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1、バツイチさんとこじらせ店主(前編)

 初一琴音はバツイチである。

 結婚したばかりの状態を新婚ホヤホヤというのだから、琴音の状態は離婚ホヤホヤというやつだ。

 夫の浮気が原因で離婚して、仕事を辞め、元々縁のなかった土地を離れ実家に戻り、ホヤホヤの離婚ライフを送っている。

 夢と希望と幸せに満ちあふれていた新婚生活に対して、離婚ホヤホヤ生活は虚無と悲しみと不安でできている。

 浮気をするような夫と離婚したことを不幸せだとは思わない。けれども、思い描いていた結婚生活を手に入れられなかったことや、これまで熱心に注いでいた愛情が行き場をなくしたことには、喪失感を覚えている。

 喪失感だけでなく、未練や怒りも当然ある。そういった感情はそれぞれ単品で存在することはもはやできず、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってドロドロになって、大分県の観光名所・地獄めぐりのひとつである坊主地獄の如くボコボコとあぶくを噴き上げている。


 その胸の中の汚泥のように存在する感情をどうにかしようと、琴音は昼間から酒をかっ喰らい、リビングのソファで映画を見ている。

 汚れた心を少しでも浄化しようと、高校生などの若者が主人公の青春恋愛映画を中心に見ているのだけれど、琴音の心は洗われるどころか真冬の手入れ不足の踵のようになっていっていた。


「なぁにが、『俺はお前しか見えてない』よ! うそうそうそー! はい、うそー! 絶対に、ぜぇったいに、すぅぐよそ見するんだからねー……ひっく」


 缶チューハイを片手に琴音は、テレビの中の男子高校生に悪態をついていた。その目は据わり、睨みつけているかのように見えている。

 男子高校生が主人公に熱心に思いを告げるシーンが始まってからというもの、ずっとこの調子でいちゃもんをつけているのだ。「永遠なんてない」「ずっとなんて簡単に言うな」「『お前じゃなきゃだめ』なんて、所詮思い込み」「できない約束をするんじゃない」「あんたのような軽薄な男に、主人公ちゃんは渡さないぞぉー」などなど……いちゃもんはかなりのバリエーションを誇っている。

 そのくせ、途中で止めることもせずに最後まで見るのだ。そして号泣し、「わらひだって……わらひらって、られかに愛されたいー!(私だって……私だって、誰かに愛されたいー!)」と言って泣くのだ。

 それが、琴音の日課になっている。


「琴音、そんな映画を見るのはやめなさいよー。傷に塩を塗るようなことしてどうするのよ」


 見かねた母親がそう声をかければ、琴音はキッと鋭い視線を向ける。


「なによ! 私は恋愛映画を見ちゃいけないって言うの? 私がバツイチだからそんなこと言うんでしょー? うわーん」


 琴音は自分でそう言って勝手に傷ついて、子供のように泣きじゃくる。こういった切り返しも実家に帰ってきてから定番になっていて、もはやネタだ。でも、この自虐ネタであるバツイチ芸は自身を含めた誰も笑えないから、まったくもって不毛である。


「そういえば、あんたが離婚したって言ったら花代おばちゃんが心配してたよ。連絡してあげてね。もしかしたら、何かいいお話を持ってるかもしれないし」

「花代おばちゃんー?」

 

 子供のようにわんわん泣く二十六歳の娘を慰めるように母が言えば、琴音の目がさらにつり上がる。


「何で花代おばちゃんに話しちゃうの? もしかしてお母さん、親戚中に私が離婚したことを触れ回ってるの?」

「そんなわけないでしょ。あの人は不思議と勘がいいからね、向こうからかけてきたのよー。それで琴音のことを聞かれたから、正直に答えただけよ」

「そうなんだ。……でも、今連絡するのはなあ」


 花代とは、琴音の母の叔母にあたる。つまり、琴音にとっては大叔母にあたる人物だ。

 人好きのする人で面倒見がいいのだけれど、適齢期を迎えた男女がいれば隙あらば縁組みしたがるから、琴音は年頃になってから苦手意識を持ってしまっている。結婚前に強引にお見合いを勧められたこともあり、今は接触したくない人物ナンバーワンかもしれない。


