第一話のその前③
早朝、始発電車が動き出す時間に、僕は家を出た。
暮らすなら、海が見える町がいい。
駅の運賃案内板を見ながら、何故か僕はそう思って、行く方角だけを決め、券売機で入場券のみの切符を買う。
気になる町に降りて、後からその分の運賃を払おう。
その方が、ヴィクトルも探しにくいだろう。
海のある方向へ向かうには、二回程、電車を乗り継がなければいけないらしい。
気のいい車窓さんが教えてくれた。
その案内の通り、僕は一回目の乗り継ぎを順調に終え、二回目の乗り継ぎ電車に乗った。
その頃にはお昼はとうにまわり、夕方近くなっていた。
夕方だからだろう。
人が多く、思わず眉を寄せる。
席を見渡し、空いている座席を見つけ、僕は荷物を抱きしめるように座った。
荷物には財布、通帳、印鑑、そして少しの着替えだけが入っている。
携帯電話は電源を切り、部屋の机の鍵付きの引き出しに入れた。
今頃、ヴィクトルは僕に電話をくれているだろうか。
そう考えて、少しだけ自己嫌悪に陥る。
ああ。もう。馬鹿だ。
自分から離れておきながら、彼のことを考えるなんて。
僕は目を伏せ、電車の揺れに身を任せた。
次の駅を告げるアナウンスが流れ、僕は視線を窓に向けた。
海はまだ見えない。
だが、あと少しのはずだ。
僕の隣に座っていた女性が立ち上がり、電車の乗り降り口近くに立った。
肩までの髪を一つに結び、シャツにジーンズとシンプルな格好だが、スタイルがいいせいか、格好がよい。
まっすぐ前を向く姿は、どこか潔く見えた。
僕はなんだかその女性から目が離せなくなった。
扉が開く音に、その視線をようやく外した僕は、隣の席ーーあの女性が座っていた場所に、ハンカチが落ちているのに気付いた。
女性はちょうど電車を降り、車窓の向こうを歩いている。
追いかけなければ!
僕は慌てて立ち上がった。彼女を追い、電車を降りながら、柄にもないことをしているなと思う。
だが、このままハンカチを見て見ぬ振り出来なかったのだから、仕方が無い。
「すみません!」
僕が女性に声をかけるのと、僕の後ろで電車の扉が閉まるのは同時だった。
「はい?」
女性は首を傾げて僕を見る。少しだけ、僕の方が背が高い。
「ハンカチを」
最初は怪訝そうにしていたが、僕の手に自分のハンカチが握られているのを見て、小さく声を上げた。
「ごめんなさい!私、ハンカチを落としていました?」
「はい。僕ーーいえ、私、隣の席で…」
初めて『私』と言ったので、少したどたどしくなってしまった。
だが、目の前の女性は気付かなかったようだ。笑顔を浮かべている。
「あ、そうでしたね!綺麗な子だなと思っていたんです」
女性はそう言って、僕ーーいや、私の手からハンカチを受け取った。
私は思わず、頬を緩めた。
女性のハキハキとした話し方に好感を持った。
「ハンカチ、ご親切にありがとうございました」
女性はそう言って、綺麗な動作でお辞儀をして、僕に背を向けた。
歩く後ろ姿も、凛としている。
こんな女性になれたらいいかもしれないな。
私はそんなことを思いながら、彼女から視線を外し、線路の方向へ体を向け直した。
電車は勿論、既に発車している。
さて。また電車を待つことにしようかな。
そう思っていた所で、グイと手を引かれた。
……まさか。
ヴィクトル?
