第十一章 〜変質〜 7
◇◇◇
砦の外、石壁の向こうに広がる夜の大地は、息を呑むほど静かだった。
星も月も薄雲の向こうに隠れ、空は深い墨色に沈んでいる。
ミレイは砦の外れに腰を下ろし、膝の上で古い鉄槍を抱きしめていた。
その表情には何の感情も浮かんでいない。ただ、風が頬をなぞるたび、髪がわずかに揺れた。
目を伏せた先、握った槍の冷たさがじわじわと指先に染み込んでくる。
もう錆びかけたそれは、かつて自分が使っていたもの。
「リーナ……」
声はかすれ、夜に溶けていく。
そしてふいに、心の奥に光のように差し込んでくる記憶があった。
――焚き火の明かりに照らされた小さな顔。
『また会おうね!』と笑ったあの夜。
泣きそうな目を必死にごまかしながら、『私も強くなったら……ミレイを追いかけてもいい?』と、両手でこの槍をぎゅっと抱きしめていた姿。
その時、自分は何と答えたっけ? 『うん、待ってる』と、たしかにそう言った気がする。あの子はそれを信じて、ここまで来たのだろう。
思い出すのは、小さな手。
自分の手を取って、『ありがとう』と微笑んだ、あの時の温もり。
助けたはずだった。
守ったはずだった。
けれど、きっと足りなかった。
「……間に合わなかったのかな」
ミレイはぽつりと呟いた。
もしあの時、もっと早くここへ来ていたら。
もしあの時、違う道を選んでいたら。
そんな『もしも』は、何度繰り返しても現実を変えてはくれない。
わかってる。何度だってわかってる。
けれど、何もできなかった自分を、許せなかった。
そして何より、もう一度あの子に会えるかもしれないという希望に、縋りたくなっている自分が、何よりも怖かった。
あの時の自分は、誰かのために泣ける人間だった。
今の私は、どうだろう。
槍を強く抱きしめた。
それが、たったひとつの手がかりだから。
それが、まだ生きている証だと思いたかったから。
ふと、まぶたの奥がじんわりと熱を帯びた気がして、自然と手が目元へと伸びた。 けれど、そこには何もなかった。 涙は流れない。 それを不思議とも思わなかった。 それが涙の予感だったことにも、もう気づけなかった。
焦り。苛立ち。冷たい怒り。
それだけが、はっきりとそこにあった。
誰に? 世界に? 自分に? それすらもう、どうでもよくなりつつある。
感情はとっくにこぼれ落ちて、代わりに残ったのは静かな衝動だった。
次は、同じ後悔を繰り返さない。ただそれだけ。
それが、正しさかどうかなんて、もう関係ない。
それでも。
「もし、また会えたら──」
その先の言葉は、もう声にならなかった。
胸の奥に残っていたはずの感情は、まるで空洞のように沈黙していた。
ミレイは立ち上がった。
ミレイの影が、夜の風と共に、砦の外壁に溶けていった。
◇◇◇
朝が来た。
砦の上に広がる空は、まだ曇っていたが、夜の重みは少しずつ退いていく。
焚き火の跡には白い灰が残り、瓦礫に落ちた霜が静かに溶けはじめていた。
ミレイはすでに戻っていた。
特に何を言うでもなく、無言で装備を整える。
古びた鉄槍は荷物の隣に無造作に置かれていたが、彼女の視線は一度も向かなかった。
「……大丈夫?」
リヴィアが控えめに問いかけた。
ミレイは一瞬だけこちらを見たが、頷きも否定もせず、ただ「行こう」と短く言って歩き出す。
その背中に、どこか切れ味の鋭さがあった。
まるで、誰にも触れさせない刃のような孤独。
バルドはそれを見て、何も言わなかった。ただ、少し遅れて歩き出す。
「砦の奥、まだ調べてない区画がある。……あの子の痕跡があるかもしれない」
ミレイの声は静かだった。
けれど、その静けさの底に、焦りにも似た熱が微かに滲んでいた。
彼女たちは黙って頷き、廃墟と化した通路を進んでいく。
崩れかけた階段を下りた先、地下倉庫と思しき空間が広がっていた。
かすかな呪詛の痕跡。焼け焦げた床。だがその中央に、ぽつんと残されたものがあった。
それは、小さな靴の片方だった。子どものものにしては古びすぎているが、見覚えがあった。
そしてそのすぐそば、壁の影に隠れるようにして、紙切れが落ちていた。
リヴィアが拾い上げる。震えるような文字で、そこには短くこう書かれていた。
『ミレイへ』
その下の行は滲んでいて読めない。けれど、確かに誰かがここにいた。
「……これ、ミレイって……あなたのこと?」」
リヴィアは言いかけて、紙とミレイの顔を交互に見た。だが、ミレイは何も答えなかった。
そのまま彼女は、書きかけの紙を見つめ続けていた。
読めない文字の下に、何が綴られていたのか——その問いが頭の中で何度も渦を巻く。
声を出せば、何かが崩れてしまいそうだった。
拳を握る音が、静かな空間にかすかに響いた。
その音を聞いたリヴィアは、何かを言いかけて言葉を呑み込む。
バルドがふと、ミレイの横顔に視線を落とした。
沈黙の中で、彼女たちはようやく理解し始めていた。
この砦に足を踏み入れてから、ミレイが何に囚われ始めたのか。
何に焦り、何を探していたのか。
でも、彼女の背中は何も語らない。
ただ前を向いている。それが、かえって残酷なほどに雄弁だった。




