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4、絡まる糸をほどいて(前編)

 三月に入り、日中は暖かい日が増えたけれど、やはり朝の空気はまだキンと冷たい。

 琴音はぬくぬくとした布団の中から抜け出すことをためらいつつも、スマホのアラームを聞いた数分後に「えいっ」と起き上がった。そして冷蔵庫から昨夜の鍋の残りを取り出し、それを火にかけ、鍋の中身を温めているすきに簡単に身支度を整える。

 不意打ちの九田の襲来があるため、寝起きといえども油断ならないのだ。化粧はしないまでも、起きて活動できる姿になっていないといけない。何となく、今朝は来そうな気がする。

 九田が朝食や夕食のときにやってくるのを拒まないのは、大家であり雇い主であることもあるけれど、嫌ではないということもあった。

 まだひとりでいることが気楽ではあるものの、美味しそうに手料理を食べるのを目の当たりにするのは悪い気はしない。


「はいはーい」


 煮立った鍋にカレーのルゥを投入していると、予想していたとおりインターホンが鳴らされた。ドアスコープで九田の姿を確認してドアを開けるや否や、彼は俊敏な動きで家の中に入ってきた。


「寒かったー。春はまだ遠いな」

「いくらかましになったでしょ」

「……いい匂いがする。朝からカレーか」

「残り物のアレンジですけど」


 着流しに半纏という残念な和風スタイルで震える九田は、キッチンに満ちるカレーの匂いに反応した。


「昨日、カレーだったのか? そういうときは呼んでくれよ。カレー、ひとりで食べるなよ」

「昨日は水炊きでしたよ。水炊きの残りをカレーアレンジです」


 琴音はできあがったものを器に盛りつけ、食卓に並べる。九田のぶんの白米は冷凍庫で保存してあったものを解凍して出した。


「これはもとは水炊きだったのか……? って、鍋ならなおさら呼んでくれよ。鍋なんて、ひとりで食べるもんじゃないだろ」


 出汁の香りが立ち上るカレーに心惹かれつつも、九田は昨夜の夕食に呼ばれなかったことに文句を言った。鍋が食べたかったからか、鍋をひとりで食べたからか、怒っている理由がわからない琴音は首を傾げる。


「この世にひとりで食べちゃだめなものなんてありませんよ。おひとり様バンザイです。……結婚してた頃は夫に取り分けてあげなきゃとか、この野菜は嫌がるから入れられないなとか、そんなことを考えるのが面倒だったなって、ひとりになってしみじみ思ったんですよ」

「……あんたの元夫、赤ちゃんかよ」

「ねー? だから、ひとり鍋は好きなように好きなものを食べられて最高ですよ」

「まあ……言わんとすることはわからなくもないが」


 琴音のやさぐれスイッチを押してしまったのに気づいて、九田はそれ以上なにも言わず、目の前のカレーに集中した。

 昆布出汁と鶏ガラの合わさったスープのカレーは、控えめでありながら上品なコクを感じるものに仕上がっている。一般的なカレーの中には入っていない白菜や大根が入っているから、それもまた意外な美味しさにつながっている。


「和風出汁のカレー、うまいな。こうやって白米にかけるのもうまいが、うどんにかけたらもっとうまそうだな」


 きれいな所作でカレーを食す九田が、しみじみと言った。日頃は無表情だったりむっすりとしていたりな九田も、美味しいものを食べているときは機嫌のよさそうな顔をする。


「じゃあ、今度水炊きにした次の日にはそうしましょうかね」

「次の水炊きには呼んでくれよ」

「縁があればですねー」


 九田と鍋を食べるのが嫌なわけではないのだけれど、まだ誰かと鍋を囲みたい気分ではないから、琴音は曖昧な返事を返しておく。それに、九田と食べてしまうとひとり鍋否定派に寝返ってしまった気もするから、もうしばらくはひとりで食べたいと思ったのだ。


(そういえば、この前初めて縁を結んだわけだけど、あとどれくらい結べばいいんだろ? それに、クダギツネが縁結びの良さを伝えたい“ヨリヒト”って、誰なの?)


