Liberate Te Ex Inferis
この作品には実在する一切の国、軍、その他団体は関係ありません。戦争を美化する意図も、肯定する意図もありません。時代考証は不徹底です。作者は軍事にも歴史にも詳しくありません。また、実在する病気を実際とは異なった症状で描写しています。
あくまでフィクションとして、雰囲気でお読みくださいますようお願いいたします。
「幻肢痛だね」
カルテをペラリとめくりながら、腐れ縁のシュミット医師は呟いた。病院にしては、この部屋は明るい。天井近くに開いた窓から柔らかな日差しが差し込み、宝石のようなカットガラスが連なるモビールは七色の光を放っている。
「ゲンシツウ?」
男は聞きなれないその病名を問い返す。
年の頃は五十も半ばといったところか。灰色の髪を撫で付けた横顔美しい容貌は銀幕を飾るスタアにも遜色なく、若い頃はさぞかし浮名を流したであろうと思われる。痩せぎすとも言えるほど無駄のない体躯はナイフのごとき鋭利な雰囲気を纏い、男が一般人――真っ当な人間――ではないことを窺わせた。
身を乗り出したからか、右足がリノリウムの白い床をきゅっと滑る。シュミット医師は透かしていたレントゲンを無造作にデスクの上へと投げた。
がっしりとした大樹の枝のごとき骨格に、白いもやのように筋肉がついている。それは右足の写真だ。
「あるいはファントムペイン」
「……もっと分かりやすく頼む」
「ない筈の手足が痛む症状さ」
眉間に皺を寄せた彼のことは見向きもせず、シュミットは傍らに置かれていた木製の足を手に取った。確かめるようにコツコツと数度叩いて、カルテに何事か書き込む。
「文字通り、それは魂の痛みだ。お前さんの魂が、悲鳴を上げている」
「……心当たりが多すぎて敵わんな」
「だろうな。誇り高き十字を負うた、マルクス・ヴェルナー大佐には」
空いた左手がしばらくがちゃがちゃと木の足を弄んでいたので、玩具ではないのだと声を掛けようとしたが、男が息を吸ったそのとき、医師はくるりと椅子を回して足を差し出した。
手渡された義足を受取って、男――マルクスは、自嘲するように口許を吊り上げる。
――何が誇りだ。あんなもの。
しゅるしゅるとベルトを巻いて、彼はゆっくりと「足」を嵌めた。
(――大佐)
掠れた声が彼を呼ぶ。マルクスが最期を看取った部下の声だった。
シュミットはカルテにさらさらと書き込みながら、ふと思いついたように顔を上げた。丸めがねがキラリと光る。マルクスは反射的に背筋を伸ばし身構えた。この男の思いつきに、彼はいつも振り回されているのだ。
「どうだ、マルクス。リハビリがてらウチの孫の面倒を見ないか」
「……は?」
いい年をした悪友の提案に、マルクスの切れ長の瞳が丸く見開かれる。
孫――子どもの面倒を見ろと? 俺が?
「お前の症状は精神的な問題だ。子どもでも見て癒されるといいだろう」
「子どもは苦手だ、第一、扱いが分からん」
「大丈夫だ、ウチの子は頭がいいからな。お前を困らせるようなことはせんよ」
「お前っ」
先ほどまでの冷淡さまで感じさせる空気はどこへやら、マルクスは左足をカチャカチャと鳴らしてシュミットに詰め寄る。少々生え際の後退してきた額にボールペンを当てながら、彼は有無を言わさぬような完璧な微笑みを見せた。
「夏休みの間、一ヶ月。どうだ?」
断らせるつもりなど毛頭ないくせに。
人好きのする笑みで患者に人気のある好々爺、もとい存外策士な友人の策に、マルクスはこめかみを押さえながら溜め息混じりに「……ja」と答えた。
日付は、時間は。あれよあれよとシュミットは孫を預ける算段を決め初め、看護婦長に叱られるまで計画を練っていた。
最終的にマルクスはナースキャップを振り落とさんばかりの勢いでまくしたてる婦長に押されて診察室から追い出されることとなったのだが、元凶であるシュミットはそんなことは日常茶飯事とばかりにカラカラと笑った。
「いやあ、息子夫婦が仕事で国外に出てしまうものでな。私もしばらくは学会で立て込むし……退役軍人は暇だろう?」
