2-1.動き出す悪意
─── 春斗の特許証取得から6ヶ月。
季節は移ろい厳しい寒さから雪解けを経て、曇天の続き始めた頃。
真っ白な“それ”は住宅街をひた走る。
湿度の増した纏わりつく空気を切り裂きながら、時に塀の上や細い路地を縦横無尽に駆け抜け逃げ続ける。
どれほど逃げ回っただろうか。
一直線の路地裏に辿り着いた時、追っ手の気配を感じなくなった“それ”は、ゆっくりと足を緩めて立ち止まる。
そして警戒する様に耳をそばだたぜ周囲をキョロキョロと見回した。
───その時だ。
“それ”の瞳に真紅の閃光が映ったと思えば、瞬く間に体の自由を奪われ、気付けば身体は宙に浮いていた。
いや、“抱き上げられていた”。
「ニャァアーーッ!!」
「コラっ! 暴れんなってっ! 」
艶やかな真っ白い体毛に身を包んだ“それ”は、まだ年若い“白猫”。
飼われていた生家を飛び出し、生まれて初めての冒険に繰り出したその結末は、飼い主によって雇われた刺客───即ち依頼を受けた春斗にあえなく捉えられるというものだった。
「おうおうご苦労さん……ったく散々逃げ回りおってからにコイツは」
暴れる白猫を優しく、しかし逃がさないように抑える春斗に声をかけたのは、ボサボサの黒髪を後ろに結い上げた男。
「いいからっ! 早くっ! ケージ持って来いって!」
顔に掻き傷を付けられながら耐えている春斗にボサボサ髪の男─獅郎は、ニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべていた。
「なんや、エラい男前になったやんけ」
「言ってる場合かっ! 」
「なんやねん、褒めたってんのに。オモんな。つーか俺がここまで追い詰めたってんねやから、礼の一つもやな……」
「分かったっ! 分かったからとりあえずケージくれっ!」
半笑いでからかいながら腕を組んでいる獅郎に、抑えるのも限界に近い春斗は悲鳴にも似た声で催促する。
「しゃーないのぉ、ホンにお前は……」
何故か渋々足元のケージの蓋を開けて春斗に近付くと、春斗は安堵した様子で白猫をケージへそっと納める。
「ふぅ。依頼完了っと」
小さく息をつきながら呟くと、着ていたシャツから無数に生える真っ白い毛を払い除ける。
特許証取得から半年。春斗は今回のような迷い猫の捜索から暴走行為を行う超能力者への対応まで様々な事案を経験した。
特に最近多い事案が───
「ん? ……ああ、またこれか」
風に飛ばされて春斗の足に絡まった1枚のビラを拾い上げ呟く。
ビラは真っ黒に塗りつぶされ、黒の上に浮かび上がるような真っ赤な文字で、
『目を覚ませッ! 解放せよッ!』
と用紙をはみ出しそうな勢いで書かれていた。
その胸の奥がザワつく様な何処か嫌悪感を抱くビラは、一見すると悪戯か何かの冗談のようだが、ここ1、2ヶ月で繁華街はもちろん住宅街の裏路地にまで貼り出されている。
なんの意味があり、誰に宛てた物なのか当初は不明だったが、このビラが撒かれ始めた頃と同時期に、春斗の住まうこの街以外にも各所で同様のビラが撒かれ、それに比例して超能力者の暴走行為や傷害事件が急増した。
春斗達も最近度々その犯人達と相対しているが皆一様に、一切の例外なく『神の福音を受け入れよ! 我々は選ばれし先駆者なのだ!』と意味不明な妄言を吐き、確保された後もそれ以外のことは一切発言しない、という話だ。
関係者であれば嫌でも因果関係を疑うが、“ビラ”と“暴走行為”を結び付ける証拠は今のところなく、結果的に後手に回っているのが現状だった。
「なんなんだろうな、このビラ」
薄気味悪いビラを眺めながら春斗がポツリと口にすると、獅郎は呆れたような表情で口を開く。
「あ? そないなもん、決まっとるやろ」
確信めいたことを言う獅郎に眉をひそめ、訝しんだ様子で視線を向ける春斗。
「……なんだってんだよ? 」
「頭のイカれた愉快犯や。この紙切れ見たやつが気味悪がるんを影から見て楽しんどんねん」
「……はぁ」
自信満々で胸を張って答えた獅郎に、春斗は小さくため息を着いた後ビラをクシャクシャに丸めてポケットに突っ込み、冷ややかな視線を贈る。
