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緑の大地

作者: 砂城 桜


 春風が私の頬をなでた。

 若草が芽吹き始めた地面では、灰色のリスが並んだ墓石の間を行ったりきたりしている。

 手にした花を地面に置いた。

 今、この国は聖金曜日の合意が成立したことを祝っている。これで、長きに渡って続いた北アイルランド問題にもようやく1つの区切りがついたらしい。

 思えば、すべてはあの戦争から始まった。

 静かに目をつむる。

 まぶたの裏にあの冬の情景がぼんやりと浮かんできた。1920年、激動に揺れる冬のクレアだ……





__________





 

 前を走るトラックが巻き上げた土煙が目にしみた。

 俺はがたがた揺れるトラックの荷台に乗っていた。狭い荷台ではカーキ色の制服に身を包んだ男たちが肩を寄せ合って座っている。

 道端に目をやると、苦々しい表情でこちらを見つめる男たちと目があった。

 きっと心の底から俺たちを憎んでいるのだろう。


「イギリスに帰れ! このくそったれタンズ!」


 トラックが横を通り過ぎるとき、罵声を浴びせられた。


「ちッ、忌々しいアイルランド人め……」


 同僚が悪態をつく。

 目的の民家に到着すると、俺たちはトラックから降りて仕事に取りかかった。


「よしッ、踏み込め! 抵抗があれば射殺してもかまわん!」


 小隊長の怒鳴り声が聞こえる。

 俺は粗末なドアを蹴破り、中に踏み込んで住民に銃を突きつけた。仲間も後ろに続いてどかどか入ってくる。


「両手を上げて家から出ろ! ぐずぐずするな!」


 そこにいたのは年老いた男と若い娘だった。

 2人は一瞬ぎょっとして顔を見合わせたが、すぐに大人しく指示に従った。彼らを家の外に連れ出し、壁に並ばせる。もちろん銃口は向けたままだ。

 小隊長はその様子を眺めながら煙草に火をつけた。


「どうだ、銃は見つかったか!」


「ありません!」


 家具を倒す音や食器の割れる音がおさまり、同僚たちがぞろぞろと家から出てくる。

  

「くそッ、ハズレれか。次行くぞッ!」


 俺たちはまたトラックに乗り込んだ。振り返ると、若い娘が老夫の胸に顔を埋めて泣いていた。胸がちくりと痛む。


 悪いが、これが俺たちの仕事だ。

「王立アイルランド警察の特別予備隊」といえば聞こえは良いが、実体は警察なんて生温いもんじゃない。先の大戦から生きて戻ったはいいが職にありつけず、今や厄介者となりはてた帰還兵を寄せ集めた、極めて軍隊に近い武装組織。

 独立運動の鎮圧と、国内不安分子の厄介払いをまとめてしてしまおうという政府の意図が透けて見えるが、貧困に喘ぐ俺たちに選択肢はなかった。フランダースの塹壕を生き抜いたところで、慈悲深い政府がくれたのはささやかな勲章くらいなものだ……

 そんなやさぐれた連中が集るもんだから、結局人々から憎まれ、恐れられ、軽蔑されている。警官の黒い制服が足りず、軍服を着てるせいで「ブラック・アンド・タンズ」なんて呼ばれる始末だ。

 IRA(アイルランド共和軍)と呼ばれる反政府ゲリラとの戦いに終わりは見えないし、住民からは常に敵意を向けられている。 

 はたしてこの戦いに大義などあるのだろうか。

 俺には分からない。




 その日の任務を終えてバラックに帰還しても、俺たちに休みはなかった。

 これから逮捕したIRA戦闘員を尋問しなければならない。俺はこの時間が憂鬱だった。

 暴れる青年を3人がかりでなんとか椅子に縛り付ける。

 ペンチを手にした小隊長が部屋に入ってきて、青年の目の前で腰を屈めた。


「君の名は?」


「マイケル・オライリー……」


「マイケルか……しみったれた名前だ。では聞くがねマイケル、武器の隠し場所を私に教えてくれないか」

 

 小隊長がわざとらしく彼の鼻先にペンチをちらつかせた。


「だれが教えるかッ! 脅したって無駄だぞ!」


「そういうと思ったぜ。じゃあ痛みを覚悟するんだな!」


 そういって小隊長はペンチで青年の親指の爪をつかみ、引きはがした。

 狭い室内に絶叫が反響する。

 

