 最後の一人が悲鳴を上げたとき、ようやく槍が突き出された。

 今度は深く、心臓を貫いた。


 数秒後、草陰に飛沫が跳ねた。

 戻ってきたミレイの頬には、赤い線が一筋だけ残っていた。


 「……終わった」


 その声音は、まるで儀式の終わりを告げる鐘のように、空虚だった。


 バルドは戦闘の気配が消えたことを確認し、肩の槌を下ろした。

 その目は、遠くを見ているようだった。


 リヴィアは、槍を拭うミレイの手元を見つめていた。

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