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最終回のその後②

「は?勘弁してよ」


僕は電話の先の相手に、げんなりとした声で応じた。



「……葵くん」

電話の相手ーー紗理奈が甘えた声を出した。

それに、嘆息する。


「あのね、紗理奈。越前くんと喧嘩したなら、二人で解決すべきだ。僕を巻き込まないで」



寝ようと思っていた矢先の、紗理奈からの電話は、越前と喧嘩したというものだった。


「…でも、越前くん、ひどいんだよ」

電話の先で、紗理奈が涙声を発した。

それに、僕は眉を寄せる。


全く。


相変わらず僕は紗理奈に甘い。


そう自覚しつつ「紗理奈」と優しく呼ぶ。

「しょうがないな。話を聞くよ」


「ほんと⁈ありがとう、葵くん」


弾む声を出して、紗理奈は話し始めた。


紗理奈のその変わり身の速さに、僕は眉を寄せた。

漫画が終わっても、日常が続くように、僕の役目も続いていくようだ。


事実、この世界が作者から離れても、変わらないことの方が多い。


紗理奈は相変わらず僕に頼ってきて、僕はそれを受け入れる。

馬鹿らしいと気付いたにもかかわらず、母に従って学ランを着続けるのもそうだ。



ーーそうか。

あんなに、自由を喜んでいて、実は、僕自身が変わろうとしていないのかもしれないな。


僕は紗理奈の話を聞きながら、思わず自嘲の笑みを浮かべた。




次の日。

すこし寝坊をしたせいで、いつもより慌てて玄関を出れば、何時ものようにヴィクトルが車の側に立っていた。


僕を認めると、ヴィクトルは片手を上げ笑顔を見せた。



この人も、相変わらず、懲りないな。


僕はそう思いながら、あの日から劇的な変化があったのは、この人の存在だけだということに気付き、思わず、ふっと口元を緩ませた。




抵抗するのも馬鹿らしく、今日は素直にヴィクトルの車へ近づく。


車の側でヴィクトルを見上げれば、彼は大きく目を見開き、僕を凝視していた。


「何?」


首を傾けると、ヴィクトルは大きな動作で天を仰いだ。



「ああ!神様!」


そう叫び、ヴィクトルは僕の両手を両手で包み込むと、頭を下げ、その手を自身の額へと押し付けた。


「葵。俺の可愛い葵。俺は、君が欲しいんだ」



包みこまれた手はすぐに引き抜いてやったが、その時のヴィクトルの懇願するような表情に、体の動きが止まってしまった。


僕のその隙を突いて、ヴィクトルは再び僕の手を取ると、車の助手席へと乗せた。


車はすぐに走り出す。


しばらくして赤信号で車が止まった時、ヴィクトルが助手席に黙って座る僕を見た。


「葵。今日は学校を休んで、このまま、出掛けないか?」


「は?」


僕は眉を寄せて、ヴィクトルを見た。ヴィクトルは笑顔を浮かべ、期待した目で僕を見ていた。


「駄目か?葵の行きたい所に行くし、ご飯も、もちろんご馳走する。それに、学校が終わる頃には、きちんと家まで送ると誓う」


青信号になり、ヴィクトルは顔を前に向け直した。


「馬鹿じゃないの」


そう言って、いつものように、拒否しようと思って、やめた。


学校に行っても、どうせ苛々するだけなら、たまには気まぐれを起こしてみるのもいいかもしれない。


「いいよ。行っても」



僕のその返事に、ヴィクトルが歓喜の声を上げた。そして、鼻歌を歌いながら、早速学校とは逆の方向に車を走らせ始めた。


その大げさなほどの喜びように、正直、僕は少し引いた。



「どこに行きたい?」

「貴方の好きな所でいいよ」

「うーん。じゃあ、海に行こうか。ーーいや、公園……じゃなく。動物園、でもなくてだな。そうだな、水族館はどうだ?」

「水族館ならいいかな」

ヴィクトルは、僕の反応を見ながら、どんどん提案していったが、最後の提案に僕が頷くと安堵したように笑った。


「じゃあ、まずは服を買いにいこうか」

「……服?どうして?」

「学生服じゃ、楽しめないだろ?」



そう言って、連れて行かれたのは、女性の服を扱うお店だった。

僕がいつもネットで買うような、シンプルなシャツやズボンは見当たらない。

女性特有の華やかさと上品さがある。


「もしかして、ここ?」

「そうだよ。葵に似合うの、俺が選んでいいかな?」


女物の服を僕が着るということ?