「……ンなこったろうと思ったよ」
「なんやねんお前ッ! お前が聞いたんやろがッ!」
春斗の反応が気に食わなかった獅郎はボサボサの髪を振り乱して吠えるが、春斗は涼しい顔で獅郎の見解に一言。
「全国一斉にビラを配れるって、随分組織的な愉快犯なんだな。俺も詳しかないけど、大概愉快犯って単独なんじゃねぇの?」
「ぐぬっ……それはお前……」
「ビラをばら撒いてビビらせるだけなら別に1箇所でいいだろ。つか一斉に撒いて反応を楽しむ集団てなんだよ、怖ぇよ。ホントに愉快犯集団だったら大成功だよ」
「ぐぬぬ……お前ッ! 生意気やぞッ!」
的確に執拗な指摘を受けて返す言葉をなくした獅郎は、最早本筋と全く関係ない言葉を返すしか出来なくなって喚き散らす。
「はいはい悪かったよ。獅郎にこの手の話題は向かなかったな。ほら、さっさとこの子を連れて帰ろうぜ」
何故か年下の春斗が先輩の獅郎を宥めながら足元のケージを持って路地の出口へ向かって歩き出す。
「待てやゴラッ! なにお前が仕切っとん……」
先を行く春斗に怒鳴りつけようとした言葉を止めて、獅郎は唐突に振り返った。
進行方向とは逆側の出口を、腹の底から凍える様な冷たい双眸で睨む。
その冷気を感じそうな程凍てついた表情は、先程まで春斗と戯れていた者と同一人物とは思えぬ程鋭く、殺気立っていた。
言葉が途切れ、獅郎の気配が変わったことを感じた春斗も素早く振り返り、持っていたケージを端に寄せて臨戦態勢をとる。
が、視線の先に異常が起こることは無く、厚い雲から零れる薄日が照らすのみだった。
「……何かあったか? 」
「……いや、なんでもあらへん」
変化のない空間に春斗が声をかけると、獅郎は目を少し細めて短く答える。
「そら、行くで。さっさとこの猫渡して飯にしようや」
「お、おう……」
何事も無かったかのようにいつもの調子に戻ってそう言って歩き始めた獅郎に、若干戸惑いつつもケージを持ち直して春斗も先を進んだ。
路地を抜ける前に獅郎はもう一度振り返り、切っ先のような眼光を向ける。
変わらず少し埃っぽい薄暗がりが続くだけの道を確認すると、今度こそ振り返ることなく歩き始めた。
─── やがて垂れ下がった雨雲は決壊し、大きな雨粒が大地を濡らし始める。
雨粒は春斗と獅郎の見つめていたその先に“人影”をぼんやりと浮き上がらせた。
『なんとも、油断できぬ方ですね』
人影は性別も窺えぬくぐもった声を漏らした。
******
─── 時同じ頃。
宮代相談事務所の応接室にパチリッ、と乾いた音が響いた。
ガラステーブルを挟んで2人の男が対峙する。
片や、黒髪を襟足で束ねた青いベストを着た優男。
片や、ロマンスグレーの髪をオールバックに撫で付けた、草臥れたワイシャツに赤いネクタイを緩めて付けた初老の男。
両者真剣な面持ちで見つめるのは、テーブルの中央に置かれた将棋盤。
盤面は佳境。状況は五分五分。
初老の男は腕捲りをして組んでいた腕を解くと、盤上へ手を伸ばす。
「これで、どうだっ!」
ロマンスグレーの男─和戸が駒を一手動かす。
その一手に黒髪の優男─翔馬は少し唸ると顎に手を添えて考え込む。
和戸が得意げな笑みで腕を組み直していると、翔馬は盤上の駒へ手を伸ばし口を開く。
「……そういえば、捜査の方はどうです? 何か進展はありました?」
言いながら駒を動かす翔馬。
「ん? さぁな。窓際部署の俺が知るわけねぇだろ?」
和戸も一手動かして言葉を返す。
「またまた、和戸さんがこの手の話を無視するわけないじゃないですか……でしょ?」
駒を動かし、盤上に落としていた視線を下がった黒髪の隙間から覗かせる。
確信めいた翔馬の視線に和戸は小さくため息をついた。
「はぁ……分かった分かった。話してやるよ。つっても本当に大した収穫はまだないんだよ……一連の超能力者による暴走行為と例の“ビラ”。当初の予想通り、繋がりがあった」
和戸は諦めたように話し始め、そこで一度コップの麦茶を口に含む。
翔馬は静かに言葉の続きを待った。
「……どうやらあのビラに書かれた文字そのものが、何者かの超能力みたいでな。あの文字を見た不特定多数の人間が、一斉に暴れ始めたみたいだ」
