プロローグ 〜終わらない一日〜
◇◇◇
「そろそろ、私のターンね?」
血のように赤い唇に、狂気をはらんだ笑みを浮かべながらそう言った。
その瞬間——全身の肌が粟立つ。
瘴気が肌にまとわりつき、血生臭い空気がまるで喉を塞ぐかのように重たく感じる。呼吸さえ浅くなり、心臓が高鳴る。
“嫌な予感” なんて生易しいものじゃない。
“ここにいたら、殺される”
脳裏に、鋭く冷たい感覚が突き刺さる。
考えるより先に、ミレイの体は本能的に右へ跳んだ。
だが——
「ふふっ、引っかかった」
(……え?)
足元に広がった“何か”に、ミレイの動きが絡め取られた。まるで無数の細い鎖がまとわりつくような感触。ぬめった土の匂いが鼻を突き、足が泥に沈むかのように重くなる。
——逃げ道が罠だった。
うるさいくらいに警鐘が鳴り響く。
脳裏に、冷たい記憶がよぎる。
あの時——何度も“死に続けた” あのループの悪夢。
「どうしたの?」
声色は甘やかでありながら、人を壊しにくる狂気が滲んでいる。
……私は、また死ぬのか。
——あの時みたいに。
◇◇◇
——それは、終わらない一日だった。
目覚まし時計の電子音が響く。
ぼんやりとした意識の中で、美玲は目を開けた。視界に映るのは見慣れた天井。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋を淡いオレンジ色に染めている。
起き上がり、時計を見る。
6:30
今日もまた、同じ時間に目覚める。布団から足を出し、冷たい床に触れた感触は変わらない。着替え、洗面所に向かい、鏡を覗き込む。そこには、どこか覇気のない女子高生が映っていた。
歯を磨き、顔を洗い、制服に袖を通す。
台所からは母親の軽やかな足音と、包丁がまな板を打つ音が響く。トーストの焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「おはよう、美玲。朝ごはん、ちゃんと食べてね」
「うん……ありがとう」
ぎこちない笑顔で返事をする。食卓にはいつもと変わらぬ朝食が並んでいた。
——変わらない。
朝食を済ませ、家を出る。学校へと続く道を歩く。晴れ渡る空。すれ違う学生たちの会話。信号待ちの時間。校門をくぐり、教室へ向かう足取り。
教室にはすでに何人かのクラスメイトがいて、雑談を交わしていた。
「美玲、おはよー!」
「おはよう……」
違和感なく繰り返される日常。
授業を受け、ノートを取り、昼休みには友人とくだらない話をして笑い合う。
放課後、コンビニに寄り道し、ファミレスへ向かう。友人と過ごす楽しい時間。笑い声。スマートフォンの通知音。注文したドリンクバーの炭酸が弾ける音。
そして、帰り道——。
雨が降る。
街灯に照らされた濡れたアスファルトが、無数の光を反射する。遠くで車のクラクションが響く。靴の裏が濡れた歩道を打ち、微かな水音を立てる。
そして——
事故が起こる。
視界が歪む。耳鳴りがする。全身が浮遊する感覚。痛み——肺が圧迫される。雨の冷たさが肌に残る。
意識が遠のく。
——そして、目が覚める。
6:30
目覚まし時計の電子音が響く。
ぼんやりとした意識の中で、美玲は目を開けた。
——まただ。
何度も繰り返す。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
死の感触に慣れてしまうほどに。
ある日は、意図的に流れを変えようとした。友人と話す言葉を変え、行動を変え、違う道を通ってみた。だが、結果は変わらない。
——死ぬ。
ある日は、反抗して何もしなかった。ただベッドの上で横たわり、時間が過ぎるのを待った。それでも、夜が来て、やはり死んだ。
ある日は、走ってみた。走り続け、できるだけ遠くへ行こうとした。だけど、最後にはやはり——
轢かれる。
ある日は、誰かに助けを求めた。先生に話し、家族に泣きつき、友人に打ち明けた。
でも、誰も美玲の言葉を信じなかった。
「何言ってるの? 冗談でしょ?」
「そんなバカな話あるわけないじゃん」
「疲れてるんじゃない?」
そして、その夜もまた、死んだ。
どんな方法を試しても、その瞬間からは逃れられなかった。
繰り返し。
繰り返し。
繰り返し。
時間の牢獄。
母の「おはよう、美玲」。
友人の「おはよー!」
ファミレスの「ドリンクバー無料キャンペーン中です!」
雨の音。
クラクションの響き。
——そして、視界が暗転する。
何千回と同じ一日を過ごし、何百回と死に直面し、何十回と"普通の心"を壊した。
やがて、美玲は感情すら捨てた。
意味のない会話。
無意味な授業。
退屈な笑い。
そして、訪れる死。
心が悲鳴をあげることもなくなった。
何かを期待することも、抗うことも、涙を流すことすらなくなった。
ただ、その時を待つだけの存在。
しかし——終わらないはずの輪廻は、ある日、突然終わる。
目覚めた先は、見たこともない世界だった。