枷
不思議なものだ。
それがどんなに望まぬことでも、生まれた命は絶対的に「良い」ことであり。
それがどんなに望んだことでも、産まれた命を絶つことは絶対的な「悪」であり。
それがどんな望みであろうと、産まれる前の命は、殺してしまっても「罪」にはならない。
産むか、産まぬか。
そこで命に差をつける。
「おかあさん」
運悪く、消えもせず、流されもせず、産まれてしまった私は、
「おかあさん」
母親という人の背中を追い続ける。
母親はこの先、苦しむより他に道はない。
私が産まれてしまったから。
この人は、たった数ヶ月、私に気付かなかっただけで、
「おかあ、さん」
私を産む以外の選択肢を失ってしまった。
殺人は罪だ。一生背負うべき枷。
この人は、私を殺そうとも、私を生かそうとも、たとい私を捨てようとも、私を愛せず、私を許せず、罪の意識に苛まれ続け、先の見えない地獄を生きていかなければならない。
たった、数ヶ月。
受精し、着床し、細胞分裂の進む前までは、そこにある私の命を消しても、罪にはならないのに。
中途半端に惜しんでしまったから。
母親そっくりの顔立ちで、父親そっくりの髪や声で、
「おかあさん」
産みの親を呼ぶ私を、貴女はどんな気持ちで見ていたのだろう。
「おかあさん!」
「呼ばないで。呼ばないで、お願いだから。あなたに罪はない、あなたは間違ってなんかない、間違えたのは私。もう間違えたくないの、だから近付かないで。私は私のために、あなたを殺したくなんかない」
そう思っていながら、どうして私を育てられたのだろう。
気づけば私は物心というものを覚えて、気遣いや、察することを覚えて、空気を飲んだ。
「ここに、置いとくね。おはな、摘んだの。あみちゃんと」
「……ありがとう」
「うん」
お礼を言われて当然、謝らなくて当然。悪いのは全て母親で、私は何も悪くない。
私はただ、産まれただけ。
そういう態度をとることで、母親はいくらか気分が落ち着くみたいだった。不安定な人だった。責められていないと、落ち着かない。
数ヶ月に1度顔を見せる父親という人は、その度に髪を変え、服を変え、居場所を変えて暮らしているようだった。
まれに、その居場所がうちになることもあった。
特に乱暴も起きない。物は飛ばない。ヒステリックにもならない。
「あそんでくるね。あみちゃんと」
「いってらっしゃい」
優しい人だった。常に悲壮と疲労を纏う妻と、妙に大人びた娘を見ても、何の口出しもしなかった。関係を改善することも、悪化させることもない。沈黙、それが私達には一番の優しさだった。
いつか父親に尋ねたことがある。
「お母さんはどうして、私を産んだことをあんなに後悔しているの」
籍も入れ、届けを出し、認知もし、悪い父親でもない。
父親自身もそれを解っていて、最初の頃は隣で見ていたはず。お腹の小さい頃の母親と、よく一緒に写真に映っていたから。
父親は言った。
「そうだね。不思議だね」
妙に薄ら寒い答えだった。
「どうしてだと思う?」
否定もせず、私に問いてくるこの人は、あくまで他人事として話していた。
私の気持ちも、母親の気持ちも、父親としての気持ちも、何一つ考えることのない。
母親も、父親も、人としての何かが欠落していた。私には分かった。それ以上は尋ねなかった。
仲のいい友達は沢山出来た。先生にも沢山褒められた。美術のコンクールで受賞した。文化祭の合唱では指揮を執った。クラス委員には毎年なった。友達と喧嘩もした。家に帰らないこともあった。髪も染めた。化粧もした。学年で最下位の成績をとった。自習室に通った。指導室に通った。推薦をもらった。やがて母親の背を越した。入試に受かった――。
何をしても、母親は「いい子ね」と「ありがとう」と「ごめんなさい」しか言わなかった。私のどの努力も、母親の前では叱咤の材料になって、突き刺す槍になって、母親を痛め続けた。私がようやく気付いたのは、高校の制服に慣れた頃、母親が入院してからだった。
「ストレスからくる過労ですね」
母親は働いていなかった。父親から毎月振り込まれるお金だけで生活していた。
「なにか最近、変わったことはございませんか」
「ありません」
「例えば続けていた趣味を止めただとか。或いは始めただとか。お隣に誰かが引越してきたとか」
「ありません」
「では、なにか原因となることに思い当たることはございますか」
「ありません」
「何一つ?」
「はい」
「一緒にお住まいでしたね?」
「はい」
「小さいことでも構いません。一見下らないことが、原因となるケースも多数事例がございます」
「ありません」
「……そうですか。いえね、神経へのダメージが相当ひどかったものですから。原因があるはずなんですよ」
「分かりません」
「そうですか。…では、お母様の身体を今以上に気遣ってあげて下さいね。少し手伝いをするだけでも、変わりますから。変化に気付けてあげられるよう、もっと近くで支えてあげてください。お母様は、心があまり強い方ではないですから」
淡々と答える私に何かを感じたのか、医者はやたら話を長引かせたがったが、それ以降は何も言わなかった。ただ汎用的なビタミン剤を出し、お大事にと口にするだけ。
母親には2週に1度のカウンセリングが課せられた。送り迎えは私がした。私は献身的に母親の治療に努めた。カウンセリングは週に1度になった。
医者は最後まで気付かなかった。私は言われるまま母親を気にかけた。父親は数年と姿を見せなかった。
今年の夏、母親は亡くなった。早い年齢だった。
葬儀には父親も親族として参列した。結婚指輪はお互い嵌めたままだった。
とうとう私は、聞けなかった。
どうして貴女は、私を愛さないの。
答えを理解できる歳になったと思うのに、ぼうっと空を見上げる母親を見つめては、言葉を心に溜め込んでいた。叶うならこの心ごと、母親の遺体と共に焼き払って欲しかった。最も、葬儀に母親の亡骸は無かったのだが。
母親は神棚に飾られた。高価な装飾に、心なしか戸惑っているように見えた。生前、地味な色を好む人だったと父親は言った。
亡くなってから、父親は母親の話をよくするようになった。私を見つけた時の話もした。
「嬉しそうだったよ。とても、輝いた顔をしていた。まるで宝物を見つけたかのように」
父親は笑っていた。
「俺も嬉しかった。だって、命が生まれるというのは、素晴らしいことだから」
命が生まれるというのは、素晴らしいこと。
「そうさ、無条件に喜ばしいことなんだ。産婦人科の先生も、みんな笑っていた。喜んでいた。おめでとう、と祝福が沸いた」
だから、私を産んだ。
素晴らしく、喜ばしい命を、産んだ。
それが「良い」ことだから。
父親はそれを母親に強要した。
それが「良い」ことだから。
「でもあの子は、ダメだったようだね。あの子には、良くないことだったらしい」
母親は解っていたのかもしれない。私が生まれながらに、産まれることを望んでいなかったことを。
「死んでしまうのは悪いことなのに」
母親がいた頃より少しだけ裕福になった私は、父親からの仕送りを全て断った。
私はもう、1人で生きていける歳だった。
「死んではいけないよ」
父親は繰り返した。感情のない目で、私とよく似た声で、
「殺人は罪だ。一生背負うべき枷だ」
私の枷は、母親と同じ空を見て、うわ言のように呟いた。