「文字による集団催眠、でしょうか? 」
「さぁな。だが、“催眠”と言うよりは“洗脳”の方が正しいかもしれん。捕まえた奴らの様子を見るに暴走行為自体、操られてと言うよりは自分の意思で行っていたように見える……まぁ、俺の勘だがな」
「洗脳……ですか」
和戸の言葉に小さく呟くと顎に手を当てて考え込んだ様に俯く。
「ほれ、お前の番だぞ」
「え? あぁ、すいません」
完全に自分の世界に入り込み思考していた翔馬に、和戸は呆れた表情で声をかけた。
翔馬は苦笑を浮かべながら駒を動かす。
「ったく……“洗脳”を使う超能力者に思い当たることでもあったか? 」
「いえ、そういう訳じゃ……ただあのビラを見た人間はもっと沢山いるのに、それこそ僕や事務所の皆も目にしているのに、どうして平気だったんだろうって」
「うぅん……そう言われるとな……何か共通点があるのか? 」
翔馬の言葉に引き摺られ、和戸も思考を巡らせながら小さく唸り駒を動かす。
と、そこで、
「あ、王手です」
完全に思考の外で駒を動かしていた和戸の一手を見逃さず、翔馬はあっけらかんとした調子で言いながら最後の一手を差した。
「あっ! お前、汚ぇぞッ!」
「いやいや、盤外戦術は和戸さんの教えですよ」
前のめりになり目を剥いた和戸に、翔馬はそう言いながら可笑しそうに笑っていた。
******
─── 夜の帳が降り、垂れ下がるように広がった曇天は、見た目にその重さを増している。
郊外の森の中に聳える異質な高層ビルへ、大きな雨粒が激しく打ち付けていた。
“高松製薬会社”の看板を掲げるそのビルの一室。
“社長室”と書かれた部屋の前に立つ白衣の男は、その部屋の扉をゆっくりとノックした。
「……入れ」
「失礼します」
中から聞こえた低い声に返答する様に重厚な雰囲気の扉に向かって挨拶すると、扉を開き白衣の男は頭を下げる。
そして肩に垂れる毛先の辺りで束ねた薄黄緑色の長髪を背後に戻しながら、ゆっくりと頭を上げて入室した。
一面に赤い絨毯を敷き、社長室と呼ぶに相応しい豪奢な造りの部屋。
その奥に鎮座する高級感漂う机と、黒革の椅子に座る白髪の男。
白髪を撫で付けた恰幅のいいこの男こそ、この部屋の主。世界シェア上位の製薬会社の社長。
名を高松 銀仁朗。
「……それで、進捗は? 」
「……? 研究の報告でしたら報告書を挙げたはずですが……」
「そっちの話ではないッ! 分かっとるだろうがッ!」
首を傾げて答えた白衣の男の返答に、銀仁朗は机を強く叩くながら立ち上がる。
今にも掴みかかりそうな剣幕で怒鳴り声をあげた銀仁朗だったが、白衣の男は飄々とした様子で、あぁ、と思い出したように呟いた。
「“彼女”の話ですか。現在の足取りは未だ掴めておらず……」
「何を悠長な事を言っておるのかねッ!! 灰原君、君は事の重大さを……」
「分かっておりますとも。“彼女”の存在が……いえ、“彼女を我社が囲っていた”などと明るみに出れば……」
「声を落とせ馬鹿者ッ! 」
白衣の男─灰原の言葉を遮るように声を荒らげた銀仁朗に、灰原は肩を竦めて苦笑する。
「ともあれ、現在も最優先で捜索しております」
「はぁ……分かった、もういい。それから、この前の報告書の件だが……」
銀仁朗は諦念の溜息とともに椅子に深く座り直し話題を変える。
「“F.B”のことですか? 」
「それだ、“フェイク・ボックス”。率直に聞くが、君は私の目的を理解しているのかね? 」
苛立たしげに眉間に皺を寄せてそう言った銀仁朗へ、灰原は右手を胸に当て恭しく頭を下げる。
「もちろんです。“この世全ての超能力という病を根絶する”。私の研究も、一重に社長の目指す到達点への一助に過ぎません」
「ならば何故“超能力を授ける”薬など作った。まるで真逆の物じゃないか」
今回は怒鳴ることなく、しかし不機嫌を隠すことも無く、指で机を規則的に叩きながら銀仁朗がそう言うと、灰原は貼り付いたような笑みを浮かべ、
「あくまで研究段階のものです。““どうやって発生するのか”を完全に把握し、その根から根絶するための研究過程に過ぎません……それに……」
