第一話のその前②
朝早く、かけてきた電話の先で、学校の理事から慇懃な態度で告げられた言葉は、俺を驚愕させた。思わず携帯電話を取り落としそうになり、きつく電話を握り直す。
「ーーもう一度、言ってくれないか」
「日向葵は、本日付で退学となりました。日向本人からは、誰にも報せないで欲しいとの要望を受けましたが、こちらとしましても、貴方には寄付金等援助頂きましたので、お知らせ致します」
どういうことだ?
だが、それ以上の詳しい話は拒否され、俺は電話を自室のソファに投げつけた。
意味が、分からない。
葵が学校を辞めたって?
待て。昨日は、普通に送り迎えをした。その時に、彼女は何も言わなかったじゃないか。
俺は慌ててソファに放った携帯電話を再び手にし、葵の携帯電話に電話をする。電話のコール音はすぐに無機質な声に変わった。電波が入っていないという案内を聞きながら、水族館での葵を思い出した。
女の格好の彼女は、俺の想像以上に綺麗だった。
水族館の水槽を、イルカを、目を輝かせて見る可愛い彼女の視線を独り占めしたくなった。
その想いを行動に出し過ぎたかもしれない。
葵が、困惑しているのに、気付いていた。
それが嬉しくて、フォローしなかったのは、俺だ。
思わず眉が寄る。
俺は電話を切ると、再びアドレス帳を液晶画面に表示させた。
先ずは、情報だ。
紗理奈に電話をかけるが、紗理奈も知らなかったようで、大きく動揺し、担任に聞くと言って電話を切った。
理事が話せないことを、一教師が話せるはずがない。
ああ、嫌な予感がする。
俺は葵の家に向かうべく、車庫へと向かった。
葵の家は、相変わらず立派だ。
日本家屋という名の相応しい、重厚な佇まいに、広めの庭はきちんと整えられている。
木の門の正面に、車を止める。門はきつく閉ざされていた。
「ごめんください!」
大声を張り出し、門を思い切り叩く。
「葵!葵!!」
しばらくそうしていたが、一向に門が開くことも葵が出てくることもない。
俺は呆然とその門を見上げた。
絶望にも近い感情が俺の胸を支配する。
葵。どうして出てこない?
肩を下げ、俺は踵を返した。
葵に会えないのなら、ここに居てもしょうがない。
どうにか会えるようにするにはどうしたらいいだろうか。
そんなことを考えながら、三歩程歩いた時。
背後で低い音を響かせながら、門が開いた。
慌てて振り返れば、そこには女が立っていた。
顎の尖った痩せぎすの女は、俺を品定めするように視線を一巡させた後、「どうぞお入りを」と言って門の先へと誘導を開始した。
女の背中を見ながら、俺は調査書の内容を頭の中で反芻させた。
女を、三田美江子だろうと当たりをつける。
葵の母に心酔し、日向家に若い時から出入りしている女だ。
美江子は廊下の右奥の襖の前で止まった。
「椿さん。お連れしました」
「ああ、そう。お入れして」
美江子によって襖が開かれ、中に入るよう促される。
中には、日向椿ーー葵の母がいた。
「どうぞ、お座りになって」
椿は俺を見ることもなく、そう言うと、手にしていた扇子を、ぱちぱちと小さな音を立て開閉させ弄び始めた。
黒に白いものが混じった髪を一つにまとめ、着物を緩く着た椿は、顔の造形こそ美しいが、肌の青白さのせいか、俺にはどこか不気味にさえ思えた。
この女が、葵の母親か。
俺が椿と机を挟んで向かいに座ると、椿はようやく俺を見て、そして、その涼やかな目元を細めた。
「あなた、ご近所迷惑ってご存知?」
「そうですね、知っております」
「あら、そう。朝早くから大声と大きな音を立ててらっしゃるから、ご存知ないのかと思っていたわ」
「すぐに出ていただければ、俺もそこまでしなかったのですが」
「あら、あら、あら、あら」
椿は扇子で口元を隠すと、肩を震わせた。
「…あなたは、私が悪いと仰るの?」
「いいえ、まさか。ーーそんなことより、葵はご在宅でしょうか?」
「あらーー」
ぱちん。と一際大きな音をさせ、椿は扇子を閉じた。
そして、ひとしきり笑うと、手に持つ扇子を俺の額に向けて投げつけた。
パシン!