「お前そっちが本音だろう……」
マルクスは本日二度目の溜め息を大きく吐いて、幸せが逃げるとからかわれる。逃げるような幸せなど端から持ち合わせていないというのに。
植え替えたばかりの薔薇にはまだ棘もなく、指先で触れればしっとりと吸い付くような水気が感じられた。
日々の手入れが行き届いているからこそ、花は美しい。水やりを終えて森と一体化したような庭を抜けると、乾いた石畳をたどって屋敷が見える。白い壁は半分ほど蔦に覆われ、チョコレート色の屋根を乗せた丸いフォルムのその家は、端から見れば童話の中から飛び出してきたようである。山の中腹に建てられたそこに、男は世間の喧騒から離れてひっそりと暮らしていた。
ケトルで湯を沸かし、冷蔵庫からトルテを取り出したところでマルクスは柱時計を確認する。
そろそろ約束の時間だ。
彼が杖を取ったとき、男の不機嫌そうな様相には不似合いな、明るいチャイムの音が鳴り響いた。
「おはよう、マルクス。相変わらずこの屋敷は主人ばかりが辛気臭いな! 折角庭も綺麗なのに」
「……おはよう、フリッツ。文句があるなら帰れ」
「待て待て、そう言うなよ! 私はお前のトルテを食べに来たんだから」
木製の古風なドアを開けると、ソフト帽を被った友人が朝から元気溌剌とした様子で立っていた。形式的に挨拶だけしてさっさとドアを閉めようとすると、フリードリヒ・シュミットは大人気なく革靴の足を挟みこんでくる。
冗談だ、と抑揚なく告げて、マルクスはドアを開いた。淡々と話すこの男の冗談は、どこまで信じられるのか分からない。
「ほら、ジジ。おじさまにご挨拶なさい」
キャメル色の薄いサマーコートを脱ぎながら、シュミットは背に隠れていた小さな影を前に出す。マルクスがついと灰色の瞳を向けると、影はびくっと肩を跳ねさせた。
「はじめまして、たいさ。ジゼル・シュミットです」
舌っ足らずなカナリアの声。ふわふわしたブラウンの癖毛と、宝石のような青い目。余所行きの紺色のワンピースを摘んで、少女と呼ぶのにもまだ幼いような女の子がちょこんと頭を下げた。
(――大佐、貴方はどうか、生きてお戻りください。貴方はもっと生きるべきだ。もっと、まともな世界で)
ヒュウヒュウと喘鳴を零す口の端から、赤い泡がプクリと生まれ弾ける。その瞳からは、うつくしい紺碧の瞳が溶け出したかのようにして涙のしずくが伝っていた。
もういい。もう喋るな。生きるべきなのはお前の方だろう。だってまだお前は、こんなにも若いのだ。
叫びたいほどの衝動に胸は締め付けられているというのに、己の喉はさながら熱せられた鎖を巻かれているようにじくじくと痛むばかりで言葉を発せない。
(大佐。大佐……。どうしてこんなに……酷なことがありましょうか……)
抱き上げた部下の身体が急速に冷えていく。張りのある青年らしいみずみずしい肌は色を失って陶器のように固まった。腕にずっしりと残るのは肉の重さ。生命の重さ。失ってようやく、命を感じる。そんなことはもう手遅れだというのに。
奪い奪われるのは容易く、背負い背負われるには重い。
ああ、どうしてこんなにも――
「――っ!」
カッと目を見開き、マルクスは布団を跳ね除けた。
「……はっ、……はっ」
肩で大きく息を繰り返し、片手で顔を覆う。にじみ出た脂汗がこめかみを伝い、痩せて浮き出た鎖骨に落ちる。寝巻きやシーツが湿って不快だった。
マルクスはよく夢を見る。それは大抵が昔のことで、こうして彼に不愉快な朝をもたらすものであった。
「ぐっ――」
そしてもう一つ。
上半身を起こした姿勢のまま、マルクスは左足を抱きかかえるようにして蹲った。昔の夢を見た後や、関連した話題に触れたとき、必ずそれは訪れる。ズキズキだとかジクジクだとか、そんな生易しい痛みではない。ぎちぎちと機械万力で締め上げられるような痛みが「無いはずの左足」を襲う。
足を挟まれ、固定され、組織を断たれ、血が噴出すところまで容易に想像できる。全ては存在しないものであるというのに!