そこで灰原は言葉を切り、貼り付いた笑みに僅かな悪意を滲ませる。
「この薬は“超能力を授ける”だけでなく、その力を“増幅”させる効果もあります。まぁ超能力者にせよ常人せよ、使用すると過剰発現を起こしてしまうのですが」
「だ、だからどうしたのかね? それでは本末転倒だろう」
一抹の冷たさに気圧され失速しつつも、体裁を取り繕う銀仁朗。
その言葉に灰原は、クス、と笑いを零すと、まるで関連のない話を始めた。
「そういえば社長、最近のニュースはご覧になっていますか? なんでも巷では超能力者の暴走行為が頻発しているとか。怖いですねぇ」
「き、君は何を……」
「“もしその暴徒達が一斉に過剰発現でも起こしたら”、世間では超能力者への風当たりは強くなってしまうかもしれませんね」
そう言って笑う灰原の言葉に銀仁朗は何かを察し、みるみる顔色を青くしていった。
暗に“一連の騒動と関わりがある”と仄めかす部下に、目眩を覚える程に血の気が引いていく。
「貴様……まさか……」
「シーッ……社長、これ以上は止めましょう。何事も“次善の策というものが必要”と言うだけの話です」
人差し指を口に当ててそう言う灰原に完全に呑まれた銀仁朗は、怒りすら湧き上がらず小さく首を振った。
「分かった、これ以上は聞かん。貴様が勝手にやった事だ。私は一切関与していない」
「それがよろしいかと。社長はこのまま、御自身の目標にだけ目を向けていて頂ければと」
「ふぅ……分かっておる。下がりなさい」
「失礼致します」
深いため息と共に椅子に沈み込む銀仁朗へ、灰原はもう一度恭しく頭を下げ社長室を後にする。
優雅な足取りで部屋を出た灰原を見送り、銀仁朗は再びため息をつくと、忌々しげにその重厚な扉を睨んだ。
「フンッ……研究狂いめ」
******
───社長室を出た後、灰原は自らの研究室へと戻りスマートフォンを取り出すと、徐ろにどこかへ電話をかけ始めた。
「……あぁ、もしもし。私です」
『……何か?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、機械で加工された声。
高い音と低い音が同時に聞こえるその響きは明らかに異質だが、灰原は気にする素振りもなく話続ける。
「言質を取りましたよ。ウチのボスは今回の件に一切関係しない、と」
『それは重畳。ならば……』
「ですが、よろしいので? 信徒さん達の安全は保証できないですが」
『我らは神より選ばれし人類の先駆者。如何なる結果となろうと未来の人類の為、その礎となる覚悟です』
電話の向こうの“誰か”がそう言うと、灰原は肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「私としてはデータが取れるのであれば問題ありませんが……少し心苦しいですね」
『全ては全人類を超能力者へ導く為です』
「……そうですか。悲願成就のための必要な犠牲、という事ですね」
『えぇ。それから、我らが“聖母”の件ですが、奪還の目処が立ちました』
電話口の声が話題を変えると、灰原は口元に薄い笑みを浮かべた。
その笑みには、何処か嘲笑の色が窺える。
「それはそれは、まさに吉報ですね。どういった内容で? 」
『詳細はまたいずれ……しかし、これはまさに神の与えたもうた天啓に他なりません。つきましては、祖師より予定を幾許か早めると』
「では、受け渡しも……」
『早まることになるでしょう』
その言葉に灰原は満足気に口元を歪め、目を細めて笑みを浮かべた。
「分かりました。予定数は何とか揃えましょう」
『助かります。では、予定日は追って連絡します』
「はい、それでは」
そう言って灰原は電話を切ると、スマートフォンを机に放り椅子に深々と腰を沈めて天井を仰いだ。
「そうですね。必要な犠牲ですよ……貴方達は。フフッ……」
誰もいない虚空へと言葉を投げ、灰原はまた笑みを浮かべた。
先程までの貼り付いた笑みでも、満足気な笑みでもない。
───それは全てを見透かし、見下す様な嘲りを孕んだ、何処までも冷淡で邪悪な笑みであった。