 不意にそんなことを考えたものの、機嫌がよさそうな九田に尋ねるのも何となくはばかられた。

 けれど、それを知る機会は唐突に訪れた。


 ***


「ヨリヒトちゃーん」


 その日の夕方、昼過ぎからいた客が引けた頃に、騒々しく丸屋のドアが開いた。入ってきたのは、女優帽にサングラス、トレンチコートを身に着けた派手な長身の女性だった。

 その女性はカウンターに向かってヒラヒラ手を振ってから、勝手知ったるというように奥の席までヒールを鳴らしながら歩いていった。


「……何で来たんだよ」


 カウンターの奥で置き物のようにじっとしていた九田が、その女性の来店に気づいてくわっと目を開けた。迷惑そうな顔をしている。どうやら、知り合いらしい。


「何でって、ヨリヒトちゃん冷たーい。今日はここでお客と待ち合わせなのよ」

「その呼び方やめろ。あと、待ち合わせならもっとメジャーな店でやれ」

「ヨリヒトちゃんはヨリヒトちゃんでしょ。あと、流行ってない店だから安心して使えるんじゃない」

「黙れ栄太郎」

「その捨てた名で呼ぶなー! あたしの名は栄子だ!」


 派手な女性が九田と言い合っていたかと思ったのに、九田に言い返す声は低くドスのきいた男のものになっていた。


(え? ヨリヒトって九田さんのこと? あの人、女性かと思ったら男性……!?)


 わりの重要なことを知れたはずなのに、それよりも女性がどうやら男性だとわかって琴音は混乱していた。どういうことなのかと九田を見つめると、面倒くさそうに首を振られた。


「こいつは栄太郎、縁切り屋だ。適当に何か飲み物を出してやってくれ」

「どうも、栄子でーす。レディグレイある? ミルクと一緒にお願いねぇ」


 捨てた名で紹介されたことには触れず、栄子は琴音にひらひらと手を振った。琴音は混乱しつつも、言われるがまま紅茶を淹れに厨房へ戻る。


「琴音さん、何か強烈なの来たの?」


 明日の仕込みをしていた飯田が、コソッと耳打ちしてきた。あれだけ野太い声で叫んでいたのだ。厨房まで聞こえていたのだろう。


「縁切り屋さんで、栄子さんっていうらしいです」

「縁切り屋? それって別れさせ屋みたいなものですか?」

「わかんないけど、ここでお客さんと待ち合わせなんだって」


 飯田に説明しながら、丁寧に紅茶を淹れていく。白地に青い花柄のカップにそれを注いで、ミルクピッチャーと共にトレイに乗せて運ぶ。


「お待たせいたしました」

「待って待って。お客が来るまで時間があるから、おしゃべりしましょ」


 紅茶を運んですぐに立ち去ろうとしたのに、栄子は琴音の手を掴んで向かいの椅子に座らせてしまった。


「店員さん、お名前何ていうの?」

「初一琴音です」

「琴音ちゃんね。琴音ちゃんはヨリヒトちゃんのお嫁さん? 彼女ー?」

「お、お嫁さんでも彼女でもないです。ただの店員です」

「わかってるわよ。ヨリヒトちゃんと赤い糸でつながってないのはバッチリ確認済みよん」


 栄子は琴音をからかいたかっただけらしく、焦ったのを見て笑っている。いい年して誰かの嫁だ彼女だとからかわれただけで焦ってしまったことに、琴音は恥ずかしくなった。


「そういえば、九田さんはヨリヒトって名前なんですね」

「そうよー。縁に人って書いて縁人よりひとっていうの。縁結びに相応しい名前よね」


 栄子さんはそう言ってケラケラ笑う。おそらく、そう言われるのを九田が嫌がるのを知ってのことに違いない。


「あの、縁切り屋ってどんな感じのことをするんですか?」


 縁結びについてもまだ完全にわかったわけではないから、その耳なじみのない言葉に琴音は戸惑っていた。それに、その言葉が持つ物騒な言葉の響きにも、何となく落ち着かない気持ちになる。