「――……こんな痛みが、幻であるはずがないだろう」
時計の針が示したのは十分にも満たない。けれどその痛みは永遠に続くかのように錯覚された。ようやく発作をやり過ごした頃、マルクスの腕には爪の痕が三日月形に残っていた。
かくして、彼女との日々は始まった。
自分の腰より下でちょこまかと動く存在との生活は家族のないマルクスにとって無論初めてであり、様々なことに気を遣う。それこそ、予想外に。
マルクスに任されたのは、半ば家庭教師のようなものであった。ジゼルの読み書きの勉強を見てやること。同時に、本を読んでやること。ピアノのレッスンに付き合うこと、庭いじりの手伝いをさせること、家事を手伝わせること。
人に物を教えるのは随分と久々のことだが、子どもに物を教えるというのは輪をかけて難しい。彼が教えてきたのはみな青年で、そして彼が教えてきたのもこんな穏やかな庭仕事などではなかった。
「触るな、傷がつく」
「あ」
草の間に埋もれるようにしゃがんでいたジゼルの上に紺色の影が出来た。ぼそりとつぶやくようなマルクスの言葉が怖かったのか、小さな少女はびくりと大袈裟に肩を跳ね上がらせる。彼女の祖父はマルクスとは違い、柔らかく穏やかな声で話すから、おそらくその息子――ジゼルの父もそうなのだろう。こうした話し方には不慣れなのだと思われた。もっともこれは彼の習慣だから、変えてやるつもりもないけれど。
「ご、めんなさい、たいさ」
完全におびえられている。ジゼルの、星をまぶしたような青い瞳がじんわりと陰った。祖父の友人とはいえ、こんな不愛想な男に預けられてかわいそうにとどこか他人ごとのように思っていたマルクスは、今に至って彼女の言葉に不自然な点があることに気づいた。
「誰から教わった」
「え?」
「お前は、俺を大佐と呼ぶだろう」
聞かなくとも自明であった。この幼い子どもはおそらく、その呼び名の意味も重さも知らない。そしてその名が彼にもたらす苦痛も。わざとなのだろうな、とマルクスは古い友人のしたり顔を思い浮かべた。いま現在その名を意識させることで、逆に俺の意識を過去から逸らすつもりか。
「おじいさまがだいじにしてる、おしゃしんがあるの」
「写真?」
「そう。ふるくてしろくろの。たいさとおじいさまがうつってた」
しかしながらジゼルが舌っ足らずに説明する呼び名についての話は、いささか彼の予想とは異なっていた。
「すてきなぐんじんさんで、びっくりしちゃった。それで、おじいさまにきいたら、マルクスおじさまだよ、このときにはたいさだった、っておしえてくれたの」
だからあなたはわたしのたいさ。
ジゼルは足元の土を小さな手のひらでざりざりと弄りながら照れている。彼女にとってその呼び名は、ただ「すてきなぐんじんさん」を形容するためのものなのだ。
(――大佐)
誰かの声がする。お前の名前は何だったか。
大佐。ヴェルナー大佐。
そうやって彼を呼んだ者たちの大半は泥の中に骨を埋めた。チリ、と左足が痛む。忘れるものか。忘れてはいない。
「おじさまのこと、たいさってよんじゃだめ?」
たいさ。
軽やかな子どもの声で発音されるその名は、随分と穏やかに聞こえた。ここにはもう戦火はないのだと如実に感じさせる呼び名であった。
「……好きにしろ」
大きくため息をついたマルクスは、肥料を取りに行くため納屋へ向かう。それに気づいたのか、ジゼルがスコップを探しに道具箱を見に走っていく音を背後に聞いた。よく気がつく子である。
ぎいい、と重い音がした。扉を開けて、差し込む陽光を頼りに肥料の袋を探す。薄暗い納屋の中は土のにおいがこもっている。どこか懐かしいにおいだ。土埃のにおい。
大佐。
誰かの声がする。いや、誰かではない。お前の名前はベルマンだったな。
「おはよう、たいさ」
「……ああ、おはよう」
ジゼルは確かに、シュミットの言ったとおり賢い子供だった。親の躾が上手いのか、この年の子どもにしてはきちんとしており、朝も自分で起きてくる。夜だけは寝かしつけてやらないといけなかったけれども。
幼子を寝かせるなど経験のない事態だったので戸惑ったが、シュミット曰く本でも読んでやればいいとのことだったので、二三日もするうちに慣れた。子守唄でもいいぞ、と冗談めかして言われたときに彼の足を踏みつけたのも記憶に新しい。
「きょうのごよていは? たいさ」
「朝は庭仕事だ。終わったらピアノのレッスンだぞ」
「おひるからは?」
「その時考えればいい」
「りょうかいであります!」
今朝の食事はマッシュポテトと庭で取れたレタスのサラダ、ジゼルがリクエストしたオムレツにベーグルだ。
一人でいると朝食など疎かにする事も間々あったので、そういった意味でもこの規則正しい生活はリハビリに最適かも知れないとコーヒーを飲みながらマルクスは思った。
窓の外から朝日が差し込んで、にこにことご満悦でオムレツを頬張るジゼルの髪がきらきらと光る。つむじの辺りに寝癖がついたままだ。直してやらなければ。
穏やかな日である。けれど彼の存在しない脚は今日もじくりじくりと痛んでいた。忘れていない。まだ彼は、忘れていない。
曇天の下。
崩れた瓦礫の山から火が出始めている。やがてこの町は炎に飲まれるだろう。なぜ自分がこんな場所を歩いているのか、男にはわからなかった。
(かえして)
突然、ズボンのすそをぐいと引かれる。
見れば、赤子を抱いた煤だらけの女が地面に這いつくばっていた。女の服はあちこちが焦げて肌が露出し、怪我をしているのか右足はべったりと血に汚れていた。そしてその腕の中の赤子は……。
赤子? いや、これは子供ではない。女の腕に抱かれたそれは大きさこそ子供のようだが、赤黒い肉が露出したそれはもはや――。
(かえしてよ、ねえ! ねえ!)
