プロローグ
その男は突然姿を現した。
『ように見えた』などではない。本当に瞬きする間に目の前に立っていたのだ。暗殺者や間者は普通の人の目に見えない速さで動くと聞いている。きっとこの男もそうなのだろう。
「何者だ?」
怖い、という気持ちを必死に隠しながら、ビバルはその金髪の男を睨みつける。
ものすごく体格のいい男だ。筋肉が発達しているのが服を着ていても分かる。ビバルは今までこんな男を見た事がなかった。きっとこの国の近衛兵の中で一番強い男性でもこの男にはかなわないだろう。
それにしてもこの男はかなり仕立ての良い服を着ている。どこかの貴族なのだろうか。でも貴族が暗殺者などになるだろうかと不思議に思う。
「レトゥアナ王国の第二王子、ビバルだな?」
「そうだが、そなたは誰だ? 王子の部屋に無断で入るとは無礼ではないのか。それから呼び捨てにするな」
男は楽しそうに笑う。馬鹿にされているのだろうか。ビバルは機嫌を害する。
「お前を私の城に招待しようと思ってな」
その『招待』が友好的なものではない事は七歳のビバルにも良く分かった。つまり自分はこの怪しい男に誘拐されそうになっているのだろう。
父と母は公務で留守だ。その隙を狙って来たのは分かりきっている。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。扉の外にはいつも通り侍女侍僕、そして護衛が控えている。彼らを呼び出す方法もビバルはきちんと教えられている。
急いで机に飛びつき緊急用のベルを鳴らす。だが、予想に反して誰も来なかった。
城の中に大きなベルの音だけが虚しく響く。
あまりの事に呆然としているビバルを見て男は大笑いをする。明らかに馬鹿にしている笑い方だ。
「どういう事だ。みんなに何をした?」
「なに。簡単な事だ。眠らせたんだよ。私が用があるのはお前だけだからな」
男が満足そうに唇を歪めたその時だった。
「そこまでだ!」
鋭い声と共に数人の兵が駆け込んで来た。そしてそれを指揮している見慣れた顔にビバルの顔から安堵の笑みがこぼれる。
「兄上!」
ビバルの大好きな兄で、尊敬している王太子殿下。彼が来たのならもう大丈夫だ。きっと城の外にいる近衛が気づいて知らせてくれたのだろう。
喜んでそちらに駆け出そうとした。だが、男がビバルをつまみ上げる方が先だった。まるでおもちゃのように持ち上げられ改めて恐怖が巻き起こる。
離してくれ、と叫びながらじたばたしてみたが男はびくともしない。
「マルティネス陛下、弟に何をしているのでしょうか」
マルティネスとは隣の大国アイハの王の名前だ。王が自ら自分を攫いに来たのか。改めて恐怖が沸いて来る。
「見ればわかるだろう」
「ふざけるな、と言っているのがわからないのですか。弟を返してもらいましょう。でなければただではすみませんよ」
ビバルには恐ろしく聞こえる兄の鋭い声も男には何も効果がないようだ。不気味に嗤っている。
「何がおかしい!」
「いや、こんな子供が何を出来るのかと思ってな」
「あ、兄上はもう十歳だ!」
兄は立派なのだという意味を込めそう言うと、何故か周りのみんなが頭を抱えた。
「ああ、十なら伝言くらいは出来るだろうな。お前の父親に伝えよ。ビバル王子を返して欲しくば我が国に攻めて来い、とな」
その言葉に兄は盛大に顔をゆがめた。
しばらく兄と男の睨み合いが続く。
先に口火を切ったのは兄だった。
「マルティネス陛下。こんな事をしてもこのレトゥアナ王国はあなたの手には落ちませんよ」
マルティネスの眉が潜まる。
「どういう意味だ?」
「ですからレトゥアナ王国がアイハ王国の属国になる事も、滅ぼされてアイハ王国の一都市にもなることはないと言っているのです」
それが真実だと錯覚しそうな声色できっぱりと兄は言った。
「小僧が偉そうな事を……。その強がりがいつまで続くか見物だな」
男が憎らしそうにそう言った直後、彼の足下に怪しげな模様が書かれた円が浮かんだ。
「魔術か……」
兄が悔しそうにつぶやく。魔術というのは魔力という不思議な力でいろいろな事が出来るものだと聞いている。つまり自分はその不思議な力で——。
「嫌だ! 離せ! 離せ!」
無駄なのは分かっているが必死にもがいた。男は動じる事なく片手でビバルに粉を振りかけるような仕草をした。彼は何も持っていなかったはずなのに何故か黒い粉が降って来て視界がゆっくりと暗くなっていく。
「ビバル!」
兄の悲痛な声を最後にビバルは意識を手放した。