軽い音を立て、その扇子を俺が顔の手前で止めると、椿は目を瞬かせたが、すぐに悔しそうに顔を歪めた。
きつく俺を睨む。
「やっぱり、あなたなのね。葵に、私の息子に付きまとっていたのは」
「息子、ですか」
俺はその言葉に、眉を寄せる。
「ええ。私の愛する息子。日向家の跡取りよ。その息子に、あなた、最近ずっと付きまとっていらしたでしょう?」
「俺には、貴女の『息子さん』に付きまとった覚えはありませんが」
俺は笑ってそう言ってやる。
『貴女の娘さんに』付きまとったと罵られるなら、何も反論しませんがね。
椿は俺の内心が分かったのだろうか、瞬時に目を釣り上げた。
「…息子よ、私の息子!」
椿は、絶叫した。
「あの子にあなたが付きまとったから、あの子は居なくなったのだわ!」
「ーー居なくなった?」
俺は腰を浮かす。
「どういうことです?」
「知らないわ!わたしが知るわけがないでしょう?あの子は居ないのよ!朝起きたら、居なかった!返して、返して、返して!わたしの息子よ、返して頂戴!」
そこまで言って、椿は机に突っ伏し、号泣し始めた。
ああ、不快感で吐きそうだ。
この女は、正気だ。
頭がおかしくなっているわけではない。
葵が女だと、しっかり認識した上で、息子だと言っている。
今だって、号泣してはいるが、それは葵が居なくなったことに、悲しむというよりも、葵の不在に癇癪を起こしているように思える。
俺は立ち上がった。
こんな場所に居たくない。
泣き続ける椿を一瞥し、俺はこの場を後にした。
日向家を出て車に戻ると、俺は携帯を懐から取り出した。
念のためを思い、葵にもう一度連絡するが、やはり繋がらない。
家に居ない。誰も行き先を知らないとなると、葵は、確実に日向家から、俺から、離れようとしているのだろう。
ライナスのざわつきが、俺の動揺を更に助長する。
思わず泣きたくなって、目をきつく閉じた。
「葵」
名前を呼べば、胸に宿るのは愛しさだけだ。
葵。
そんなに俺が嫌だったのか?
しばらく、そうしていたが、手に持っていた携帯のバイブが震えるのを感じ、慌てて目を開けた。
葵かと期待して画面を見れば、そこには国分寺立希という文字が表示されていた。
「もしもし?」
俺が出ると、耳に明るい青年の声が響く。
「あ、ヴィクトル。今日、母が夜勤なんだ。ご飯でも一緒にどうかな?葵さんとの話の続きを教えてよ」
平和なその声に、俺は思わず眉を下げた。
「立希。お前の『姉』が消えたよ」
「ーーは?どういうこと?」
ああ、その言い方、葵に少し似ているよ。
そのことに、国分寺立希が、日向葵と母親違いの兄弟だという調査書を読んだ時と似た衝撃を受けた。
二人は、本当に姉弟なのだな。
俺は電話の向こうで騒ぐ声を何処か遠くで聞きながら、そう思った。
立希の前世であるアルフレッドは、俺の前世ーーライナスの親友だった男だ。
魔法が得意で、王の腹心としても働いていた。
アンジェリカとアルフレッドは、早くに両親を亡くし、二人で力を合わせて暮らしていた。お互いを思いやる仲の良い姉弟だった。
そんな男を前世に持つ立希もまた、俺がアンジェリカのことを思い出した日と同じ日に、母親違いの姉、葵がアンジェリカだと気付いたらしい。
本妻とその娘を嫌悪していた立希は、それに気付いた時、頭がかち割れられるかと思ったと言った。