「どうだ、話す気になったか?」


「……誰が仲間を売るもんか……くたばれ、イギリス野郎」


「生意気言ってんじゃねえぞッ! 若造が!」


 また爪がはがされた。

 青年は歯を食いしばって俺たちを睨む。その鋭い眼光からは、絶対こんな拷問には屈しないという強い意志が読みとれた。

 永遠に感じた尋問が終わったとき、青年の両手に爪は残されていなかった。

 小隊長はあきれ顔で青年を見下ろす。


「まったく……強情なやつだ。もういい、そいつを監房に戻せ。近いうちに銃殺刑にしてやる」


 力なくうめく青年は両脇を抱えられ、引きずられるように連れて行かれた。

 あいかわらず胸くその悪い仕事だ。ルール・ブリタニアを鼻歌で歌いながら、床に散らばった爪を踏みつける小隊長を見て心底そう思った。




 明くる日も、俺たちは銃器の捜索のため民家をしらみつぶしに荒らし回った。

 疑わしきは罰せよが特別予備隊のモットーだ。

 怒鳴り、銃を向け、ときには暴力も振るった。女、子どもでも容赦はしない。

 そんな俺たちの努力が実ったのか、はたまた小隊長の執念の賜かは分からないが、ようやく1軒の家で数丁の銃が見つかった。

 その家の主である中年の男が家から引きずり出され、同僚たちにより銃床で滅多打ちにされる。

 彼の妻が半狂乱で飛び出し、暴行されている夫を庇うように多い被さった。


「おい! こいつをどうにかしろ!」


 小隊長に命じられ、俺は女の襟首をつかんで無理矢理引きはがす。そのとき、爪で顔面を引っかかれた。

 頬が抉られ、血が滴たる。


「大丈夫かッ! この雌豚ッ、アイルランド人に生まれたことを後悔させてやる!」

 

 仲間が女の顔面にパンチをお見舞いした。

 さらに倒れた女の腹に蹴りを入れ、銃床を叩き込まんと両腕を振り上げる。


「もういい! やめてやれ!」


 俺は同僚を突き飛ばし、腕を広げた。


「正気か!? このカトリック女を庇うなんて!」


「別にそこまでやる必要はないだろ……俺なら大丈夫だ。このくらい大した傷じゃないさ」


「へッ……お優しいこった。反吐がでるぜ!」


 同僚は地面に唾を吐き、俺に背を向ける。

 振り向くと、女は腹を押さえながら苦しげに地面を這っていた。一瞬手を貸そうかとも考えたが、小隊長がこちらを見ていることに気づき、やめた。

 男のほうは頭から血を流し、ぐったりとうなだれたまま引きずられてトラックに乗せられる。


「よし! 武器を押収して火を放て!」


 小隊長の命令により、ガソリン入りのタンクを持った同僚がずかずかと家の中に入っていく。

 しばらくして、家に火の手が上がった。

 そして俺たちは燃える家を後にした。去る間際、起きあがった女が見せた顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

 ここもフランダースも地獄であることに違いはない。それはもはや疑いようのないことだろう。




 勤務の終わり、俺たちは町でつかの間の自由を楽しむことができた。

 ただ、自由といっても好き勝手に行動できるわけではない。町の中にはIRAの連中がうろついている。

 常に数人単位で行動しないと、いつ襲われてもおかしくない状況だ。


 アイルランド警察の警官グループと合流し、酒場に入る。怯えるマスターにブランデーを注文してカウンター席に座った。

 隣に座る警官たちも、きっと苦労が多いのだろう。俺たち予備隊は皆イギリス人だが、彼ら警官はアイルランド人だ。裏切り者と白い目で見られ、IRAの標的となり、自由に外も歩けない毎日。

 この戦いが終わった後、彼らは一体どうなるのだろうか。

 ふとそんなことを考えた。



 

