第十一章 〜変質〜 8
◇◇◇
砦の外に出た三人が、ようやく冷たい空気に肩の力を抜いたその時——空間が歪んだ。
風が止む。音が消える。世界が、まるで呼吸をやめたかのように凍りついた。
「……っ」
ミレイが僅かに槍を握る手を強める。リヴィアも剣に手をかけた、その瞬間だった。
「こんにちは」
まるで昔からそこにいたかのように、女が一人、道の中央に立っていた。
血のような唇。深紅の瞳は微笑みながらも、氷のように冷たく、底知れなかった。
その存在だけで、空気が震える。時間が、空間が、その場のすべてが彼女を中心に捩じれたように感じる。
リヴィアの顔が凍りつく。
「あ……」
記憶の奥に焼き付いていた光景。かつて王都を襲った、あの災厄の日。炎の中に現れ、笑いながら人を裂いたあの女——。
「おや……見覚えある顔もあるけど……まぁ、どうでもいいわ」
リリス。
その名前を口にせずとも、空気がそう語っていた。
「……あら」
彼女の視線がミレイに向いた瞬間、表情が微かに変わる。口元が楽しげに歪む。
「ねえ、あなた……前に戦ったあの子よね? ふふ、生きてたのね。ほんと、いい子」
「私、てっきり死んだと思ってたのに。まさかまた会えるなんて」
ミレイが即座に構える。だが次の瞬間、リヴィアの足が動かなくなる。
「くっ——」
霧のような幻術が彼女に絡みつこうとした、そのとき——
「下がれ!」
バルドが前に出て、リヴィアの前に立つ。その瞬間、彼の足元に奔った瘴気が、バルドの身体を包むように絡みついた。
視界が、色を失う。
バルドの姿が、その場から見えなくなった。
「……バルド!」
リヴィアが叫ぶも、返事はない。彼は幻の中に囚われていた。
リリスはくすくすと笑う。
「残念。あの人、強すぎるから……ちょっとお休みしててもらうわ」
その目が、まっすぐミレイを見据える。
「さて。続きを見せてもらおうかしら。あの時は、まだまだ未熟だったけど——」
赤い舌が、ゆっくりと唇をなぞる。
「今のあなた、ほんとにおいしそう」
刹那、ミレイの姿が霞んだ。
次に目に映った時には、すでに地を蹴っていた。風を裂くような疾走。だがその動きは、単なる速度ではなかった。
殺意と焦燥を殺しの一点に圧縮した、読みと賭けの踏み込み。
リリスは微笑んだまま、その殺気に頬を撫でられるようにして半歩だけ退いた。
槍が地面を裂き、粉塵が舞う。直線ではない、相手の視界と意識の死角を選ぶような軌道。
ミレイは返す。
すかさず槍を背中で回し、斜め下から跳ね上げるような第二撃。ガブリエル戦で磨かれた、間を奪う技法だった。
——だが、リリスの足が消えた。
幻か、実体か。それすら分からぬ早さで彼女の身体が流れるように横滑りし、ミレイの攻撃を避ける。
「いいわ、ほんとに。さっきの一撃、ちょっと背筋がゾクっとした」
ミレイは反応しない。
目線は逸らさず、姿勢を崩さず、次の一手を読む。リリスが動くよりも早くその意図を読むこと。
彼女の戦い方は技術でも力でもない。見抜くことで命を拾い、刃を通す——それが、彼女の唯一の術だった。
リリスが肩を揺らすように笑った。
「でも、どうして黙ってるの? 楽しくなってきたでしょう?
ねえ、あの頃と違って、今は殺すために動くのが自然になってきてるんじゃない?」
ミレイは踏み出す。
あえて横を大きく迂回するような動き。錯覚か、本命か、それを読ませる余白をわざと残した誘導。
リリスが笑いながら首を傾ける。その隙を狙って、ミレイは火花を生む程度の小さな火魔法を混ぜる。
攻撃というより、視線の誘導。それすらも、見えた一瞬に全てを差し込むための布石。
槍が伸びる。
しかしその直前、ミレイの視界が一瞬、ぶれた。
足元の感覚が狂う。重力が反転したような違和感。
リリスの幻術だ。世界のバランスそのものを欺くような術式。
けれど——ミレイは止まらなかった。
それが幻であると気づくのではない。攻撃の起点でなければ無視できると割り切った判断。
バランスを崩した体を、あえて倒れ込むように滑らせる。そのまま槍を引き、起き上がりざまに反転しての突き。
姿勢が低く、予測の死角。
リリスの笑みが少しだけ鋭くなる。
「——あら、今の、ちょっと危なかったわ」
言葉のあと、手が動く。
次の瞬間、ミレイの肩に爪がかかる。
防ぎきれなかった。
血が散る。
ミレイは顔をしかめるでもなく、ただ槍を突き刺す勢いのまま後方に転がる。肩を抑え、距離を取る。呼吸は荒くない。
その表情は、無感情にすら見えた。
リリスの瞳が微かに揺れる。
「その顔……やっぱり好きよ、あなた」
「だって、こんなに楽しいのに、ちっとも笑わないんだもの」
その瞬間、リヴィアが動いた。
ミレイの背中に迫る影を見て、剣を抜き放つ。
彼女の動きは無駄がなく、恐怖よりも先に体が反応していた。
リリスの横合いからの一閃。斜め下から、喉元を狙った鋭い踏み込み。
だが——
「やるじゃない。……でも、甘いわ」
リリスの指が空をなぞるように動くと、地面がねじれ、リヴィアの足元が消えた。
視界が反転する。空間ごと傾くような違和感の中、リヴィアは片膝を地に突き、無理やり姿勢を立て直す。
「っ……! 幻術か、これ……!」
目の奥に鈍い痛み。思考が霞む中、リヴィアは剣を支えに一歩前へ出る。