「あらん。このお店で働くのなら、結ぶこととセットで切ることも知っておかなくちゃ。縁切り屋は文字通り、人の縁を切るのを生業としてるの。この子たちを使ってね」


 栄子がパチンと指を鳴らすと、テーブルの上に小さなつむじ風が起きた。そしてそこに、三匹のイタチが現れる。


「イタチ!?」

「そう。カマイタチよ」

「でも、カマイタチって人に怪我をさせるものなんじゃないんですか?」


 琴音はあまり妖怪について詳しくないけれど、カマイタチについては少しだけ知っていた。確か、突風が吹いたあとに怪我をしているのに血が出ていないという状態のことを、「カマイタチにやられた」などと言うのではなかっただろうか。


「そうよー。一般的にカマイタチといえば、つむじ風に乗って現れて人を斬りつける妖怪のことね。倒れさせるもの、切りつけるもの、薬をつけるものの三匹いるの」

「……だから出血がないんだ」

「うちの家はいつの頃からかこのカマイタチを使役して縁切りをしてるってわけ。結んでやらなきゃならない縁があるなら、切ってやらなきゃならない縁もあるからね」

「切らなきゃならない縁……」


 栄子の説明に合わせるようにして、イタチ三匹はかっこいいポーズをとってみせた。栄子同様、イタチも仕事に誇りを持っているのだろう。


「琴音ちゃんさ、縁切り屋のことをちょっと物騒だとか嫌な仕事だとか思ったでしょー?」


 琴音の戸惑いを見透かしたように、栄子はカップを手に不敵な笑みを浮かべる。そこまでのことは思っていなかったにせよポジティブにとらえてもいなかったから、琴音はひかえめに頷いた。


「わかるわ。やっぱり“切る”ってのがイメージ悪いのよね。そのせいか恨まれることもある。だから、我が家は店舗をかまえず、こうやってどこかでお客と待ち合わせして仕事してんの。あたしが旅行したい気分だったら、お客が指定するところに出向くこともあるけどねー」


 大変なことだろうに、栄子はあっけらかんと言った。恨みを買うことがあるから店舗をかまえないということは、店舗をかまえると報復なり嫌がらせなりを受けるということだ。


「琴音ちゃんは優しいのね。そんな顔しなくていいのよ。あたしはこの仕事に誇りを持ってるし、誰かの幸せの後押しをしてるって思ってるから」

「自分の仕事に誇りを持てるのは、とても素敵なことですね」


 生活のためにお金を稼ぐという意味以外で働いたことがない琴音は、自信に満ちた栄子を少し羨ましく思った。

 でも、そんなふうに思う琴音に栄子は首を振る。


「ま、いつもいつも誇りを持って向き合える依頼ばかりじゃないけどねぇ。今日の依頼なんて控えめに言ってもクソオブクソよ。『なぁ〜んでこんな仕事しなくちゃいけないんだろ』って思うことがあるんだけど、今回の仕事はまさにそれね」


 よほど憂鬱な依頼なのだろう。栄子は鼻の頭に皺を寄せ、嫌だという気持ちを激しく表現した。

 一体どんな人からの依頼なのかと琴音が考えたとき、来客を告げるドアベルが鳴った。


「……ダサい店」


 控えめに吐き捨てたのだろうけれど、入ってきた人物が発したその声は静かな店内に響いた。

 琴音は驚いてそのお客さんを注視して、そしてさらに驚愕する。

 キャスケットを目深に被り地味な色の上着を着て、あきらかに人目を忍んでやってきた様子のその人物は、琴音の元夫の不倫相手だったのだ。

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