ねえ、ねえ、ねえと叫んでいる。キンキンと頭に響く声だった。脳みそを掻き毟られるような不愉快さがあった。じきにここにも火が回る。男は仕方なく、足にしがみつく女の腹を蹴飛ばした。女は崩れたレンガ塀にぶつかり、しばらく低く呻いていたがやがて叫ぶのをやめた。
(大佐殿、お早く!)
泥まみれの車に乗った部下が呼ぶ。ああ、本営に帰らなければ。すん、と嗅いだ袖は煙臭い。不快さに顔が歪むのを自覚したが、鼻につくその臭いを落とす暇もない。次に行くのも、どうせ火の海だ。
青か紫のまざったような灰色の煙がゆらゆらと立ちのぼる。それが天井に届くころ、下方から鋭い声が上がった。
「ダメよ、たいさ! おタバコはからだにわるいのよ!」
「……年寄りの楽しみを取らないでくれ」
マルクスは煙草を嗜むが、ジゼルがやってきて以来は副流煙がなんだとシュミットが口うるさく言うので、彼女が寝た後などに屋外で吸っていた。
ジゼルが庭で遊んでいたので油断したのだ。今日はテラスで新聞を開きながら火をつけてしまっていた。
「ほら、ポイしなさい」
用意周到に灰皿を差し出すこの子は末恐ろしい。腰に手を当てて胸を張る仕草は、おそらく母親が彼女を叱るときの癖なのだろう。やれやれ、困ったものだ。フウと溜め息混じりに紫煙を吐き出したとき、ジゼルがぴたりと止まって口を開けた。
「――わっか!!」
彼女はぱっと目を見開き、灰皿を持ったまま飛び跳ねようとするので、マルクスはさりげなくジゼルの手から灰皿を取り、テラスの白いテーブルの上に置く。
「わっか?」
何のことだ。マルクスはわっか、わっかと繰り返すジゼルを怪訝そうに見つめて再び煙を吐く。わっか、などと幼稚な言葉がこの男の口から発せられるのを聞けば、旧友はビール腹を捻じ切らせていたかもしれない。
「たいさ、すごい! わっか!」
見上げれば、彼がぷありと吐き出した煙が――ゆっくりと空に昇る煙の玉が、やがてドーナツのように輪になった。マルクスには無意識のことだったのだが、ジゼルにはどうやら煙が突然形を変えるので面白いようだ。彼女の家の者に喫煙者はいなかったはずだから、煙の輪など初めて見るのだろう。なるほど、この手があったか。
「もっと見たいか?」
「みたい!」
「煙草を吸っても?」
「うぅぅ……。……みたい」
彼があえて尋ねると、ジゼルはぎゅうと眉間に皺を寄せ、苦渋の表情で決断をする。こうして幼子を言いくるめるのはなかなかに意地が悪いと自覚はあったが、マルクスはその後もしばらく煙草を吸うことに成功した。もう一度くらいは、この手が使えるだろう。
目まぐるしいとはまさにこのことだ。
小さなジゼルがマルクスの杖を預かりながらキッチンをうろつく様は危なっかしいことこの上ないし、隙あらばクリームやらフルーツやらに手を伸ばしているのだから油断ならない。
(君は料理人のほうが向いているんじゃないか)
彼のクーヘンを頬張りながらニコニコと笑う赤毛の友人を思い出した。古い話だ。彼もまた、学生時代のマルクスの下宿へ転がり込んではこうしてつまみ食いをしていた。
たいさ、と彼を呼ぶ声がする。
見ればジゼルがキッチン台に懸命に手を伸ばして皿に乗せた苺を口に運んでいた。
「こら、ジゼル。摘み食いをするんじゃない」
「でもたいさ、あまらせるのはもったいないわ」
「後で使うんだ、後で」
かちゃりかちゃりと忙しく義足を鳴らしながらマルクスはキッチンを動き回る。ジゼルはトコトコと足回りをついていく。
今日のおやつはフルーツたっぷりのオプストクーヘン。