「どうせさ、お見合いを勧めたがってるんだと思うけどな。だから、今は連絡したくないよ。お母さんだって、今の私にお見合いしろなんて、さすがに言わないでしょ?」

「そりゃあね。今はっていうより、今後も無理強いするつもりはないわ。……結婚だけが幸せじゃないし、ましてや人生のすべてじゃないもの」

「お母さん……」


 母の思いやりあふれる言葉に、琴音はまた涙ぐんだ。けれども、その目には再び険しい表情が浮かんでいく。


「け、結婚が人生のすべてじゃないってわかってるけどさぁ……私だって、できるならすべてだって言えるほどの結婚がしたかったよー! 末永く幸せになりたかったよー! うわーん」

「あんた面倒くさいわね!」


 慰められようと良い話をされようと、琴音は最後には自虐ネタに落ち着けてしまう。治る暇もなくそうして塩を塗り込んでいくから、琴音の心の傷は日増しにひどくなっていくばかりだ。



 そうやって自ら進んでボロボロになりながら過ごしていたある日のことだった。琴音のもとに、不思議な手紙が届いたのは。


「この住所は花代おばちゃん? ……じゃない。“喫茶 丸屋”って……?」


 その日もリビングでアルコールを摂取していた琴音は、「あんたに手紙よ」と母に渡された封筒をしげしげと眺めた。

 差出人の住所は大叔母の住んでいる場所にほど近いのだけれど、その名前にはまったく覚えがなかった。

 ともあれ、開けてみないことには何もわからない。ソファから立ち上がってペーパーナイフを取ってくるのも億劫で、琴音は指先を封の隙間に突っ込んで、ペリペリと開封した。


「……仮雇用契約書?」


 封筒から出てきたのは、一枚の書類だった。パソコンで印刷したのとは違う、独特の風合いの書面だ。おそらくタイプライターの文字だろう。


「なになに……契約期間の定めなし、従事すべき業務の内容は九田屋に関する業務……?」


 仮雇用契約書と書かれたそれは、始業・終業時刻や出勤・休日などについて記してある、ごく一般的な契約書だ。無茶なことは書かれていないし、賃金も悪くない。

 ただ不思議なのは、どうしてこんなものが突然送られてきたかということだ。


「契約書って聞こえたけど、もしかしてあれじゃない? 花代おばちゃんがあんたに仕事を紹介しようかって言ってたから、その話かも」

「あ、やっぱりおばちゃんか。……確かに、仕事はありがたいなあ」


 キッチンから様子を見守っていた母に言われ、ようやく合点がいった。得体の知れないものではないとわかって訝る気持ちが薄れると、なかなか魅力的な紙切れに見えてくる。

 家でやさぐれているのも今の琴音にとって必要な時間ではあったものの、いつまでも続けるわけにはいかないことはわかっていた。

 両親は傷ついた娘を優しく迎え入れてくれたけれど、このまま居座られては困るだろう。生活費を入れてはいるものの、たぶん気になるのはそういったことではない。

 それに何より、どう生活するにしたってお金は必要だ。このまま貯金を切り崩していくにしても限界は来る。


(……働かなくちゃ)


 そう強く思った途端、ふっと身体の力が抜ける感覚がした。

 それから、操られるように立ち上がり、ペンを握り、書類に記名していく。


「え? なに? なにこれ?」


 身体が勝手に動いていると気がついたときには印鑑を取ってきていて、朱肉にポンポンして押印してしまっていた。


「きゃっ……!?」


 その直後、ポンッという音とともに白い煙が上がり、視界を塞いだ。軽くパニックに陥った琴音はブンブン手であおいでそれを晴らす。


「え……?」


 突然目の前を覆ったその煙は、あっけなく消え去った。けれど、その代わりに自分の視界が様変わりしてしまっていることに気がついた。


「……なにこれ?」


 まず最初に気づいたのは、テレビの中の異変だ。その日もいつものように恋愛映画を見ていたのだけれど、あきらかに余計なものが映り込んでいたのだ。

 それは糸だった。細い糸が無数に、画面を縦横無尽に走っている。

 ごく細い糸だから邪魔ではないけれど、だからこそ違和感を覚えた。目を凝らさなければ見えないし、煙が目の前を覆う前まではそんなものはなかったのだから、演出ではないのだろう。

 ゴミでも入ったのかと思って目をこするも、それらは変わらず視界の中にありつづけている。それどころか、画面の中に走る糸が自分の指からもどこかへ伸びているのを見つけてしまった。

 小指から伸びるうっすら赤いその糸は、掴もうとしても一向に掴めない。触れようと思っても、触れられないのだ。

 テレビのほうに視線を戻すと、画面の中の糸がそれぞれ俳優や女優の小指から伸びているのがわかった。中には、糸端が別の誰かの糸と結びついている人もいる。

 それを見て、琴音は気がついた。


「……これって、赤い糸ってやつ?」

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