恐る恐る、私は振り返った。
だが、そこにいたのは、私の頭に浮かんだ人物ではなく、先ほどの女性だった。
「あなた、もしかして、わざわざ電車を降りてくれたの?」
その言葉に私は目を瞬かせた。
何故、そんな当たり前のことを聞くのだろう。
私が頷くと、女性は大きく目を見開き、そして、肩を落とした。
「ほんっとうに、申し訳ないことをしてしまったわ。一時間は次の電車来ないのよ」
「ああ、そうなんですね。じゃあ、次の電車を待ちます」
私が待合室を探そうと周囲を見渡していると、女性は再び私の腕をとった。
「駄目よ、もうすぐ暗くなるわ。それに、お礼もさせて欲しいし」
女性はそこで一度言葉を切ると、にこりと笑った。
「急ぎの道中?でないのなら、あなたの時間を私に頂戴?」
「…どういうことですか?」
女性は、斎藤美鈴と名乗り、私を引っ張るようにして駅を出た。
美鈴に連れて来られたのは、駅舎のすぐ脇にある、昔ながらの佇まいを見せる小料理屋だった。
木の看板は年季が入り、『松風』と書かれた文字も味がある。
この小料理屋の女将と、美鈴の母は幼馴染らしい。美鈴の母は、美鈴が幼い頃に亡くなってしまったが、その縁で、ずっとよくしてもらっているのだと、美鈴は言って笑った。
暖簾を潜れば、カウンター席が八席だけあるのが分かる。本当に小さな店だ。
「あら、美鈴ちゃん。いらっしゃい」
ふくよかな女将の柔らかな声と、それに答える美鈴の笑顔。
この場所は、私が体験したことのない、暖かな空気に満ちている。
そう思った時、ようやく私はこういう場所が、欲しかったのだと気付いた。
美鈴が羨ましく感じるとともに、そこに今、自分がいるという現実が、私の張り詰めた気を緩ませていった。
「…家出ですって?」
美鈴と女将が、揃って驚きの声を上げた。
美鈴にこれまでの経緯を、極々簡単にーー早朝、簡素な荷で家を出てから今現在までのことを伝えれば、二人は目を瞬かせた。
「はい。端的に言えば」
私が頷くと、美鈴はグラスの烏龍茶をグイッと飲み干した。
「理由は、聞かない方がいいわね?」
私をチラリと見てから、美鈴は嘆息した。
普通、家出した子どもが居たら、理由を聞き、帰るように説得しようとするだろう。
だが、二人はそれをしなかった。
気配を読める人は嫌いじゃない。
私が、そんな説得に絆されるように見えなかったのだろう。
小料理屋自慢の筑前煮を食べながら、私は目を細めた。
美味しい食事に箸が進む。
聞き上手、話し上手の彼女たち二人に話が弾み、合間合間に笑い声が起こる。
一人きりの静かな食事が常だった私にとって、こんな時間は新鮮で、少しはしゃいでいるのだろう。
私の口も少しだけ軽くなっていた。
時間はあっという間に過ぎ、もうそろそろ、駅へ向かわないといけない時間だ。
自分でも驚くべきことに、それが惜しいと思えるほど、私はこの時を楽しんでいた。
「葵、楽しそうね」
「え?」
突然、どこかから声が聞こえ、私は周囲を見渡した。
聞き覚えのある声だ。
そう、確か、この声は『海を見に、あなたと』の作者の声ではないだろうか。
だが、周りにあの女は見えない。
幻聴か。
私は安堵の息を吐き、顔を女将へと向け直したその瞬間、私は驚きで体を強張らせた。
女将の顔の横に、女の上半身が浮かんでいたからだ。
「あ、やっと見てくれた」
面白がられていると私に感じさせる嫌な笑みを女は浮かべて、私を見ていた。
女から急いで女将と美鈴へと視線を移すと、前回同様、二人とも停止している。
壁に掛けられた時計の秒針も、動いていない。
「…今更何の用?」
「やだ、葵。そんな怖い顔、しないでちょうだい」
「…だから、何の用なわけ?もう、この世界は、あなたの手を離れたと思っていたけど」
私が睨むと、女は口角を上げた。
「まあ、いいじゃない。今回だけ、ちょっと、きっかけを作りに。これで、後はもう動き出すわ」
女はそう言うと、そっと女将の頭に触れた。
「何やってるの?!」
慌てて立ち上がったせいで、椅子が大きな音を立てた。
女を捕まえようと手を伸ばす。
が、しかし、その手は空をきった。
女は上半身を急激に小さくさせていったからだ。
女はニヤニヤと笑いながら、「じゃあね」と一言告げ。
消えた。
カチリ。
小さな音を立てて、時計の秒針が動き始めた。
「あら、葵ちゃん。どうしたの」
「…いえ、なんでもありません」
立ち上がっていた私に、のどかな声で女将に尋ねられ、私は椅子に座り直した。
苦々しい表情を浮かべているのが、自分でも分かる。
女将は美鈴と顔を見合わせていた。
あの女は、女将に何をしたのだろう。
今のところ、先ほどまでと違いはないが。
そんなことを思っていると、女将が良い事を思いついたというように、手を叩いた。
「そうだわ、葵ちゃん!」
「なんですか?」
「あなた、私の家で働かない?あ、葵ちゃんが良ければ、住み込みで是非!」
「ーーえ?」
突然の女将の申し出に、私は目を瞬かせた。
「おばさん、それ素敵だわ!」
美鈴は、女将に賛同すると、二人して期待した目をして私を見てきた。
ここで、働く?
この、私が?