庭で採れた摘みたてベリーをざっと水洗いし、トルテ生地は先日の残りを使う。柔らかめに泡立てたクリームをぽったりと乗せて、フルーツをつなぐゼリーにはいつもならリキュールを加えるが、ジゼルがいるので今回は甘みだけを。
「すごいたいさ! このトルテきらきらしてるの!」
「ええい、跳ねるな! 危なっかしい!!」
赤や紫のベリーと半透明のゼリーが輝くトルテは確かに宝石箱のようである。ジゼルはぴょんぴょんと飛び跳ねて全身で喜びを表現する。しばらくすごいすごいと跳ね回っていたのだが、いざマルクスが冷蔵庫に仕舞おうとすると、余程トルテを見ていたいのであろう。ジゼルは不服そうな顔をした。
「冷やさないと食べられないぞ」
トルテは一度寝かせた方がおいしいのである。そう説明すれば、ジゼルはエプロンを外しながらむくれた頬のまま頷いた。この子はそういう仕草をするとまるで子犬か何かのようである。素直でよろしい。
じいっと視線を感じた。偵察されているといってもよい。それでも不愉快ではないのは、視線の主を知っているからである。子どもというのは恐れを持たず、まっすぐにひたすらに物を見つめる。ジゼルの大きな丸い目は好奇心を隠せない。
「たいさのおてては、まほうのてなの?」
「……ん?」
クレヨンで力いっぱいに画用紙を彩るジゼルが、不意に顔を上げて向かいで本を読むマルクスを見た。昼の勉強の時間を終えた、ゆったりとした時間だった。
「だってトルテやクーヘンがじょうずだし……おタバコでわっかもつくれるもの。でもね、たいさ」
なるほど子どもからすれば、見えないところでひょいひょいと事を成す大人とは魔法使いのようなものであるのかもしれない。マルクスはそうか、と頷いてジゼルの言葉の続きを待った。
「おじいさまのおてても、まほうなの」
「魔法?」
「おじいさまはね、どんなびょうきもなおせるのよ。まほうみたいでしょう?」
そういってジゼルがそのすごさを示すように手を広げたので、マルクスは少々虚を突かれた気分で目を丸くした。孫が生まれて以来だらしのない顔をし続けていた友人が、きちんとこの子から尊敬の眼差しで見つめられているという事実がこそばゆかった。
「ああ。そうだな」
彼はふっと口許をほころばせ、コーヒーカップに口をつけた。
「……で? 調子はどうだ」
シュミットに尋ねられてようやく、彼は近頃発作が少ないことに気付いた。一日に一度は痛み、天気の悪い日にはベッドから起き上がれないこともあったと言うのに。
ジゼルがマルクスの屋敷に来て以来、二週間ぶりの検診である。
「そら見ろ、うちの孫のお陰だろう」
「……そうかもしれんな」
待合室から、ジゼルが看護婦と手遊びをする舌ったらずな歌声が聞こえる。あのこは子どもだ。日だまりのように温かく、柔弱な子ども。まだこの世を十分に知らない。知らないからこそ、可能性を秘めている。
「あの子に何かあったら承知せんぞ。仕事とお前のリハビリのためとは言え、妻も私も涙を飲んで送り出したんだ」
「この孫馬鹿が……」
シュミットがマルクスの肩をボールペンでトンと叩いた。点検を終えた義足を嵌め直しながら、男は呆れ半分賞賛半分に言う。ベルトがしっかりと締められたのを見届けてから、シュミットはくるりと椅子を回した。
「お前は過去に囚われすぎている。適度な忘却は健康な精神のためにも必要だよ」
カルテを書き込みながら何気なく発せられたその言葉。
ガタン、と大きな音を立てて椅子が倒れた。
「マルクス?」
突然の物音に、シュミットが訝しげに片眉を吊り上げる。しかしマルクスはなにも言わぬまま、平生は涼しげな灰青の目をカッと見開いて立っていた。