 酒が入り、トイレに行きたくなった俺は席を立った。しかし、トイレは使用中で、ドアの前にも2人ほど人が並んでいる。

 ご機嫌な様子で酒をあおる同僚を背に俺は外にでた。

 早いとこ用を足してしまおう。

 そう思って酒場近くの薄暗い裏路地に入ったところ、くぐもったうめき声が耳に届いた。

 路地の奥に目を凝らすと、カーキ色の制服を着た連中が壁に人を押しつけている。捕まっているのは若い娘だった。顔に見覚えがある。そうだ、昨日捜索した家にいた娘だ。

 買い物帰りだったのだろう。地面には紙袋が転がり、パンやオレンジが散らばっていた。


「おまえたち、なにをしている」近づいて制服を着た同僚の肩をたたく。


「あん……なんだよ……」


 吐く息が酒臭い。こいつら、明らかに酔っている。


「じゃますんじゃねぇ……これからよう……このアイルランド女に……俺たちのたくましさを教えてやるんでい」


 男の手が娘の胸元に伸び、力任せにシャツを引き裂いた。

 もう1人の男が腕を広げて俺を制す。


「てめぇはすっこんでな……へへ、たっぷりかわいがってやるぜ」


 娘が涙に濡れた顔をこわばらせた。

 この酔っぱらいに話が通じないことは明らかだ。

 俺は男の股間を蹴り上げた。


「ぐあッ! てめぇ……」


 蹴られた男は膝から地面に倒れ込む。


「おい……貴様ッ! 一体どういうつもりだ!」


「そっくりそのまま返すぞ。その娘が一体なにをしたんだ? 良心が痛まないのか」 

 

「この淫売がなにをしたかだって! そんなこと知るかよ、こいつはカトリックだ! 理由ならそれで十分だろ!」


 男は押さえつけていた娘を離し、腰からナイフを抜き出した。


「今更謝っても遅いぜ……綺麗事は教会の中だけで言うんだな!」


 鈍く光るナイフの刃先が俺に向かってくる。

 それを間一髪でかわし、男の腕をつかんだ。

 男はふりほどこうと暴れるが、俺も背後に回り込んでもう片方の腕で、がら空きの首を締め上げる。


「くそッ……離せ……」


 数十秒間格闘したところで、男は降参したのかナイフを地面に落とした。

 ナイフを手の届かない場所に蹴り飛ばし、男を解放してやる。


「ちくしょう……強えな」


「俺がIRAなら命はなかったな。さあ、とっとと失せろ!」


 男たちはぶつぶつ悪態をつきながらも、路地から出て行く。

 奴らの後ろ姿が見えなくなってから、地面にうずくまった娘に手を差しだした。


「大丈夫かい……その、奴らの無礼をお詫びする。本当にもうしわけない」


「大丈夫なわけないじゃない! あなたたちは悪魔よ! さっさとアイルランドから出て行って……これ以上……私たちの生活を壊さないで……」


 差し出した手を払いのけて娘は立ち上がり、紙袋を拾って走り去った。


「悪魔……か」


 彼女にいわれた言葉がずっと、頭の中で反響していた。




 酔っぱらいの同僚にナイフを向けられてから3日が経った。

 今日の小隊長は朝から張り切っている。

 小銃を担いでトラックに乗り込み、バラックを出発した。行き先は町外れの丘にある古びた礼拝堂だ。

 昨日、信頼のおける地元の情報提供者から、IRAの武器庫について密告があった。

 武器庫を押さえることができればこの地域のIRAは大幅に戦力を失うだろう。

 これは失敗の許されない任務だ。

 荷台で揺られながら、岩石質の丘陵地帯を進んでいく。

 土が痩せているせいで高い木が生えず、点々とむき出しの岩がある以外は一面緑の草で覆われている地面。

 果たして、この緑の大地でつつましく生活している人々を蹂躙する権利が俺たちにあるのだろうか。

 その問いに答えることはできそうになかった。



 

 状況は最悪だ。

 どうやら俺たちはハメられたらしい。

 両側を小高い丘に挟まれた谷間の道路に差し掛かったとき、突然銃声が鳴り響いた。

 前を走っていたトラックの軌道が乱れ、道端の岩に激突する。

 

「IRAだ!」


 小隊長が叫ぶ。

 急停止したトラックから飛び降りて銃を構えた。

 丘の上に敵の姿が見える。岩陰に身を隠しながら、こちらに銃口を向けていた。

 彼らが構えているのは、皿形弾倉を持つシルエットが特徴的な銃。

 全身が凍り付いた。


「まずいぞ! ルイスガンだッ!」


 俺は地面に伏せ、転がるようにトラックの下に潜り込む。

 直後に連続的な銃声と悲鳴が聞こえた。

 金属音が鼓膜を揺らし、ガソリンらしき液体が顔にかかった。おそらく銃弾がタンクを突き破ったのだろう。

 急いでその場から這いだし、背の高い草むらに身を隠して辺りをうかがった。同僚たちが必死に応戦しているものの、こちらは明らかに分が悪そうだ。

 あの大戦を思い出す。

 ヴィミーリッジの丘では高地に陣取った機関銃で多くの仲間が殺された。

 高い場所から一方的に撃たれると歩兵にはなす術がない。

 トラックから炎が上がった。

 何人かの同僚が服に燃え移った火を消そうと地面を転げ回っている。しかし、IRAの放つ銃弾はそんな彼らを無慈悲にしとめていった。

 