呆然とお店を見渡す僕を尻目に、そう言ってヴィクトルはうきうきと服を選び始めた。



ワンピース、タイトスカート、襟がリボンになったシャツ、キラキラとした飾りのつくカーディガン。

ヴィクトルは、様々なものを手にとっては眺め、棚に戻すことを繰り返した。

時折、店員を呼び、何かを話し合った後、また同様の行動をとる。


僕には、無理だ。


母に従わなければとは、もう思わない。だが、もうずっと男としてしか生きていない。

僕に、女性の服なんて着れるはずがない。



僕がようやく我に返り、ヴィクトルの行動を止めようとした、その時。


ヴィクトルはにこりと笑って、僕の側へ戻ってきた。


両手には何も持っていない。


僕はほっと安堵の息を吐くと、ヴィクトルはそんな僕を見て、苦笑した。


「そんな、気の緩んだ顔をするんじゃない」


そう言って、僕の手を取ると、ヴィクトルは店の奥へと僕を引っ張って進み始めた。



「なんなの?!」

「何と聞かれても、着替えないといけないだろ」

「いやだ」


抵抗する僕を無視して、ヴィクトルは店の奥に隠されていた扉を開けた。


「ーー近江様」


扉を開けた先に居たのは、三人の女性だった。その中の一人が、ヴィクトルと僕を見比べながら、ヴィクトルの名前を呼んだ。


「急で悪いが、この子がお願いしたい子だ。宜しく頼む」

「うふふ。腕がなりますわ」


女性がそう言うと、残りの二人が、僕の左右の腕をそれぞれ抱き込んできた。


がっちりと腕を捕まえられ、僕は身動きが取れなくなる。



「ちょっ!離して」

「それは聞けないお願いですわ」


ヴィクトルと話していた女性は高らかに笑うと、ヴィクトルに向けて恭しく礼をした。

「では、近江様。申し訳ありませんが、部屋の外でしばらくお待ちくださいませ」


ヴィクトルを扉まで見送り、振り返った彼女は、口角を上げた。


その計算され尽くされた美しい笑顔を見た瞬間、この人には勝てないと、僕は悟った。


諦めてされるがままでいた方が、絶対に賢い選択だ。




それは、有る意味正解だったのだが、まさか下着まで、用意されているとは、思わなかった。


今までさらしで胸を潰していたことを知った三人の女性は、絶句し、それがいかに胸に良くないかを滔々と語り、ブラの選び方から付け方、洗い方まで教え込まれた。



ヴィクトルが選んだという服は、柔らかな生地のシャツとゆったりとしたシルエットの紺のパンツだった。両方ともシンプルなデザインで、意外と悪くない。


服を着替え終わったと思えば、女性の一人が短い髪を丁寧に櫛でとき、一人が簡単に化粧を施した。


最後に低いかかとの靴を履き、小さな鞄を持たされ、僕はようやく解放されることとなった。

僕がこの部屋に来て、一時間以上経っていた。


「完璧でございます。またのお越しをお待ちしております」


女性たちに見送られ部屋を出るとすぐに、ヴィクトルが興奮した様子で近づいてきた。


「葵!綺麗だ!俺の想像以上だ!」


満面の笑顔で僕を褒め称えたヴィクトルは僕の手を取ると、僕の手の甲に唇を寄せた。


「ヴィクトル!」



僕は絶叫した。

慌てて、手を引き抜く。

僕はその手を反対の手で胸の前で強く握った。

ヴィクトルを睨みつけるが、ヴィクトルは嬉しそうな顔で僕を見ていた。


「初めて、名前を呼んでくれたな。今日は嬉しいことばかりだ」


笑うヴィクトルは僕の腰に素早く腕を回した。


それに、抵抗しようとするが、強い力でそれを抑えられ、ヴィクトルの車へと自然な動作で誘導される。

そして、助手席に押し込められた。



助手席のドアからヴィクトルは笑顔で僕を覗き込むようにした。

「さあ、葵。シートベルトして。水族館に行くぞ」

その甘い甘ーい声を発したヴィクトルは、僕の頭を優しく撫でて、僕がその手から逃れようとするより前に、その手を離し、助手席のドアを閉めた。


僕は憮然としながらも、ヴィクトルの言葉通り、シートベルトを絞める。


素早く運転席へと周ったヴィクトルは、僕がシートベルトをしているのを見て、「いい子だ」と言って笑った。