「おい、マルクス」
握りしめた拳はわなわなと震え血の気が引いている。
――しまった。
シュミットがざっと白衣を捌いて立ち上がる。肩を掴んで覗きこんだ男の瞳は友人を映してはいなかった。そこにあるのは虚無、いや、炎だ。マルクスの青みがかった灰色の目は、二十年前の荒れ地を見ていた。
「……忘れていた?」
そうだ。忘れていた。目の前のことに気を取られて、彼は忘れてしまっていたのだ。
自分がどうして生き延びているのか。
「やめろ、やめろ、やめてくれ」
「マルクス、落ち着け、マルクス!」
脚が痛む。
噴き出し、締め上げられ、千切られる。灼け付くような痛み。倒れこんだ床は冷たくて思いのほか心地よかった。シュミットが体をゆすぶるが、もう瞼を閉じてしまいたい。
大佐。
――そこで俺を呼ぶのは、誰だ。
無数に転がる生き物の名残。もはや「それ」はただ「それ」でしかなかった。数日前までは確かにそこで命を紡いでいたというのに、今ではその原型を推し測ることも難しい。
(……おかあさん)
ぱちゃり。
一面の黒白茶色の塊の中で、動いている影が一つだけあった。おそらくは子ども。
(おかあさん、おかあさん)
ぱちゃり。
(……おかあさん)
ぱちゃり。
その丸まっちい手ではコップ一杯の水も掬えまい。
煤だらけの小さな女の子が、赤い水溜まりを掬っている。傍らには母親とおぼしき塊が横たわり、子どもはその破れた腹に必死になって水を――血を、戻しているのだった。
カツン、と乾いた靴底は存外大きく響いた。その音にぱっと振り返り、カーキ色の軍服を視界に入れると、子どもは母親の前で腕を広げた。
(……あっち行って)
痩せて骨と皮ばかりが目立つ腕だった。餓えのためか恐怖のためか、棒切れのようなそれはかたかたと震えている。
(なにもないから、あっち行って)
この辺りは壊滅だ。隣の町までは大人の足でも一日かかる。
――この子は恐らく助からない。
「殺せ」
背後で部下が銃を構える音がした。少女はゆっくりと瞼を伏せ、母の骸に覆いかぶさった。
(戦争からきらめきと美が失われてしまった)
上官は次々と報告される無機質な数字の羅列――それらは皆、戦死者の数や敵機の撃墜数だった――を片手であしらいながら語る。
(ここには英雄はいない。騎士の誇りもない。勇敢なる猛者たちが馬で戦場を駆け巡り、国の命運を決する時代は終わったのだ)
誰も彼もが夢を見ていたのだ。
戦争で武勲を挙げることで、自らは英雄になれると。それは誉れ高きことだと。そんなものはとっくの昔に廃れた因習だと、気づいたときには引き返せなくなっていた。
自らの手を汚さない兵器。より残酷に、より熾烈に。ただただ数だけをこなす。奪った命をいちいち背負っていられないほどに。
窓の向こうには硝煙を上げる街が広がっていた。
(……こんなものはただの虐殺だ)
誇りもない。讃えられもしない。ただ殺すだけの、まるで道具のように。
それならば我々は、何のために戦うのだ。
(祖国を返せ!!)
誰が好き好んで殺しなどするだろうか。
誰が好き好んで死のうとするだろうか。
ああそうだ。そんなものだ。
(……大佐!)
塹壕から部下が呼ぶ。
目の前に鉄の塊が近付いていた。
男は動かなかった。
操縦桿を握るパイロットが視認出来るほどに近い。そこにいたのは驚愕に目を見開いた少年兵だった。
硝煙。回転。墜落。
オレンジ色の光が数度瞬く。
幾つも筋を描いた弾丸が男の身体を撃ち抜いた。
(大佐……!)