「ちくしょう……皆殺しにする気か」


 両側の丘から降り注ぐ弾丸にバタバタと味方が倒れていく。

 小隊長もすでにやられたようだ。

 俺は銃を握りしめた。

 部隊は完全に崩壊している。恐慌状態の同僚が逃げだそうとして背中を撃たれた。

 俺の死に場所はここか?

 

 いや、違うだろ……




 体が重い。

 まるで鉛が詰まった袋でも背負っているかのようだ。

 右手の先からは相変わらず血が滴っている。

 何時間歩いたのだろう。

 ようやく細い田舎道が見えてきた。俺は何とか襲撃から逃れることができたらしい。

 だが、まだ安心はできない。ここは敵地のど真ん中、それに肩を撃たれて負傷している。

 カーキ色の制服が忌まわしく思えてきた。

 この姿をアイルランド人に見られたら間違いなくIRAへ通報がいく。

 奴らに捕まれば待っているのは死だ。

 しかし、もう動けそうにない。

 膝から力が抜け、俺は意識を手放した。

 



 気がつくと、俺は干し草の上に寝かされていた。

 薄暗い中、藁葺きの天井が見える。

 ここはどこだ。小さな小屋の中だということはなんとなく分かる。

 どういうわけか、右肩には包帯が巻かれていた。

 運良く味方のパトロール隊に救助されたのだろうか。それにしてはやや違和感がある。

 痛みをこらえて起きあがったとき、窓の向こう側から声が聞こえてきた。

 そっと外をのぞくと、ツイードのジャケットを着て帽子を深くかぶった男が2人いた。肩に銃を担いでいる。

 IRAだ。

 心臓が締め付けられるような気分になる。

 奴らが戸口までやってきてドアに手を伸ばした。

 俺は死を覚悟し、目をつむる。


「あら……ダックにコナーじゃない。どうしたの」


 そのとき、突然若い女の声がした。


「マリアか、無事でなによりだ。実は今朝タンズの小隊を1つ潰したんだ。ほとんどは撃ち殺してやったが、逃げた奴がいてな。今探してるところだ。近くで怪しい奴は見なかったか?」


「そういえば、タンズの制服を着た男がそこの道を東の方へ歩いて行ったわよ」


「東だな、教えてくれてありがとう」


 男たちの足音が遠ざかっていく。

 足音が完全に聞こえなくなるのを待って、ドアが開かれた。


「君は……」


「あなたに会うのは3度目ね」


 そこにいたのはあの若い娘だった。


「俺を、助けてくれたのか……」


「借りを返しただけよ……運が良かったわね。私の家が近くにあって」


 娘はそういって、足下の床にコップと水差しを置く。


「本当にすまない……君に迷惑をかけてしまった。すぐに出て行くよ」


「立ってるだけでやっとの男がよくいうわね。今日一晩はここに泊まっていきなさい。祖父もそういってるから」


「しかし、それでは……」


「心配しないでも明日の朝には叩き出してあげるわ。それに……その様子じゃお腹もすいてるでしょう。今、母屋からシチューを持ってくるから」


 娘は俺に背を向けて戸口の外にでた。出るとき、少しだけこちらを振り返る。


「あのときは助けてくれてありがとう……」


 彼女のはにかんだ顔が、とてもまぶしく見えた。




 強い潮風が顔に吹き付けた。

 波はやや高く、鉛色で覆われた空からぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる。

 俺はデッキから離れ、キャビンへ向う。

 あの島へ行くのは5年ぶりだが、どうやらあまり歓迎されていないらしい。


 もう5年も経つのか……

 

 ポーツマス発、ダブリン行きの定期船に揺られながら、会社から渡された資料に目を通す。

 今回は株式投機で成功した成金を取材するだけの簡単な仕事だ。

 我ながら人生とは先の読めないものだと思う。


 負傷した俺はあの後、コークの病院に送られた。手術し、リハビリが終わる頃に独立戦争は終結。講和条約の結果アイルランドには自治権が付与され、イギリス帝国内に「アイルランド自由国」として留まることになった。

