因果の果て
「ハァ…ハァ…ハァ…」
闇の中をひたすら走った。使いすぎた肺が痛い。足が棒のようだ。それでも叱咤して走るのは、後ろから這い寄る何かから逃れるため。チラリと後ろを伺えば、闇に蠢く何かがすぐ後ろに迫っていた。
「うわぁああああああああああああ‼」
「該者は?」
「佐藤 亮一 25歳。大手メーカー勤務の営業マンです」
テープが張られたその先の狭いトンネルの中、刑事が遺体を確認する。
「酷いな」
「はい。顔半分以外は全て焼け焦げているんですが、奇妙なことに遺体周辺は燃えた形跡がないんです」
「という事は、別の場所で殺されて運ばれたって事か?」
「それが、死亡推定時刻が昨晩2時ごろで、近くの住人数名が悲鳴のようなものを聞いています。気になって悲鳴があった方角を確認したようなんですが、不審車や、誰かが走り去るような様子はなかったと言っていました。燃やされて運ばれたにしては妙です。近所の住人が帰宅途中に発見し通報したのが2時05分頃。もし運ぶにしても、無理がありませんか?」
「その発見したってのは?」
「近所に住む警備員の男です。仲間と2人で仕事帰りに人のようなものが倒れていたから通報したと言っていました。こちらは会社の方にも連絡とって、裏が取れています」
「ふむ。とりあえず該者の家を捜索するぞ」
ぴちゃり、ぴちゃり…
蛇口から落ちる水の音で目が覚めた。
「ここは…どこだ」
「あら、お目覚めかしら?」
頭に鈍い痛みがある。フルフルと振って、周囲を見渡すも、見覚えのない部屋だ。薄明りの中にぼんやりと女が浮かび上がる。部屋には何もない。窓はあるが、まるで明かりなどなく漆黒が広がっている。
「貴方、ここに来るまでの事覚えている?」
「どういうことだ」
着物姿の長い黒髪の女は口の端を上げて言った。
「あらあら、今までしてきたことを棚上げにして、恨まれるのも仕方ないわね」
「?何を言っている」
「とぼけるなら、思い出させてあげましょうね。貴方の罪と、貴方の罰を」
女は近寄ってくると人差し指を眉間の中心に指した。激痛で脳がシャッフルされている感覚に思わず吐き気を憶える。
「貴方、どのくらい殺したの?」
「な、なに」
「蓋を何重にもかけて自分を守ろうとしているのね。そう、じゃあ、私が教えてあげるわ。中学の頃から、小動物を何度もいたぶって殺してきた佐藤 亮一さん。最初は誤って怪我をさせてしまったの。それから怯える姿に快感を覚えたのね。一つも二つも変わらない。12年間で50匹以上…。異常者のお仲間ね。それは沢山に恨まれても仕方ないわ」
次の瞬間、膨大なビジョンが走馬灯のように走っていった。ストレスが溜まるたび、近くにいた猫や犬、鳥、何でも殺した。それと同時に怨嗟が襲う。
「中には飼い猫なんかもいたようね。可哀そうに、皮をはがされて、心臓を一突きにしたのね」
血を見る瞬間はとても興奮する。そして泣き叫ぶ生き物。命の終わる瞬間はあっという間でいつも侘しさを感じた。興奮を味わいたくて何度もやった。一匹殺してしまえば、あとはもう淡々と殺す日々。行動は習慣になった。
両親は忙しく、家の離れに一人住んでいた自分を責める人間など誰もいない。
「ほら、貴方を恨んでいる霊魂たちがこんなに集まってきたわよ。最後に殺された子は凄い怒りね」
女の隣には謎の物体が闇に包まれて蠢いていた。
「貴方を殺したいんですって。でも、追いかけっこに勝ったら、逃がしてあげてもいいらしいわよ」
「マジで何を言ってるんだ」
「制限時間は30分。逃げ切ったら貴方の勝ち。捕まったらアウト。拒否権はないわ。じゃあ、10数えたら開始ね。その間に頑張って距離を稼ぐことね」
「ちょっ、まっ」
「それじゃあ始め!10、9…」
急にカウントされて、慌てて走り出す。部屋から出ると、ビルの裏からいつも通る繁華街に通じていた。ダッシュで通り過ぎていく男に、不思議と周りは気づかない。とにかく逃げなければ。
走っている間にも、不思議と耳元でカウントダウンは鳴り響く。0と告げられた瞬間、鳥肌が襲った。尋常じゃない何かが追ってくる。
なりふり構ってなどいられない。ひたすら走る。走る。走る。けれど、蠢く何かは自分の位置などお見通しとばかりに追ってくる。
怖い。人生で初めて恐怖を覚えた。そして、何故自分がこんなに追い詰められなければならないのか憤慨もしていた。
やられる方が悪いんだ。俺は悪くない。
汗が吹き出し、来ていたスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。もう、自分の知っている道を外れて、どこを走っているのか見当もつかない。ただ、後ろの恐怖から逃れるために必死で足を動かす。
最初は見えなかった闇が、徐々に迫っていることに恐々としながらひた走る。こんなに走ったのは高校の体育祭以来だ。息も上がる。
時計を見る。後、10分。逃げ切れるか?後ろを振り返ると豆粒に見えていた闇が徐々に大きくなっている。
逃げ切れるかじゃなくて逃げ切るんだ。俺にはまだ、人生が残っている。結婚式だって来月に迫っているんだ。こんなところで死ねない。
あと5分。
あと4分。
あと3分…
線路下の狭いトンネルに差し掛かかる。使いすぎた肺が痛い。足が棒のようだ。チラリと後ろを伺えば、闇に蠢く何かがすぐ後ろに迫っていた。
「うわぁああああああああああああ‼」
闇の飲み込まれた瞬間に肉が焼ける臭いがした。同時に激痛が全身を襲う。
「あと少しだったのに残念だったわねぇ。ねえ、どう?焼かれて死ぬ気持ち」
いつの間にか、女が頭上に浮いていた。クスクスと笑いながら様子を眺めている。
「その子たちね、貴方に同じ苦しみを味わわせたいって懇願してきたのよ。可哀そうだから、力を貸してあげたの」
「お…まえ…何…もn…」
「冥途の土産に教えてあげましょう。私は因果の果てに住む死神よ。貴方に因果応報を。してきたことの責任は貴方の命で贖ってちょうだいねっ…て、もう聞こえないか」
後に残った物は、顔半分を残して黒焦げになった男の死骸だけだった。
家宅捜索で見つかったものは、悲惨なデータと大量の死骸。辺りには死臭が漂っている。家にいた佐藤の両親は何も知らなかった様子で青ざめた顔をしていた。
「警部、これ、見てください」
部下がパソコンのファイルを開くとそこには無数の殺された生き物の写真が写されていた。見ていくうち、最後の写真に目を止める。
「佐藤の殺され方と同じだ」
その子猫は顔半分を残して、黒焦げていた。