誰かが、泣きそうな声で呼んだ―――
そこで目が覚めた。
見渡せば周りは西日に照らされた自室で、シュミットの診療所に入院させられたわけではないと知る。
随分と眠っていたようだ。マルクスは擦る足もない虚空をやんわりとなぞった。ないはずの左足は脈拍とともに血液の凝り固まったような鈍痛だけを伝えている。じくじくと、じわじわと。
「……忘れていた、か」
吐息のような独白を聞いたのは、書棚の本やランプだけであろう。
彼は夢の中で繰り返す。二十年前の凄惨な情景を、何度も何度も。そうして反芻することが、無意識下の戒めであり自罰なのかもしれなかった。
「……たいさ?」
キイ、とドアが押し開けられて、小さな影が覗く。夢の中で聞いたのと同じ呼び名をする影を視界に捕らえて、マルクスはさっと懐に手を入れる。シャツの中を探って、そこに拳銃など無いことを思い出した。
ジゼルだ。
覚醒直後で常よりも鋭い雰囲気を纏う彼に萎縮したのか、彼女は小さな身体をドアの隙間に挟み込ませるようにして半分ほど覗かせた。
「おじいさまがはこんでくださったの。ねるのがいちばんだ、って」
……入院させなかったのは半ば嫌味か。
マルクスは心の中で悪友に舌打ちした。ひじを突いてゆっくりと体を起こし、杖はどこだ、と問いかける。扉の横に立てかけられていた杖を持ってジゼルが静かにベッドへと歩み寄ってきた。
「たいさ、いたい?」
「いや、大丈夫だ。心配するな」
見上げる青い瞳は不安げに揺らいでいて、この子にも随分と気を使わせたのだろうと思うと申し訳なくなった。杖を受取り、カツンと床に突いて体重を掛ける。体には鉛のような倦怠感が纏わりついており、使い慣れているはずの杖の感触すら煩わしくて仕方ない。
「……おじいさまがいってたの。たいさはセンソウで、たいせつなひとたちをなくして、こころもからだも、ボロボロになって、そして、てつのバケモノにあしをたべられてしまったって」
立ち上がるのも億劫にしてベッドのふちに腰掛けたままのマルクスの額に手を当てて、ジゼルは神妙な顔で言う。子どもの柔らかく温かい手が、男を気遣って優しく髪を撫でた。
この子はおそらく、その言葉の意味の半分も理解していないだろう。
鉄の化け物。
確かにそうかもしれない。あれは化け物だ。火を放ち、町を焼き、兵士も子どもも皆殺す。それを扱う者の魂を貪り尽す。
マルクスはそっと目を伏せ、しかし続くジゼルの言葉にそれを見開くこととなる。
「だからたいさは、いろんなものをすててしまったって」
(お前はそうして捨てるのか。人並みの幸せも、愛情も、全て)
どこかの誰かと同じ色の髪で、瞳で。
うまく回らない子どもの舌は、時として大人の雄弁な演説よりも胸を打つ。
「しあわせも、かぞくも、すててしまったって」
「ジゼル、やめろ」
息が苦しい。
「でも、たいさ」
この子は一体、何を吹き込まれた?
「おばあさまがいってた。うまれてくるときに、わたしたちは、てんごくでのきおくをうしなうの」
「ジゼル、やめろ」
「だからわたしたちは、ほんとうはみんなてんごくからきたの。だからきっと、さいごには」
この子は何を持っている?
「ジゼル」
「――たいさだって、しあわせになっていいはずよ」
「黙れ!!」
小さな手が伸ばされた。
(おかあさん)
その手が目の前で焼け落ちる錯覚を覚えて、マルクスは頭を振って抵抗する。どちらが幼子か。いや、もう、彼にはそんな風にしか見えないのだ。
息を吸えば人の焼けるにおいがする。
地を踏めば誰かの亡骸を踏む。
あなたのせいだ。おまえのせいだ。たすけて、痛い、たすけて、帰りたい、たすけて――
「やめろ、やめてくれ……っ!」
脚が痛い。
頭が痛い。
心が痛い。
痛い、痛い、痛い。
許されるわけがないのだ。
(我らは天の国へ迎えられる。何があろうとも。神は我らを見捨てたりはなさらない。……だが、貴様らはどうだ?)
落ち窪んだ浅黒い眼が爛々と光る。黒い革手袋につかみかかる手は骨ばって、干からびた皺の間には垢がたまっていた。男が喋る度に、にちゃにちゃと粘った飛沫が飛ぶ。
(死ぬまで悔やめ、十字架を背負え! 貴様らに安息など訪れない!! ああ、神よ! 我らが、我らのみが救われるのだ!!)
狂っている。
この男に楽園を与える神は、果たして我らが信ずる神と同体であるという。だとすれば、間違っているのは誰だ?
(地獄へ堕ちろ、汚れた狗め!!)