三度瞬きし、二人を、この店を見渡して。
その瞬間、理解した。
これか。あの女の導きたかったことは。
私は唇を噛む。
その申し出に、惹かれる自分がいる。
あの女の導き通りの行動はしたくない。だが、私が、否と言えないことを、あの女は分かっていただろう。
あの女は、作者だったのだ。
私の心の内なんて、恐らく、あの女には想像の範疇だ。
どうして、あの女が、こんなことをするのかは、分からない。だがーー。
「よろしくお願いします」
私はその提案を受け入れた。
*****
「葵ちゃん、来たよ!」
「いらっしゃいませ」
三週間働いて、ようやく笑顔を浮かべるのに慣れて来た。
女将のように、着物に襷をかけた姿で働くのは、まだ少し難しさを感じるが、初日よりはだいぶマシだ。
素早く水をカップに注ぎ、美鈴の前に出す。
美鈴の礼を、私は口角を上げて受け取った。
「葵ちゃん。可愛いねえ」
そんなやり取りを見ていた常連のおじさんーー確か瀬崎という名前だったーーが、声をかけてくれる。腹を揺らし笑う様子が、ひょうきんだ。
それに、嘆息しながら、私は瀬崎の好物である里芋の煮っころがしを差し出した。
「はいはい。お世辞より、お金を落として行ってくれる?」
「おお、葵ちゃんに好物覚えられてちゃ、そうせざる負えないな」
「うん、是非そうしてください」
「こら、葵ちゃん!お客様に何て口聞くの。でも、ありがとうございます」
女将は、私を睨めつけた後、笑顔を瀬崎へと向けた。
「瀬崎様。ちょうど今日、瀬崎様がお好きな日本酒も、良いものを仕入れたのですが、いかがです?」
瀬崎は目を瞬かせ、そして既にビールが入っていたグラスを飲み干した後、大笑した。
「流石女将。葵ちゃんより、商売が上手い」
「あら、嫌だ」
瀬崎の笑い声に、女将も合わせて笑う。
私はそんな様子に呆れ混じりながらも、頬を緩ませ、日本酒の杯を用意する。
そんなやり取りを、美鈴は笑いながら見ていた。
私より二歳上の十九歳で、少し遠くの大学に通う美鈴は、小料理屋松風に来るのは、金曜日の夜と決めているそうだ。
次の日が休日だからか、美鈴は、いつもひとしきり出された料理を食べ終え、閉店間際になるまで、ゆっくりしていく。
「今日は、どうだった?」
今日もいつものように美鈴が最後の客だ。
食事を食べ終えた美鈴は、ゆったりお茶をすすりながら、私にそう尋ねた。
賄いを乗せた盆を美鈴の隣の席に置きながら、私はその質問に首を傾けた。
今日は早めに仕事の片がつき、いつも閉店後に食べる賄いを少し早めに頂くのだ。
私は美鈴の隣の椅子に座り、しばし思案した後、口を開いた。
「今日は、常連の方の名前を一人、覚えました。美鈴さんは、どうでしたか?」
「うふふ。私は、彼氏と別れた」
「あらまあ」
「……」
あっけらかんと笑いながら告げた美鈴に、女将は頬に手を当て驚きの声を出し、私は無言で目を見開いた。
そんな私たちを見て、美鈴は首を横に振った。
「深刻にならないでね。性格も良くない男だったから、そんなに好きじゃなかったし」
「好きじゃないのに、付き合ってたの?」
それは、私にとって当然の疑問だった。
父を愛し、その恋が実らないが故に、病んだ母を見て、育った。
愛故に、母は壊れ、父は自分たちを捨て、義弟は生まれ、私は男の格好を強要された。
愛は、人を狂わすものだ。
だから、恋が破れて、明るく居れる美鈴が、不思議だった。
私の問いに、美鈴は少し困ったように眉を下げた。
「好きじゃなくても、付き合えるのよ。でも、今は少し後悔してる」
「そういう恋を繰り返して、本物を見つけて行けばいいのよ」
女将が、にこにこと笑いながらそう言うと、美鈴は安心したように息を吐いた。
そして、私の方へ体を向け直した。
「葵ちゃんにとって、恋ってどんな形?」
その目が真剣そのもので、私は思わず美鈴から目をそらした。
恋とは。愛とは。
「怖いもの、溺れるもの、かな」
その言葉に美鈴が、驚き目を瞬かせたのに気付き、私は薄い笑みを浮かべた。
そんな私の頭を、女将はそっと撫でた。
「それも、一面よ。でも、それ以上に素晴らしいものだと知ってほしいわね」
女将の言葉に、頭の中に映像が浮かび上がる。
柔らかな茶色の髪と目を持つ彼が、満面の笑みで私を見ていた。
ーーヴィクトル。
貴方なら、その素晴らしい部分を私に教えてくれただろうか。
私は一度目を閉じて、そして真っ直ぐ美鈴を見つめ直した。
「私は、逃げてきたんです」
「何から?…ううん、違うか。誰から、逃げてきたの?」
優しく美鈴に尋ねられたが、私は首を横に振った。
「ヴィクトル」と名前を口に出して呼んでしまえば、彼の話をしてしまえば、
何かが溢れ出しそうで。
それはまだ、怖くて。
出来なかった。
「…私は、自分を自分の力で変えたくて。でも、壊れてしまうと。彼といてはいけないのだと」
ああ、支離滅裂だ。
「訳が分からないですよね、すみません」
私は女将と美鈴の顔を交互に見ると、女将たちは、何か言いたげな、なんとも言えない顔をしたまま、黙っていた。
それに苦笑しつつ、賄いの膳を片付けるために立ち上がった。
その日の夜は、中々寝付けなかった。
目を閉じれば、彼が浮かぶ。
ねえ、ヴィクトル。
貴方は、もう私を探してはいないかな。
それとも、まだ探してくれているのかな。
もう、三週間経ったよ。
早く、
私を見つけてよ。
私はきつく、きつく、目を閉じた。




