塔の管理人
イライアを送り出してからしばらくすると、また塔の階段を上る音が聞こえて来た。いつもこの塔の管理人が来る時間なので驚かない。
部屋の前で足音が止まる。次いでノックの音が聞こえた。どうぞと返事すると、扉が開いた。
「昼餐の時間ですよ、ビバル殿下」
その言葉と共にこの国の王太子であるエルナンとその従者のミゲルが入って来た。ミゲルは皿の乗ったトレーを持っている。
食事の内容はいつもと同じ。野菜スープと小さなパンが一つ。十七歳で育ち盛りのビバルにとっては信じられないくらい少ない。
とは言ってもこれでよくなった方なのだ。エルナンの前の管理人の頃は、ほとんど水と言っていいほどの薄いスープと、どこから持って来たんだと言いたいほどのカチカチのパンだった。それも一日二食だけ。おまけに朝食のスープは前日の残りなのかとても冷たかった。
それが三年前にエルナンが管理人になってから、待遇がかなりよくなった。食事は三度に増えたし、 朝食は温かいミルク粥に変わった。昼食と夕食のスープは分量が少し増えた上、具が入って味がつき、パンも焼きたてのものになった。おまけに週に一度だけだが、夕食に肉料理がつくようになったのだ。
そして嬉しい事にエルナンはここではビバルの母語であるレトゥアナ語で会話してくれるのだ。『自分の勉強』という名目だが、もうほとんどネイティブに近いくらい話せているのが分かる。ミゲルも簡単な会話ならレトゥアナ語でしてくれる。
ここまで気を使ってくれているのだ。人質の身でこれ以上贅沢を言ってはいけない。
だから微笑んでお礼を言う。
その様子をエルナンは申し訳なさそうに見ている。
「すみません。もうちょっと僕に権限があれば」
ここまでやってくれているのにまだ足りないと言う。
「いいえ。エルナン殿下のせいではありません」
「そうですね。悪いのは……」
「セドレイ様!」
その言葉をミゲルが止める。つまり『悪いのは父だ』と言おうとしたのだろう。エルナンが苦々しい顔になる。
それにしても『セドレイ』とは何だろう。彼のもう一つの名前だろうか。いつもミゲルはエルナンの事を『セドレイ様』と呼ぶのだ。
「ビバル殿下もお食事が冷めてしまいますよ。はやくお召し上がりください」
とばっちりで叱られてしまった。すみません、と謝る。
そして小さな声でお祈りをしてからスープを口に運んだ。
「そういえば先ほどここで妹を見たような気がするのですが」
さらりと言われ、固まる。
「えっと……」
イライアのためにも『気のせいです』と言ってあげるべきだろうか、と思案する。だが、彼女の容姿を思い浮かべた途端にそんな思いは消える。だからきちんと説明した。
「乗馬の授業をサボったのか。まったく。あの馬鹿妹は」
呆れたあまり、エルナンの言葉がアイハ語に戻っている。そして口も少し悪くなっている。『サボった』という言葉は聞いた事はなかったが、文脈から『ずる休みをした』という意味だと考える。
「これで三度目か。そろそろ叱らないとな」
ぽつりとつぶやかれた言葉に驚く。回数まで把握しているとは思わなかった。
「知ってたんですか?」
「僕はここの管理人ですよ。誰が侵入したのかはきちんと確認して記録してあります。ただの悪戯かと思って放置してたんですが、三回目となるともう許すわけには。まったくこの忙しい時に何をやっているんだか」
「忙しい時?」
「秋に大規模な舞踏会があるんですよ。他国からの者も大勢招待されているんです」
笑顔で言うのは素なのだろうか、それとも嫌がらせなのだろうか。
ため息をつきたいのをこらえつつ。パンの最後の一口を口に入れる。
この後は勉強の時間だ。とは言っても教師がつくわけではない。最初の頃はエルナンとミゲルが毎日一時間ずつ読み書き計算を教えてくれたが、今は週に二度ある算術以外は独学だ。
いつも通りに昨日までに読んだ本を返し、新しい本を渡してもらう。それだけだ。だが本の内容で分からない所がある時は、聞けば教えてもらえるので全く困らない。
渡される本の分野はかなりバラエティーに富んでいる。城の図書館から借りて来たのではないかと思ったくらいだが、これはエルナンの蔵書らしい。体が弱く、よく熱を出し、暇な時間が多かったせいで自然と本が増えたそうだ。今は熱を出す回数は減ったが、一度体調を崩すと数日はベッドにいなければいけないほど寝込むのだと言っていた。
今日から読む本は動物の生態についての本だ。最近本の内容が専門的になったのを感じる。昔は一日で読めるくらいの本だったが、最近は一冊につき三日か四日くらいかかる。昨日まで読んでいた歴史の本など、五日もかかって読んだほどだ。
本を渡してもらったら用事は終わりだ。エルナンは王太子なのでとても忙しい。こうやって時間を割いてくれるだけありがたいのだ。
人がいなくなった部屋は途端に広々と感じてしまう。今日は午前中にイライアが来た分余計にそう感じるのだろう。
同情されているのだろうか。それとも利用価値があるか調べているのだろうか。容姿だけで判断するのは良くないが、彼女の父であるアイハ王によく似ている王女だ。性格はまだ詳しくは知らないが、それもアイハ王に似ているのだろうか。そういえば初対面のときはずいぶん高圧的な態度だった事を思い出す。
ビバルがこの塔のたった一人の住人だ、と言っても信じず、『もう一人いるはずだ。出せ』と冷たく命令して来たあの声は忘れたくても忘れられない。さすがに事情を知った時は顔色を青くして謝っていたが。
なのに今日彼女にまた来ていいと言ったのは何故だろう。かなり人恋しくなっているのだろうか。
これ以上考えててもきっと答えは出ないだろう。出たとしても虚しくなるだけだ。
ため息を一つ吐いてから、ビバルは先ほど渡された本を手に取った。