銃声。
――空薬莢が床に落ち、跳ね返る音さえ聞こえるような。叫びは書物のあふれた部屋においてなお反響した。
薄い肩がびくりと跳ねる。聡明で溌剌としたこの子を怒鳴りつけたのは初めてだ。
「俺にそんな権利はない! あんな、あんなおぞましいことをしておいて、どうして安閑と生きられる? ……俺には無理だ。耐えられない。だというのに」
言うべきではないと分かっていた。
理解し得ないと分かっていた。
分かっていながら、止められなかった。
「――俺は忘れてしまったんだ。束の間とはいえ、お前と過ごすことで……ごく普通の、至極ありふれた、なんでもない日を生きてしまった……」
情けなく、その声は掠れた。骨ばった手で顔を覆った。自嘲気味に、疲れたように、やつれた様子でマルクスは唇を吊り上げる。ぎちぎちと締め上げるような足の痛みが再び襲ってきた。
もし、人並みに生きていれば。もし、家庭を持っていれば。子が、孫がいれば。戦争に行かなければ。――戦争がなければ。
数え切れないほどの「もし」を想定した。そんな仮定を体現したかのような存在が、ジゼルだったのだ。
たいさ。
舌をもつらせそうにして彼を呼び、光の中で笑う子ども。
希望。そう呼んでもいい。彼女は眩しい。あらゆる可能性を持って生きていく、祝福されるべき子どもである。とても自分がそばに置いていい子ではない。その可能性をつぶしてきた、そんな希望さえも根絶やしにしてきたような自分では。
すべては己が選び取ってきた道だった。仕方のないことだと、それが運命であったと受け入れたはずだった。
「戒めだった」
脚がひどく痛むようになったのはここ五年。彼が過去を反芻して日を暮らすこと二十年。山奥の屋敷でひっそりと、人と触れ合わず、己の内を見つめて。ただただ懺悔を繰り返す毎日だった。
自己嫌悪の波と後悔の海。悪夢にうなされ溺れかけ、罪悪感は決して消えない。
けれど彼は死ぬことを許されなかった。それは自らの唯一の死が他の数多の死の否定であると彼自身が理解していたからだ。彼の命は部下と、同じ心臓を持ちながら銃を向け合ってしまった同胞と、同じ血が流れながら助け合えなかった人々の、骸の上に成り立っている。
生きなければならない。己の罪の意識に耐えかねたという無責任な自分の意思のみで、勝手に死ぬことは許されない。けれど自分はまっとうな人生を送れはしない。いや、送ってはいけない。ならばどうすればいい?
だからせめて――男は一切の幸福を捨てようと、望んだのだ。
(大佐)
誰かの声がする。ああ。忘れない。忘れるものか。
「……すまない。不愉快だろう。やはりお前は、家に帰った方がいい」
大人気なくも小さな子どもに胸の内を吐露して冷静になったのか、マルクスは乱れた前髪をクシャリと掴んで天井を仰いだ。先ほどまで室内に残っていた太陽の残滓は消え失せて、東から夜がやってくる。今更ながら自らの発言に、酷く後悔していた。
ここまでされれば、きっとこの子は帰ってしまうのだろう。青い瞳に零れそうなほど涙をためて、俯いたジゼルの肩を押す。
「たいさの、わからずやぁ……!」
しかし踵を返すかと思われたジゼルはふるふると首を振り、マルクスの脚にしがみついた。
「どうして? どうしてたいさが、たいさだけ、いたいおかおをするの? なんで? なんで?」
とうとうあふれた雫がマルクスの膝を濡らしたが、木製の左膝はその温度も感触も伝えない。けれど何故だか、脚が熱い。
「たいさはやさしいもの。そんなのつらいもの……」
「待て、ジゼル。おい、泣くな。泣くんじゃない」
終いにわあわあと引きつるような大声で泣き始めたジゼルは、マルクスのことなどお構いなしだ。ぎょっとして脚を払いかけたが、こうなると子どもとは恐ろしいもので、どこにそんな力があるのか、引き剥がそうとしても離れない。
「泣くな。……お前に泣かれると、どうしたら良いか分からない」
熱も、感触も伝わらなくとも、振動だけは感じる。パタパタと溢される涙が、マルクスには神聖なもののように思えた。
この子は泣いてくれるのか。こんな自分のために。
マルクスは目線を下げ、かちゃかちゃと鳴る義足にしがみつくジゼルを見た。子犬のようなブラウンの毛は絡まって、擦れた頬は赤く乾燥してしまい、痛々しい。名前を呼ぶと、ジゼルはひっくひっくとしゃくりあげながらも、一度涙を止めて見上げる。
ゆっくりとその柔らかな頬を撫ぜて初めて、彼は今までこの子に手を触れてこなかったという事実を知った。
「……いい子だ」
庭仕事でかさついた手――かつて武器を取り、罪を犯した手で――彼はようやく、柔らかな生命に触れる。
(大佐)
誰かの声がする。
(もう、大丈夫ですよ)
――ああ。
締め上げられた万力が、緩んだ。