ほんと、最悪。



自分で選んだ状況だからこそ、抵抗しきれない自分を罵りながら、僕は視線を窓に向けてヴィクトルを無視することで、小さな抵抗の意を示した。


ヴィクトルに連れて行かれた水族館は、大水槽に様々な種類の魚や亀などの海洋生物がいることで有名な所だった。

平日の昼間だからか、遠く前方に大学生らしいカップルが居るものの、それ以外に人影はない。


人の目に、極力晒されなくてすむ。

僕はそのことに安堵した。


普段、外出することは多くなく、人と出掛けることなど、ほぼない。


さらしとは全く違う胸への締め付けと、いつもとは違う質感の服。それだけでも僕を当惑させるのに、そんな僕をヴィクトルがエスコートするという状況に、僕はとても混乱していた。



「葵。見てみろよ」


ヴィクトルは大水槽を指差し、明るい声を発した。

僕の腰から手を離したヴィクトルは、素早く僕の右手を取ると、僕の一歩前を僕の手を引いて歩いた。



僕のこの困惑に、あなたは気付かないふりをするんだね。



僕はヴィクトルの背を眺めながら、そう思った。




大水槽は、それを推す水族館だけあって、素晴らしかった。



僕の視界いっぱいに、小さな海が広がっていた。

左手で水槽にそっと触れる。

「……すごい」


僕の目の前を亀が、魚が、サメが、エイが泳ぐ。

それを熱心に目で追っていると、右手を引かれ、僕は眉を寄せた。

「なに?」

視線は水槽から動かさず、僕が尋ねると、ヴィクトルは苦笑した。


「こんなに喜んでくれるなら、俺を見てとは言わないことにする。でも、いつか、本当の海の中を二人で見に行こう」

「馬鹿じゃないの」


流石に、それは拒絶することにした。




昼食は、水族館内のレストランで済ませることになった。



ヴィクトルは、おしゃれなレストランに連れて行きたかったらしいが、水族館を全て見れていないし、僕の空腹感がピークに達したため、諦めてもらった。




昼食を済ませ、見に行ったのはイルカショーだ。


その時間には、少なかった来場者が徐々に増えてきていた。


親子連れやカップルが多い。

彼らは、一様に席を探す僕らを見ているような気もしたが、まあ、ヴィクトルの見た目が外国人だからだろう。

僕は無理矢理、そう思い込むことにした。僕の女の格好に違和感があるのではないと、思いたい。



ヴィクトルが見つけた空席は、少し隅の方で、周囲には空席の方が目立つ。

僕は、人がいないことに安堵しながら椅子に座った。




間も無く始まったショーに、僕はのめり込んだ。



水飛沫を上げてジャンプなどの華麗な技を披露してくれる。


「あー…。可愛いなぁ」


そう呟く声が隣から聞こえ、僕は同意の意を込めて強く頷いた。




イルカショーを見終わると、もう三時を回っていた。


「帰るか」と、ヴィクトルは少し寂しそうに笑った。

それに僕は、気付かないふりをして、頷いた。




ヴィクトルの車で再び朝来た店に行き、学生服に着替えた。


朝の店員三人が店のロゴがプリントされた紙袋に、着ていた女物の服を丁寧にたたんで入れてくれた。

なんだか、先程まで着ていた服が名残惜しいような気もする。


だが、今日以外で着ることもないものだ。

それに、家に女物の服を持ち帰る訳にもいかない。


「ヴィクトルが責任持って、持って帰ってくれるんだよね?」

そう言って、紙袋を押し付けてやった。





車は、順調に帰路を進む。

日が傾き始め、心地良い疲れが、僕の体を包んでいた。



「葵。寝てもいいよ。家に近くなったら、起こすから」

ヴィクトルが優しく笑いながら言った言葉に、僕は従うことにした。



車の振動が心地良い。

すぐに、うつらうつらと僕の意識は揺れ始めた。



「葵、君をこのまま連れ去ってしまいたい」


そんな言葉が聞こえた気がしたが、僕はその言葉を咀嚼する前に眠りへと引き込まれて行った。




*****



闇の中で、女の嗤い声だけが響く。


この声には聞き覚えがある。


いや、聞き覚えどころか、いつも聞いている声ではないか?



