『プレスマンぞろぞろ』
それほど大きくないお稲荷さんの前に、一軒のプレスマン屋がありました。
プレスマン屋を知らない?
八百屋は何を売るお店ですか?そうです、野菜と果物です。
野菜を売らない八百屋は?そうです、果物屋です。
じゃ、鉛筆も消しゴムも万年筆もボールペンもノートも、普通のシャープペンシルも売らない文房具屋は?そうです、プレスマン屋です。…そのくらい知っておかないと。
こほん。
一軒のプレスマン屋さんがありました。
おじいさんとおばあさんが、長年営んできたお店でしたが、繁盛したことはありませんでした。
なぜって、まあ、プレスマン屋ですから。ニッチですから。一回買うと、壊れませんから。ま、平たく言えば、売れないんです。小さいお稲荷さんですしね。参拝客も少ないですし。普通、参拝のついでにプレスマン買わないですし。
でも、売れないっていうこともないんです。なぜって、プレスマン屋ですから。ニッチですから。生活必需品ですから。
そんな感じで、おじいさんとおばあさんが暮らしていける程度のお店でした。
おじいさんとおばあさんは、そろそろ、プレスマン屋を畳もうと思っていました。もう、歳です。あとは、わずかな蓄えをすり減らしながら、細々と暮らしていこうと思ったのです。
心残りがあると言えば、売れ残りが気になるのです。一本だけ、プレスマン。実は、この最後の一本が、半年くらい売れていないのです。
…うん。売れないってこともないって言った。でも、ほら、それは主観だから。個人の感想だから。おじいさんとおばあさんだから。時間の感覚違うから。
おじいさんとおばあさんは、お稲荷さんにお祈りしました。お稲荷さん、最後の一本が売れてから、店じまいとしたいのです。最後の日のきょう、お客様が来てくださいますように。何なら、お稲荷さま御自身でもいいです。
結構大きなことをお願いしていますが、お稲荷さんには、感じるところがあったのかもしれません。
この日は雨でした。ざあっと、音のする雨で、あちこちに水たまりができました。
昼下がり、一人の男がプレスマン屋を訪れました。というか、飛び込んできました。おうっ、すまねえ、ぷ、プレスマンをくんなっ。この雨で…、ここにプレスマン屋があって助かった。
この雨とプレスマンとの関係はともかく、最後の一本が無事売れました。これぞお稲荷さんの御利益。ありがたや。
おじいさん、よかったですねぇ。ああ、おばあさ…。
そのときです、最後の客の次の客がやってきました。プレスマンをくんな。
申しわけありません、今しがた、最後の一本が売り切れまして…。
おう、変なこと言うねぇ、そこにぶら下がってぇるじゃねぇか。
お客が指差したほうを見やりますと、天井からプレスマンが、一本ぶら下がっているのです。おじいさんは不思議がりながらも、そのプレスマンを、お客様に差し上げました。
おばあさん、あんなところにもう一本あったかのお。そうですねえ、さっきの感動が台なしですねぇ。おじいさんとおばあさんは、店をぐるっと見渡します。右よし、左よし、完璧です。もう、一本もありません。
改めまして。
おじいさん、よかったですねぇ。ああ、おばあ…。
何でしょう、この日は。また一人、お客が来たのです。
いやあ、ひどい雨だ。すまないが、プレスマンをおくれ。申しわけありません。つい今しがた、売り切れてしまいまして。おやすまない、御先約でもおありかな。いえ、本当に売り切れで。そうかい、そこに吊ってあるから、売り物かと。
おじいさんが振り返りますと、さっきと同じところにプレスマンがぶら下がっています。いや、さっき、指差し確認しました。絶対にありませんでした。でも、あるので、お客に差し上げました。
おばあさん…。ええ、おじいさん…。少し怖くなってきました。あるはずのものがないというのは、盗まれたと思えば、まあ、理解できます。でも、ないはずのものがあるというのは、どう考えればいいのでしょう。
おじいさんとおばあさんは、今度こそ、総力を挙げて、店内を捜索しました。いや、まあ、何度か、ぐるっと見渡したという程度ですが。でも、今度こそ間違いなく売り切れです。
おじいさん、よかったですねぇ。ああ、おば…。
またです。またお客です。いいかげんにしてほしいです。なぜ、きょうに限って、こんなに次々と客が来るのでしょう。なぜ、もっと、平均的に来てくれないのでしょう。平均的にまんべんなく来てくれれば、店じまいにしようなどと考えなくてよかったのに。
すいません、プレスマンを。この雨でお父っつあんが…。泣き崩れる娘。この雨でお父っつあんがどうしたというのでしょう。どうかしちゃったお父っつあんを、プレスマンでどうしようというのでしょう。あ、そんなこと言っている場合じゃないや。
お嬢さん、すまないことだが、プレスマンは売り切れでな。嫌だわおじいさん、そこに吊ってあるじゃないの。まさか…。おじいさんがゆっくり振り返りますと…、そこにはまた一本のプレスマンがぶら下がっているのです。絶っっっ対に、さっきはありませんでした。指差し確認も何回もしました。なのに…今はあるのです。
娘さんに売ってやりましたとも。プレスマンを渡すついでに、手を握りました。も、もちろん、奇怪な出来事があって、ちょっと怖かったからです。それ以外の目的なんて、思いつきもしません。娘は、するっと手を抜いて、店を出ていきました。
おじいさん、私は見ていました。あ、すまん、つい出来心で…。何のことです?お、あ…、何を見ていたのだ?ないはずのプレスマンがどうやってあらわれるのかを、です。ああ、そっちか。そっちってどっちです。いや、何でもない。娘さんの手を握ったことですか?すまん、やっぱり見ていたのか。見ていませんでしたけど、いつものことじゃないですか。そ、そうかな。黙れ、人の話を聞け。はい、すいません。プレスマンは、もやもやっとあらわれたのです。じゃ、やっぱり、ないはずのものがあらわれたのだね。ええ、気が狂ったのではないようです。これは、お稲荷さんの御利益だね。ええ、そうでしょうとも。
そんなこんなで、プレスマン屋は、プレスマン屋をナニするのをアレして、幸せに暮らしましたとさ。
ところで。おじいさんが、天井からぶら下がっているプレスマンを引っ張ってみたところ、ぞろぞろとプレスマンが連なって出てきたので、赤プレスマンだけを選って、四本組み合わせて鳥居の形をつくり、お稲荷さんに寄進しました。
教訓:お稲荷さんの鳥居が赤いのは、そこから始まったとか、全然違うとか。