海
第二章の「2」スタートです。
次の日の朝一番にイライアが見たのは、隣で気持ちよさそうに眠る夫の姿だった。
「……え?」
思わず間抜けな声を出してしまう。
昨夜、ビバルはイライアと夜伽はしないと言っていたはずだ。そして夜伽を拒絶した男というものは、朝にはもう寝台にいないものではないのだろうか。夫に冷遇されている貴婦人がよくそんな事を言って嘆いていたはずだ。
それでは何故ビバルはここにいるのだろう。
話しかけたいが、あまりに幸せそうに寝ているので邪魔したくはないとも思ってしまう。
考えても仕方がないので寝台から降りる。何とはなしにカーテンを少しだけ開ける。そうして目を見開いた。
外に見えたのは見るからにさらさらしている薄茶色の土と、遠くまで続くとてつもなく広い池だった。おまけにその水が白くなり、こちらの方に向かって来る。そしてしばらくするとまた奥の方に戻っていくのだ。
水が動くなど魔術でなければあり得ない。でもここには魔力持ちはあまりいないとセルジが言っていた。ではこれは何だろう。
しかしこれは綺麗な景色だ。ずっと見ていたいと思う。水に魅了の力でもかかっているのかもしれない。でも水に魔力がこもっているなんて事はあり得るのだろうか。兄からもらってレトゥアナに持って来た魔術書にはその事は書いてあるだろうか。
「……ひ。王妃!」
いきなり後ろで大きな声がする。慌てて振り向くと、ビバルが立っていた。しかもいつのまにか着替えている。
「お、おはようございます、陛下」
「海を見ていたのですか?」
「『うみ』?」
聞き慣れない言葉につい聞き返してしまった。
「ああ。そういえばアイハ王国は海に面していませんでしたね」
「あれは『うみ』と言うのですか?」
興奮して尋ねると、ビバルは苦笑した。
「とりあえず着替えてください。朝食の時に説明します。その前に王宮内神殿に礼拝に行きましょう。私は部屋の外で待っていますから」
「では急いで支度しますね」
ビバルの優しい提案にイライアは一も二もなく頷いた。
****
テーブルには、ニンジンのポタージュ、白いドレッシングのかかったシンプルな生野菜サラダ、腸詰め、スクランブルエッグ、数種のパンがお行儀よく並んでいる。丁寧に作られているようでどれもこれも美味しそうだ。もちろん毒がないことは確認済み。いつものイライアならご機嫌でフォークをとるのだが、今日はそれどころではなかった。
「ビ、陛下、『うみ』について教えてください!」
「まず食べましょう。冷めますよ」
ビバルが苦笑している。それもそうだ。
気を取り直してイライアはスプーンをとる。まずはきれいなオレンジ色のスープを一口。
「あまい」
柔らかな甘みが口の中に広がり、自然と顔が緩む。だが、何故だろう。侍女がどこか怯えて見える。
「王妃、アイハ語になっていますよ」
ビバルが小声で注意して来る。そういえばアイハ語の『甘い』という言葉はレトゥアナ語では『甘ったるい』という意味になるのだという事を思い出し、レトゥアナ語で言い直す。言葉は似ているのにどうして細かい単語がちょこちょこ違うのだ、と心の中で悪態をつきながら。
「慣れてくださいね、レトゥアナ語に」
「はい」
しょんぼりとしてしまう。
「ところで陛下、これはお砂糖か何かが入っているんですか?」
ビバルは首を横に振る。彼によると、これがにんじん本来の味なのだという。アイハで濃い味付けのものばかり食べていたイライアには新鮮に感じる。
「美味しいですね」
「料理長も喜びますよ」
昨夜の事などないような穏やかな時間が過ぎる。
食後のお茶の時に、海についても教えてもらった。
あの動く水は魔術ではなく、風で動いていたらしい。何よりイライアが驚いた事は海は塩水で出来ているという事だ。白くなって動くのは『波』という現象で、あの薄茶色の土は『砂』というのだという事も教えてもらった。知れば知るほど不思議な場所だ。
イライアが朝見た場所は王家が所有している海岸で、イライアも自由に行っていいのだという。
朝食が終わったら早速行ってみようと考える。
「もしよかったら朝の授業が終わってから一緒に海岸を散歩しましょうか?」
その言葉に、イライアは思わずビバルを凝視してしまった。
「な、何ですか?」
「陛下が案内してくださるのですか?」
「昨夜、城を案内すると約束したでしょう。あそこも王城のうちですから。それに勝手に出歩かれて変な事をされては困りますからね」
変な事って何だ、と言いたいのをこらえる。つまりアイハからの使いか誰かと連絡をとるのではないかと疑われているのだろう。そんな者などいないが、これから接触して来るかもしれないので気をつけておこうと考える。
とりあえず、海を間近で見れるというのは嬉しい。
「その前にきちんと授業を受けてくださいね。ずる休みはいけませんよ」
いきなりそんな事を言われる。そういえばビバルが幽閉されている時に、乗馬の授業を抜け出して塔に遊びに行った事があった。きっと彼はその事を言っているのだ。正直に答えるのではなかったとイライアは肩を落とす。
「わかりましたね?」
「わかりました」
少なくとも毎日同じ内容ばかり勉強するなんていう事はないだろうから問題はない。
レトゥアナでの授業はどんなものなのだろうとわくわくする。本来イライアは勉強は嫌いではないのだ。
まあ、少なくとも兄ほど厳しい授業をされる事はないだろう。
気持ちを切り替え、イライアはカップに残っていたお茶を飲み干した。