 強硬な共和主義者が条約を拒否し、完全な独立を求めたことで内戦が勃発したが、それもイギリスの支援を受けた自由国政府に鎮圧された。

 殺害、暴行、焼き討ちと、アイルランド住民や国際世論から非難の的となった特別予備隊は解体され、隊員の大部分はパレスチナの治安部隊に編入となった。

 パレスチナ行きを断った俺はロンドンに戻り、労働組合が運営する日曜学校で文法と政治学を学んだ。

 幸いあの小隊で唯一の生存者だった俺は政府から表彰され、少なくない額の補償金を受け取っていたため生活には余裕があった。

 おかげで小さな新聞社に就職することができ、今の暮らしには概ね満足している。 

 ただ、ひとつだけ気がかりなこともある……


「いや……考えるのはやめよう」


 胸の奥がちくりと痛んだ。




 俺は何をやっているんだろう……


 ダブリンでの取材を済ませた後、俺の足は港ではなく駅へ向かっていた。

 ちょうど、ホームから発車しようとしていたコーク行きの列車に飛び乗る。

 馬鹿げた行為であると自分でも分かっていた。

 しかし、今じゃないと絶対に後悔するという思いもあった。

 頭の中で理性は戻れといい、感情は行けという。

 こういう場合、どちらの選択が正しいのだろうか。少なくとも今回、勝ったのは感情だった。

 

 コークで列車を換え、エニスからバスに乗り、西を目指す。

 揺れるバスから見える丘は以前と何ら変わりなく、緑の草が風になびいていた。

 こうして見ると、なんと平和で牧歌的な風景なのだろう。かつてここが血生臭い戦場になったと想像できる者がいるだろうか。

 日も暮れかけた頃、ようやくバスが目的の町に到着した。

 雨が降り始める中、町を抜けて細い田舎道を歩く。

 十字路を曲がった先に、藁葺屋根の小さな家が見えた。

 ドアの前に立つ。

 ノックをしたが、返事はなかった。


「やっぱり、俺は大馬鹿だ……」


 来た道を引き返そうと振り向いたとき、後ろでドアの開く音がした。


「あなたは……たしか」


 彼女の声だ。

 その姿を見て、思わず声が上擦ってしまった。


「そ、その……突然おじゃまして申し訳ない。あのとき……助けていただいたお礼をいいに来た……」


「それだけをいいにわざわざ来たの? しかも、今になって」


「まあ……そうだな。すまん、迷惑だったな」


 彼女は腕を組み、ため息を吐いた。


「あなたって謝ってばかりね。ほら、早く中に入りなさい。その服びしょ濡れでしょ」


「いいのか、昔俺は君らにひどいことをしたんだぞ」


「銃を持ってない客人なら、お茶の1杯くらいだすわよ。それが人の礼儀ってもんでしょ」


「礼儀か……なるほど、たしかにな」


 俺は帽子を取って彼女にお辞儀をした。


「ジョンだ。俺の名前はジョン・ロイル。予備隊にいたおかげで忘れていたが、家に入る前に名乗るのも大切な礼儀だったな」


 彼女がくすりと笑う。


「そうね、ジョン。私はマリア。ようこそ我が家へ」





__________






 その後、数ヶ月の交際を経て私とマリアは結ばれた。

 プロテスタントとカトリック。宗派こそ違ったが、2人の愛の前ではそんなことは些細な問題でしかなかった。

 マリアの唯一の肉親である祖父は内戦中に病気で亡くなっていたため、私たちはダブリンへ引っ越し、新しい暮らしを始めた。

 同じ新聞業界で次の仕事も見つかり、子宝にも恵まれた。


 墓石に掘られた「マリア・ロイル」の文字を見下ろす。 優しい風が頬をなでた。

 すぐに会えると思っていたが、もう10年以上待たせてしまっている。

 どうやら神は私の体を頑丈に作りすぎたらしい。


「おじいちゃん……いつまでここにいるの?」


 小さな男の子が私の上着の袖を引っ張る。


「ごめんな、もうすぐ行くよ。そうだ、何か食べたいものはあるかい」


「うーん……ドーナッツが食べたい!」


「そうか、じゃあ買って帰ろう」


「やったー!」


 気づけばもう曾孫までいる、おじいちゃんだ。

 

 すまんな、マリア……あと少しだけこっちにいさせてくれ。そして、ありがとう。


 


  

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