「葵さん。分かっているでしょう?」


そして、また、嗤う。

嗤い声が闇に反響し、頭の中に響く。

僕はビクリと体を揺らした。



「あ、葵起きたか?」


運転席から横目で僕を見て、ヴィクトルは僕に話しかけた。


僕は数回瞬きを繰り返した後、その明るい声に、少し安堵する。


「うん。今、どこ?」

「もうすぐ着くよ。ちょうど、起こそうかと思っていたところだ」


ヴィクトルはハンドルから片手を離し、その手を伸ばして僕の頭を軽く撫でた。



その手が気持ち良い。



すぐに離れて行った手が、名残惜しいとさえ、感じた。




ああ。


やばいな。



遠慮もなく僕のテリトリーに入ってくる彼が、僕の中で当たり前になってきている。

それが、そんなに嫌でなくなってきている。




「葵さん。分かっているでしょう?」

眠りから、目覚める前に聞いた母の声を思い出す。


「日向家の女は、強くなければなりません。負けてはなりません。状況に流されてはなりません。人に動かされてはなりません。人を動かし、世を動かす。そんな、女でなければなりません」



僕が二歳の時、母は夫を愛人に取られ、しかも、その愛人との間に男の子が産まれると知り狂った。


「だから、あなたはあの女の子どもに負けてはなりません」


そう言って、愚かな母は僕に男として生きることを強要し続けている。



僕は隣で運転するヴィクトルに見えないように、膝の上できつく拳を握った。



僕は、

他人に期待するのが、怖い。

他人を信じるのが、怖い。

他人に心を見せるのが、怖い。


もし、期待して、信じて、心を見せて、裏切られたら。



僕は、きっと母のようになるだろう。




車が家の前に着いた。

シートベルトへと伸ばした僕の手を、ヴィクトルは掴んで、止めた。


「葵」


ヴィクトルのその言葉と、僕を見る目には、懇願に近い色が混じっていた。


「……なに?」


「また、誘っても?」


真剣な目に見つめられ、僕は絶望した。



それに応えたい。


とうとう、そう思ってしまった。



僕は、無理矢理、口角を上げ、ヴィクトルを見た。


「…そうだね。気が向いたら、ね」


言い捨てるようにそう言うと、ヴィクトルの手を振り払って、僕は車を降りた。




家に入ると、居間に母がいた。


テーブルを肘掛のようにして体を預け、緩く僕に体を向けた母の目は虚ろだった。



「葵さん。分かっているでしょう?」



そう言って、嗤った。


狂った女。その女の子ども。

これが、僕の現実だ。



体から血の気が引くのを感じる。


嗤い声に追われる形で自室へと向かった。



部屋の扉を閉じ、ようやく母の嗤い声が聞こえなくなった。崩れ落ちるように、床に座り込む。



この家から出よう。


僕は、ここにいたら、駄目になる。



「ヴィクトル」


彼の名前を呟いた。



頭に思い浮かぶのは、笑顔の彼だ。

その彼に、頭の中で話しかける。



ヴィクトル。僕は変わりたいと思う。



今日。

女の格好をして、貴方と出掛けて。

それも、悪くないと思えて。


確かに、僕は変わろうとしていた。



でも、それを決して僕は喜べない。


僕は、貴方の手で変わりたいとは思わないんだ。



この家を出て、誰にも行き先を伝えず、遠い地で女の格好で生活してみよう。

苦手なことも、あえて挑戦してみよう。


でも、そこに貴方はいらない。


貴方の手で変われば、恐らく僕は追い詰められる。



変わるなら、自分の手で。




もし、本当にそれを彼に伝えたら。


あの整った眉を情けなく下げるのだろうか。



そう思うと少し可笑しい。


ああ、でもそうだ。賭けをしようかな。



僕は、自分の考えに思わず口角を上げた。



ヴィクトルが僕を見つけることが出来たなら。


その時は…。


僕は貴方のものだ。

そして、貴方も僕のものだよ。


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