あちらのお客様からです
とあるバーで、マスターから「あちらのお客様からです」と、他人から一杯の酒を奢られる。
そんなのはフィクションの中だけだろう。
……そう、思っていた。
けど、私は体験してしまった。「あちらのお客様からです」を。
「あちらのお客様からです」
カウンターテーブルを滑べり、私の目の前で中身が零れる事無く、静かに、正確に止まる。正直、この技術は凄いと思った。……凄いと思ったけど、同時に何で? と疑問も生じた。
何せ、ここはバーではない。ラーメン屋なのだ。そしてテーブルを滑らせて私の眼の前で止まったのもグラスに入ったウォッカなどではない。ラーメンだ。
ラーメン屋だから当然と言えば当然なのだが、 何故人生初の「あちらのお客様からです」が小洒落たバーではなく、ラーメン屋なのだろうか?
しかもこのラーメン。普通のラーメンではないのだ。超特盛、この店の大食いチャレンジ用のラーメン――チョモランマラーメンなのだ。
麺、スープ合わせて4kg。付け合せの野菜炒めが山盛りに乗っかっているのだ。そんな野菜の山の側面にはチャーシューがぎっしりと張り付けられている。
合計重量5・5kgの特盛ラーメンをよく形を崩さず、そして零さずにカウンターテーブルの上を滑らせたものだ。その技術は本当に素晴らしい、賞賛に値する。
でも何でラーメン、それも大食いチャレンジ用を寄越すのか?
こんな謎行動を起こした人物のご尊顔を拝もうと、ラーメンが滑ってきた方へと顔を向ける。
そこには見知った顔の女性が笑みを浮かべ、こちらに手を振っていた。
知り合い、と言われれば一応そうであると答える事は出来るが、友達とか親しい間柄ではない。彼女と顔を合わせるのは飲食店や地元の大会の時だ。
地元の大会とは、年二回行われる地元の特産品をふんだんに使った大食い大会の事だ。
大食い自慢の猛者達が集まり、覇を競う戦い……と言えば格好いいのだろうが、別にそこまで大層な物ではなく、ローカルテレビや地元の新聞の特集に載るくらいの規模だ。私は毎年その大食い大会に参加して上位入賞を何回か果たしている。
そんな大食い大会で常連のフードファイターに負けず劣らずの戦績を残しているのが彼女だ。一年前から大会に参加し始めた彼女は小柄でスレンダーな体形をしているのだが、まるでブラックホールでも内蔵しているのかと錯覚するくらいに食べる。
で、そんな彼女の眼の前にも、一杯のチョモランマラーメンが鎮座している。
これが意味する事はつまり――。
「勝負よ! 今日こそ勝ってやるんだから!」
彼女はびしっと人差し指を私に向けてそう宣言した。やっぱり、大食いの野良試合の申し出だった。
大食い大会で鉢合わせてから、彼女からこのような野良試合をよく申し込まれるようになった。一週間前は確かお好み焼き屋偶然鉢合わせした時で、その前はカレー屋に並んでる時で、更にその前は焼肉屋でカルビを焼いていた時。
彼女と私の勝負は今のところ私が全勝している。彼女は負けると涙目になりながら「次こそは絶対に勝ってやるんだから!」と叫びながら去っていく。
負けず嫌いな性格をしている彼女は、自分が勝つまで私に勝負を挑み続けているのだ。
私としては大食い勝負を挑まれる事自体は嫌ではない。な ので、私は今回も勝負に応じ、割り箸を手に取る。
「当店の チョモランマラーメンは30分以内に完食出来なかったらお代として7000円頂きます。30分以内に完食出来たら賞金1万円を贈呈します。無論、その時はラーメンのお代はいりません」
いつの間にやらストップウォッチを構えた店主が大食いの簡単なルールを口頭で説明する。5・5kgを30分以内で完食すれば取り敢えず無料、と。
なら、絶対に30分以内に食べきらないと。何せ、今日財布に2321円しか入っていないのだから。
「それでは、お二人共、準備はいいですか?」
私と彼女は同時に頷く。
「それでは用意……スタート!」
店主の合図と共に、私と彼女は一斉に食べ始める。
私は野菜山の頂からの攻略を開始。ごま油で炒められた野菜たちは香ばしく、食欲をそそられる。程よく塩味が効いていて箸が進む。
野菜の山をある程度食べたら側面に張り付いているチャーシューにも手を伸ばす。表面がこんがり焼かれており、中はしっとり。噛めば香ばしい匂いと共に肉汁が口中に広がる。
野菜炒めとチャーシューをある程度食べ進めると、漸くラーメンの主役たる麺とスープが姿を見せ始める。ここからは野菜とチャーシューだけでなく、麺も食べ始めるとしよう。
中太のちぢれ麺はもちもちの食感で、程よくスープが絡みつく。スープは鶏がらをベースに昆布、鮪節でとった出汁にこの店特製の塩ダレで味を調えたあっさり系。こってり系ではないので胃もたれする事無くするすると食べ進められる。
自分のペースを崩す事無く、味もしっかり堪能し、スープも全て飲み干す。ごちそうさまでした。
「……っ、ごちそう、さまでしたっ」
私に少し遅れる形で彼女もスープ一滴残さず綺麗に完食。
「タイムは……26分37秒と27分03秒。30分以内の完食おめでとうございます!」
店長はタイムを読み上げると、何処からともなく出したハンドベルを高らかに鳴らす。そして他のお客さんが私と彼女に盛大な拍手を食ってくれる。
取り敢えず、制限時間内に完食出来たので7000円の代金を支払わずに済んでよかった。ほっと胸を撫で下ろす。あと、ついでに臨時収入として1万円もゲット出来た。
「……次こそは」
賞金を受け取った彼女は立ち上がり、私にびしっと指を突き付けてくる。
「次こそはっ! 絶対っ! 勝ってやるんだからっ!」
涙目になりながらそう言い放つと彼女は走って店から出て行く。うん、いつもの光景だ。
と言うか、毎回思うけどあれだけの量を食べたばっかりなのによく走れるな? 普通食べて直ぐ動くとリバースしそうなんだけど。
私は彼女とは違い、食べて直ぐには走れないので、ゆっくり歩いて帰るとしよう。
店を出て見慣れた景色を眺めながらゆっくりと帰路に着く。
さて、次はいつ、彼女は大食い勝負を挑んでくるだろうか。
この一年、彼女から大食い勝負を挑まれるようになり、いつしかそれが日常となった。
そして、勝負を続けるうちに、私は彼女の最後まで絶対に諦めない姿勢、そして負けず嫌いの性格に惹かれていった。
端的に言えば、好きになったのだ。
今の関係が壊れるのが怖いので、彼女に好きだとは伝えていない。
彼女が私の事をどう思っているのかは分からない。ただの越えるべき壁とだけ認識しているのかもしれない。
例えそうであっても、構わない。
時間を勝負と言う形で、一緒に過ごせれば充分。
少しでも長く、この日常が続きますように。
私は、切に願う。