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第十一章 〜変質〜 4

 雪の中に沈むように、砦が静かに佇んでいた。

 白く凍りついた世界に、灰色の石造りが溶け込むように存在している。砦の壁には雪が貼り付き、風に運ばれた氷の粒がカラカラと小さな音を立てている。かつて国境を守る防衛拠点だったその場所も、今はまるで時間が止まったかのように、音ひとつしない。


 「……ここが例の砦か」

 バルドが酒瓶を腰にぶら下げたまま、黒ずんだ石壁を見上げる。灰色の空の下、その顔には曇天のような影が落ちていた。風が止み、雪の舞もぴたりとやむ。奇妙な静けさが、逆に周囲の空気を重たくさせていた。


 「人の気配がなさすぎるわね。死体も、何も……妙ね」

 リヴィアが剣の柄に手を添え、足元に広がる雪の上を警戒するように睨んだ。冷え切った空気の中、彼女の吐息が白く揺れる。


 「噂通りってわけか。戦場の跡があるのに、誰の痕跡も残ってない」

 バルドが低く呟いた声は、まるで霧に吸い込まれるように砦の中へ消えていく。


 ミレイは何も言わず、黙って砦の門へと歩を進める。踏み固められた雪に、微かに残された靴跡があった。もう古びてはいるが、風雪で完全に消えきってはいない。


 門は半開きだった。

 ギィ……という鈍く軋む音が、無人の砦に響き渡る。扉の隙間から冷たい空気が漏れ、まるで中から何かがこちらを覗いているかのような錯覚を覚える。


 三人は足を踏み入れた。内部は瓦礫と焦げ跡にまみれていた。崩れた天井からはわずかに光が差し込んでいるが、薄暗く、湿った空気と焦げた匂いが鼻を突く。


 だが、それだけでは終わらなかった。

 ──呪詛の気配。


 ミレイの肌に、ひやりとした冷気が触れた。まるで風ではない、何か意思を持つ冷たさが肌の奥へと忍び込む。


 「ここ、黒い者が出た痕がある」

 ミレイが低く呟いた。言葉とともに吐いた息が、異様に長く漂った。


 奥へ進むと、半ば崩れた物資庫の隅に、古びた布が被せられた木箱がひとつ、ぽつんと置かれていた。周囲の瓦礫とは違い、その場所だけが不自然に整っている。


 バルドが無言でその布をめくった。


 中には、手入れの行き届いていない鉄製の槍。そして、見覚えのある薬草の束。湿気と時間がにじむ匂いが、鼻をかすめる。


 ミレイは近づき、槍に手をかける。その手が止まった。


 「……これ」


 柄の部分に、自分でつけた微かな傷があった。何気なくつけた記憶が、鮮やかに蘇る。


 「私の、昔の槍……落としたはずの、あれ」


 隣に添えられた布袋を開けると、乾きかけた薬草と包帯が詰められていた。保存状態は悪くない。最近まで、誰かが使っていた証。


 ——まさか。


 ミレイの脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。リーナ。

 彼女がこれを拾い、大事にしていた。そして、ここまで運び込んだ可能性。


 ミレイの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。その手にある槍が、今は冷たく重たい。


 その時だった。


 空間が揺れ、奥から黒い瘴気が吹き出すように溢れた。砦全体が呻くような低い音を響かせる。


 「来るぞ!」

 バルドが即座に前に出た。背中から立ち上る気配が、空気を裂く。


 瘴気の中から、布を巻いた両目と黒衣を纏った男が現れる。肌は血の気を失ったように青白く、声はどこか機械的な抑揚を持っていた。


  「おや、これはこれはバルド・フォルティス。……また会う日が来るとは」


 その声を聞いた瞬間、バルドの全身から、ふっと力が抜けたような空気が漏れた。


 「……っ、アイザック……?」


 低く絞り出すような声。

 顔がわずかに強張る。手元の酒瓶がカチリと音を立て、革の紐の揺れが静寂に溶けた。


 「お前……死んだはずじゃ……いや、確かに……俺が……」


 口元が歪む。過去の情景が、頭の奥にフラッシュのように蘇る。炎に包まれた施設、崩れ落ちる壁、そしてあの日、自らの手で「止めた」はずの男の姿——。


 「死にかけただけだよ。君の判断のおかげでね」


 アイザックの声音はどこか愉悦すら含み、旧友に語りかけるにはあまりにも冷たい。


 空気が急激に冷え込んだような錯覚。砦の中にひしめく瘴気が、過去と現在を繋ぎ止めるように重くのしかかる。


 ミレイとリヴィアが一歩構えるが、バルドだけが、一歩前に出た。


 表情はすでに平静を取り戻していた。しかしその目だけは、かつての記憶と現在の光景を重ね、深く、重く、見据えていた。


 「……こいつは、元・同僚だ。俺が……かつて止めた。いや、止めきれなかった男だ」


 アイザックは静かに手を掲げた。指先は微かに震えているように見えたが、それが喜びによるものか、あるいは別の感情なのかは分からない。


 「嬉しいね、まだ同僚だと言ってくれるんだな、君は」


 その言葉に、バルドの目がわずかに揺れた。


 「……戯言を」

 低く、絞り出すように。

 「生きていたのなら、もう一度、殺すまでだ」

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