そして、その衝撃から立ち直った時には、もう、葵に会いたくてしょうがなかったのだと笑った。
それ程までに、仲の良い姉弟だったのだ。
立希と会うのは、立希の自宅ではなく、その近くのファミレスにした。
看護師である立希の母親ーー葵の父の愛人が夜勤に行く前の時間から、会うことになったからだ。
流石に彼女の前で本妻の娘の話をするわけにはいかないだろう。
ファミレスの一番奥の席で待って居ると、立希がやってくるのが見え、片手を上げた。
立希は学生服を着たままだ。学校を早退すると言っていたから、そのままやって来たのだろう。
青みがかった黒髪を流行りのスタイルでカットして、つり目がちの目を持つ彼は、俺の向かいに腰を降ろし、店員にコーヒーを頼むとすぐに俺に向き直った。
「ヴィクトル。葵さんが消えたというのは、どういうことだよ」
「分からない。だが、俺のせいだろうな…」
「本当に、何やってるんだよ」
立希に睨まれ、俺は苦笑するしかなかった。
「葵は、俺が嫌だったんだろうな。だから、消えたんだ」
俺のその言葉に、立希は目を瞬かせた後、大きく息を吐いた。
「僕は、本当に葵さんに会いたかったんだよ」
「ーーああ、分かってる」
「分かってないよ。葵さんは、前世でも僕の姉だ。
母さんの手前、会うのも難しかったし、葵さんは愛人の子どもである僕を憎んでいるかもしれないけど。
それでも、僕はヴィクトルを介して葵さんと会うのを、楽しみにしていた」
「ああ。俺も思い出したよ。とても仲の良い兄弟だったもんな」
立希に攻められながら、遠い記憶がくすぐられる。
こんなこと、前もなかったか…?
立希の瞳が俺を射抜いた。
「そうだよ。僕たちはとても仲が良かったんだ。だから、僕だって、彼女の本質は分かっているつもりだ。アンジェリカは、臆病で、そして天邪鬼だったよ」
俺は、立希を凝視した。
「…ああ、そうだったな」
アンジェリカ。愛しい人。
ライナスの愛の告白を、受け止めるのが怖いと逃げたアンジェリカ。
自分から逃げたのに、本心では追いかけて来て欲しいと願っていたアンジェリカ。
「葵さんが逃げたのなら。それは」
立希の言葉に、思わず笑う。
本当に、困った子だ。
「捕まえて欲しい、ということだ」
俺は机の上に一万円札を置いて、立ち上がった。
「今日は済まないが、これで夕食でも食べてくれ」
「ヴィクトルはどうするの?」
「俺は、葵を探して、捕まえる」
立希は笑って一万円札に手を伸ばした。
「了解。頑張って捕まえて」
「ああ。勿論だ」
俺は立希に笑顔を返すと、足早にファミレスを出た。
すぐに、会社の部下に電話をする。
ワンコールで出た。
「俺だ。ああ、仕事な。うん」
今日は、葵が居なくなったショックで、会社に行っていない。
部下の電話も無視していた。そのせいだろう、部下がギャンギャンと何か言っている。
全く、煩いな。それどころではないというのに。
「すまないが、お願いしたいことがある」
俺の真剣な声音に、部下はやっと文句を言うのを止めた。
「なんでしょうか」
同じく真剣な声音で問いを返される。
「会社が関与する全監視カメラで、探して欲しい子がいる」
部下の絶句に、俺は口角を上げた。
葵。君を絶対に捕まえるよ。
そして、君を捕まえたら、
もう二度と離さない。
さあ、本気を出そうじゃないか。